「海常なんかに渡すわけないじゃないですか」
にこりと笑った彼女を天使だと言ったのは誰だったか。
桃色の笑みを浮かべながら私の腕をつかんだ桃井は、そのまま柔らかな体を私に押し付けた。背中越しに感じた温かさと、私の手に重ねられた白い指。そして、楽し気に跳ねる声音。
「今吉さんと笠松さんがどんな約束したって、私には関係ないですもん」
するりするりと、彼女の指が私の指先から腕を伝う。
「も、もい」
「あーあ、そもそも今吉さんがまさか負けちゃうだなんて思ってなかったんですけどね」
彼女はくすくすと笑った後で、小さくため息をついた。
「男の子って本当に単純。負けたからって自分の好きな人を渡せちゃうんだもん。私だったらそんな勝負事で好きな人を失うなんてできませんもん」
あたかも日常の一片を過ごしているかのように錯覚さえしそうになるほどに彼女は落ち着いていた。それとは反して、私の心臓は奥の方からずくんずくんと大きく脈打っている。
「……ね先輩、痛い事したくないんです。だから、暴れないでくださいね」
ちくり、と首筋に感じた冷たい感触に息をのんだ。嗚呼そうだった忘れていた。彼女がかつて歌姫として活躍していた頃の二つ名を。
「混沌の、歌姫、ね……」
「ふふ、先輩にその名前で呼ばれると緊張しちゃいますね」
彼女は対象者の次の行動を読み取ることができる。勿論その能力は限定的なもので『対象者に触れている』ことが大前提となる。つまり今はその大前提をクリアしているわけであって、私が反撃しようものならば、彼女が私の首に押し付けている冷たく鋭利な何かが私を貫くという流れなのだろう。彼女の事だからその先端に何かの薬が盛られていたとしてもおかしくはない。
「ね、先輩。もう一回言いますね」
このままここにいてくれますよね、と百合よりもかぐわしい吐息が私の耳元に吹き込まれた。




夢の中では私はいつだって最強で、最高で、誰にでも頼られるような存在。だけど目を開ければそれが夢だったと気づいてしまって、またその夢の中に逃げるように目を閉じてしまう。誰もいなくても強くて、立派で、ちゃんと立っていける。
「だから、アンタに騙されても裏切られても、痛くもかゆくもないってこと」
「んー、全くわからん。生徒会長さんは随分難しい事言うんやの、って、待ち、そもそも騙すってなんやねん」
珍しく困ったような顔をしながら、今吉は私の頬をつねった。今吉は優しい。勿論それは私が彼と同じクラスで、一年生の頃からの所謂悪友で、今となっては彼は強豪バスケ部の部長で、私はこの学校の生徒会長。まるで青春ラブコメのようなシナリオだけど、根本的に違うのは彼の想い人は私ではないってことぐらいか。
「てか、そろそろ行かなくていいの?」
「んー、まぁまだ大丈夫やろ」
「自分が告白するために呼び出した女の子待たせるとかどんだけ性格歪んでんのよ」
頬をつまむ指をやんわりと押し返すものの、彼の指先は引き続き私の頬に残っている。それどころか、指先に少し力が加わった。流石に少しだけ痛みを感じて、眉をひそめると彼は少しだけ目を細めた。嗚呼、性格悪い。
「彼女にはこんなことしない方がいいよ。ドメスティックバイオレンスだよ」
「彼女、なぁ」
今吉が告白するらしい、という噂が流れてきたのはちょうど昨日の昼休憩中だった。生徒会室はその話でもちきりで、あの糸目眼鏡男の恋愛模様がここまで話題を掻っ攫うものか、と少し感心さえしたものだ。
彼の告白場所は、放課後の教室だと聞いていた。彼の想い人は一つ下の学年のあの子のはずだから、きっと其処に迎えに行くんだろうな。夕日に照らされた教室で、可愛いあの子に真面目に告白をする彼奴の表情はきっと、……なんて想像したら少し面白くも思った。
だから、せめて少しからかってやろうとまで思っていたのに、当日になっていつもに増して少しだけ彼が優しいものだから、いたたまれなくなって放課後のチャイムが鳴った途端、屋上に逃げ込んだ。
「……てか、早く行きなよ。何時に待ち合わせなの?」
「終わったからええよ」
「……は?」
あっけらかんと答えた今吉はもう片方の手で私のもう片方の頬もつまんだ。「ぶっさいくな顔やな」なんてけらけらと笑う男の考えが全く読めない。
「は?え、もう告白してきたの?お、おめでとう?ってか、待って、彼女は?え、なんであんたここにいんの?てかいつまで頬つまんでんの?痛いんだけど」
「えらい質問が多いなぁ」
やっと手を離したかと思えば、今吉の両手は私の肩に移動した。親指でラインをなぞるように動くその仕草がくすぐったくて、思わず体が跳ねた。
「そもそも、ワシが告白されたんよ」
「……うぇ、お、おめでと、う?」
じゃあ一体昨日回ってきた噂話は何だったんだろうか、なんて考える私の前で今吉はやけに真面目な顔をしている。それでいて、やっぱりどこか少しだけ優しい表情をしている。
「彼女と今日は一緒に帰らなくていいの?」
「せやなぁ、彼女と一緒に帰りたいなぁ」
自分で聞いたくせにそんな言葉が返って来て、思わず呼吸を止めてしまうあたり、私はきっとこの男に、嗚呼、もう、嫌だな。切れ長の瞳がこっちを見ているからやりきれなくなって目線を逸らすと「こっち見い?」なんて言われる始末だ。
「一緒に帰って、帰り道には手をつないで、ほんでまぁ、……キスぐらいはできたらええなぁ」
「っしょ、初日にしてキス?」
「そりゃそうやろ、ずっと好きやってん。キスで抑えることをほめてほしいぐらいやわ」
想像力豊かな脳みそが、彼と彼女のキスシーンを浮かべてしまってからはもう気づきたくもなかった感情が抑えようがなくなった。これはきっとあれだ、嫌がらせだ。彼はもしかして私でさえ気づいていなかった、その感情に気づいて、きっと私に嫌がらせをしているに違いない。そうとしか思えない。でなければこんなの。
「やけどな、まぁ、彼女次第では順序逆になってもええかなぁって」
「そ、う、なんだ。まぁ、いいんじゃないの?」
ああもうだめだ。肩を優しくなぞる指に、思わず涙腺が緩む。
「っ私、生徒会室行かないとっ」
ありもしない用事を口にして立ち上がろうとすれば、その前に彼の腕が伸びて私の身体が彼に倒れ込んだ。濃くなる今吉の香り。ワイシャツの質感。その奥にある引き締まったからだ。突然の事態に心臓が飛び出してきたんじゃないか、と思うぐらいに苦しくて、咄嗟に彼の名前を呼べばその腕が私の身体を強く抱きしめた。
「振った」
「え、あの、いまよ、し」
「かわええ子でなぁ、部活中もよぉ動いとったし、何より素直そうで彼女にはぴったりやってん」
「待って、話がよく」
「けどな、振った」
「今吉っ、意味わからないから、っ離して、よ」
ゆっくりと腕の力を緩めてくれた彼の顔がやっと見えたかと思えば、彼は困ったような顔をして笑っていた。
「ほんま、……厄介やなぁ、自分」
唇をなぞられれば、告白なんてされていないのにその意味を理解してしまって一気に体が熱くなった。つまり、つまるところ、彼が告白を断ったのは、ウソだ、そんなの。
「っからかって、」
「へんで。もう察しい?」
「無理。無理っ、頭良くないからわからない、っ……ちゃんと言われないと分からない」
強がって言ったくせに声は震えていて、顔が熱くてたまらないからきっと彼は私の感情に気づいている。其れだというのにそんなに幸せそうな顔をされたらどうしようもない。
「せやな。ワシが告白するーって噂が流れてきて、あない傷ついた顔されたらそりゃ嫌でも期待するわなぁ」
「っそんな顔」
「帰るときだって、さいならも言わずにさっさと教室出ていくとか、ワシのこと意識しまくりやんなぁ」
「っだから、っ」
「こんだけ期待させたんやから、今更お断りせんでな?」
おおきな手が、先ほどまで好き勝手つまんでいた頬をなぞった。
「好きや」
彼の感情はあまりに真っすぐで、いつものあのひん曲がった性格はどこへ飛んで行ったのかと苦情を入れたくなった。だけどそんな事を言えない程に私は彼に惚れこんでしまっていて、泣きたくなる気持ちを抑えながらも「私も」なんて答えてしまうのだ。



いっそのことこのまま世界が爆発してしまえばいいだなんて。私の小さな悩みのせいで消滅する地球のなんと脆い事か。かれこれこの考えを昨晩から4回は浮かべているものだから、自分がばかばかしくもなってきた。
私の悩みは誰かにとっては、幸せで羨ましいと言われるようなことで、だけどその誰かにとっての悩みは私にとって最善の策と言えるものかもしれない。つまるところ、私の悩みはそれほどにありきたりで、なんてことが無くて、それでいて簡単には答えが出ない。其れが苦しくて、煩わしくて、もうなんだかどうでもいいや、とも言えずに屋上から空を見上げている。見上げたって悩みが消えるわけでもないのに、人間は感傷的になると、なぜだかこうやって空を見上げてしまうのだから仕方ない。
「ねぇ、……このまま攫ってって言ったら、どうする」
無色透明な炭酸飲料を二口嚥下した彼は、私の事をちらりとも見ずに息を吐いた
「してほしくもねぇこと言ってんなよ」
宮地のはちみつ色の髪の毛が風で揺れている。彼の事を好きだと言っていた隣のクラスのあの子の見る目は正しいと思う。私にはまったく理解はできないのだけど。それでも理解できないなりに分かるのは、彼は人を突き放すことがへたくそということだ。グダグダと地球滅亡を唱えている私を見捨てずに、かといって受け入れてくれるわけでもない。そんな心地よい関係性を提示されてしまっては、どうしようもなくなってしまうのは仕方ない事ではないだろうか。
「……宮地は厳しいねぇ」
彼が本当に攫ってしまいたいのは誰かを知っている。実行しちゃえばいいのに、とも、諦めればいいのに、とも言えない私が一番最低で最悪なことも知っている。
「お互い悩みが尽きないねぇ」
「お前と一緒にすんな」
「うわー、厳しいお言葉」
彼が飲み干した炭酸飲料はさぞ幸せなんだろうな。だって、あの子への想いを抱きながら心を痛ませる彼の中で、しゅわしゅわと昇華されるのだから。ああやだな。私も炭酸の泡の一部になればよかったかな、なんてらしくもない事思ったりして。だけども結局あれはただの泡であって私は人間なのだから、そんなこと到底かなわないのであった。報われないなぁ。報われたいなぁ。




好きだって気づいた時には、俺にとっての失恋へのカウントダウンが始まったも同時だった。そもそも小学校、中学校とそれはもうそこそこにモテてはいた。それもそうか。小さい頃のモテの基準なんて、やれ足が速いから好き、だの、元気がいいから好き、だの欲もわからないものなのだから。つまり別に俺にとっての初恋でなければ、100人中100人が振り返るほどの絶世の美女ってわけでもなかった。だというのに、俺はあっけなく恋に落ちた。窓側で本を読む彼女に、どうしようもなく惹かれて、よくもわからない感情のままで声をかけた。然しながらまぁ、初めの頃は当たっては砕け、砕けすぎて塵になったかとさえ思った。
「……おはよ、高尾君」
だから初めて返事を返してくれた時には、それはもう心の中でクラッカーを鳴り響かせたっけな。初めて俺に向けてくれた笑顔だって、泣きそうな顔も嬉しそうな顔も、全部俺は覚えていて、全部心臓がはちきれそうなぐらいに好きなのに、彼女の好きのベクトルはしょっぱなから俺に向いてなんていやしなかった。
嗚呼らしくもなく感傷的になってんな、莫迦みてぇ。
「ってかんじなんすよねー、もうさ、なんなんすかね」
「……宮地は、イケメンだもんな」
分かるよ、と良くわからない台詞を述べながら、森山さんはカップの熱々のブラックコーヒーをゆっくりと口にした。町でナンパをしていた森山さんに声をかけたのは確かに俺だったけど、これじゃあ俺がただただうっ憤を晴らしているだけにも感じてしまって、「んじゃ、俺の話はここまで」なんて言うたびに「……で、彼女のどこが好き?」だの「え、その話詳しく」だの話を引き延ばされてしまう。こんだけ聞き上手なのに、この人に彼女ができねぇなんてやっぱり世の中ちょっとおかしいんじゃねぇの。……とも言い切れないけどさ。氷がたっぷり入ったコーラをストローで吸い込むと、炭酸にまじって微かに水が流れ込む。ドリンクでさえこうやって時間がたてば薄まっていくってのに、俺の感情は困ったもんだ。
「はーーー、俺こんなに好きなのにさ、あいちゃんはちっとも俺を男として見てねえし、やるせねぇーーってなりません?」
「高尾君の好きの感情が暴走していないことを褒めたいぐらいには、ゾッコンだね」
「あざっす!って、いや、それはそうなんすけどねー」
気が付いた時にはもう戻れないぐらいには好きになっていて、惚れこんでしまっていて、寝る前には必ずあの子の顔が浮かぶし、綺麗な景色を見た時には真っ先に見せてやりてぇなんて思うのに、それは完全に俺の一方通行で、あの子の感情は俺になんて向いてない。そんなのわかりきっていて、いっそ他の子に惚れちゃった方がいい事もわかっているのに、そんな簡単にほいほい感情変換なんてできねぇし。
「……ほんと、マジで、……べたぼれなんすよ」
「うん。其れは伝わってるし、……それでも傍にいたいんだろ?」
森山さんのブラックコーヒーは薄まらない。氷も砂糖もミルクも入っていない其れは絶対苦いし、熱いだろうし、きっと終いには口の中がその味だけになるんだろうな。だけど彼はきっと望んでまたそれを飲むだろうし、それはなんかすっげぇ森山さんみたいだな、なんて。
「ブラックコーヒー派になろっかなー、俺も」
「飲みなれるまではしんどいぞ」
「うへー、まぁ、そうっすよね」
「けど、まぁこれは俺の持論なんだけどさ」
整った顔した彼が、俺に笑いかける。
「好きな子の隣にいられるのって、苦しいけど、最高だろ?」
それを言われてしまっては。
「そうなんすよねー……毎日最高っす」
結局其処に行きついてしまうから、きっと明日も俺はあの子の隣でバカみたいに笑うだろうし、あの子が泣いていたら全力で慰めるし、あの子が他の人を見ていても、その背中を優しく押してしまうんだ。
「んー、やっぱりまだコーヒーは厳しそうっすね」
「そうだろう。でもモテる男はブラックコーヒーを飲むらしいからな」
「ははっ、なんすかそれ」




ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



いつから私はこんな人間になってしまったんだっけな。
昔々の私が掲げていた将来は「その当時の私の正義のヒーロー」そのものだった。真面目で、正しくて、真っすぐで、眩しい、そんな存在。
あの頃の私に顔向けができないような狡い大人になってしまったし、あの頃の私が驚くぐらいにはつまらない大人になってしまった。
お偉い先生の本を読んだのならば、少しはマシになれるのかもしれない。だけど多分、私はその本を買ったところで満足してしまうし、初日だけ読み進めるだろうけど、其のあとはその本は自分の目に触れないところに収納というなのしまい込みを行うんだろうなって。

自分で言うのもおかしいのだけど、私は結構優秀だった。
小さい頃から物おじせずにはきはきと物申すことができたし、率先して上に立つことだって出来た。節目節目で所謂「リーダー」をこなして、褒められて、評価されて、それなりに生きてきた。
だけど今はどうだろうか。小さい頃にはあんなにいい子だった私はどこに行ったのだろうか。

大人になりかけの頃には、がむしゃらに働いて、朝日と共に起きて、日が沈んでも働いて、夜がふけきって、終電が終わった後に家に帰宅していた。
口ではきついしんどいもういやだと言っていても、心のどこかでそんな私が好きだった。嗚呼違うな。そうやって頑張っていることで、私は此処に居場所があるんだって安心しきっていた。

それが今じゃどうだろう。
自分でこの道を選んだというのに、毎日これで良かったんだっけな、ってぼんやりとしている。そのたびに「私はこれでよかったんだよ」「あの頃よりもいい毎日だね」って自分に言い聞かせるように口にして、安心したいのに安心できない。

今よりも先の将来の事を勝手に想像して、

じゃあこれから先どんな自分になったら正解なんだろうねって。
私にとっての悩みは、誰かにとっては有り余るぐらいの幸せで、その人にとっての苛立ちは、私にとっては喉から手が出るぐらいに羨ましい事なのかもしれないし。
みんなに「しあわせそうだね」って褒められたいわけでも、「かわいそうだね」って慰められたいわけでも無くて、だからといってどうされたいかと言われたらすごく困ってしまう。
何も言わずに抱きしめてほしい時もあれば、必要な台詞をしっかりと目を見ながら伝えてほしい時もある。自分勝手で、気まぐれで、飽き性で、めんどくさがり屋な私。



私は自分がもう一人いたら、きっと友達にもならないし、友達になれない。



back


「#ファンタジー」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -