『景吾、もう、別れよう』


その一言に景吾は、驚かなかった。
そして、その反応に私も驚かなかった。
私の家に来たのは短的な言葉。「景吾様に正式に結婚の話が決まりました」今までも私の家に景吾の家の関係者らしきヒトから度々連絡は来ていた。それもそうか。景吾レベルの人間が私レベルの人間と付き合っているなんて、あちらにしてみれば邪魔以外の何者でもないんだから。今まではその度に「別れるつもりはない」と言っていた。それこそ、最初の頃は強気な態度もとっていた。だけど数を重ねる度に、日々を重ねていくうちに景吾と私の地位の違いに頭が着いていくようになって、次第にはこの関係は期限つきのものなんだと自分の中で考えるようになっていた。そして、もう、終わりが来たんだ。
永遠に一緒にいようなんてそんな簡単に言えるのは中学生の可愛らしい時代だけかもしれない。大人になるに近づいて、私達の道は異なってきて、結局は別々の道を歩まないといけないことが理解できた時に苦しいくらいにその現実にぶち当たった。私と彼じゃあ生きる世界が違うなんてことは分かっていたはずだ。それでも愛さえあれば大丈夫なんて思っていたのは子供な自分。きっと景吾はこんな日が来る事をずっとずっと分かっていて、それでも私と一緒にいてくれたんだ。そう思うと涙が止まらなくて、私はその場にしゃがみこんだ。駄目だ。困らせちゃうだけなのに。それなのに、思いが止まらない。痛い。胸が、心が、痛い。


『だから、っ……辛い、けどっ。だけどっ、だけどっ』
「もう……泣くなよ」


景吾、やめて。もう優しくしないで。お願い。お願い。もう貴方の指先を忘れないといけないのに、これじゃあ忘れられない。震える口元を押さえるように、嗚咽を殺して彼に最後の言葉を伝えようと思った。せめて、彼の中で私が小さな塊として残ればいいなんてあさましい考えを持っている私をどうか許して欲しい。それに答えるように、景吾は私の目線にかがんでくれた。優しいね。いつだって、どんな時だって、景吾は優しいね。それが嬉しくて、だけど今は、痛いだけでしかないよ。


『ちゃんとっ……夜は、寝るんだよ? 仕事とかっ無理っ……しないでね』
「……ああ」
『それと、奥さんの、話はっ……ちゃんと、聞いてっ、あげてね』
「……わかっている」
『御飯も、食べてっ……薄着もしないでねっ……っ、く……めんどくさがったり、しちゃだめ、だよっ』
「……勿論だ」
『それとねッ……景吾っ……誰よりもっ幸せにっ……幸せになって、ね。いのっ、てる、よっ』
「っ、もういいっ!!」


抱きしめられた瞬間に、世界が終わればいいと思った。だけど私中心になんか回っていない世界は、私の感情を残酷にもずたずたに切り裂くことしか知らない。



「愛しているっ……何年たとうが、どこに誰といようが、俺はっお前を、あかりだけをっ、一生愛している」


景吾の瞳から透明な雫が堕ちてきた時、自分がどれほどに愛されているかを知った。彼の泣き顔を見るのはこれが最初で……最後。急ぐように落とされた口付けは、いつもよりもしょっぱくて、口の中で動きまわる舌は、いつもよりも熱が無かった。呼吸の合間に何度も「愛している」と呟く彼の声をそっと耳の中に閉じ込めながら、幸せを感じた。もう……それだけで十分だった。ふるふると首を横に振る間に呼吸を整えて、そっと微笑んだ。景吾が一番好きだといってくれた笑顔で、彼の瞳に微笑んだ。


『……私じゃなくて、ちゃんと、奥さんを、愛してあげてね』
「っ、おまっ」
『私も、もう、忘れるからっ……景吾以外の人と、しあわっせに……なるから』


だから、ばいばい。
精一杯の笑顔を見せて、力強く地を蹴る。後を振り返っちゃいけないのに、振り返りたくてたまらない。きっと景吾なら追いつくだろうスピードなのに、私を遮るものはない。そういうことなんだって思うとまた悲しくて涙が止まらない。さよなら。景吾。大好きな人。誰よりも、誰よりも愛おしい人。出会えたことを奇跡と呼ぶのならば、別れることは軌跡なのかな。誰か答えて。噛み締めた唇には、もう誰の体温も残っていない。




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