髪の毛を耳にかける仕草を彼は好きだと言ってくれた。理由を聞くとはぐらかすことなく「髪に阻まれていた分の貴女が見えるからです」なんて言ってのけた彼の顔を今でも覚えている。……気がする。そんなことを思い出せないほどにもう月日が経ってしまったんだから。
柳生君と付き合っていた高校時代から数年。私は日本でそれなりの大学に行って就職して、今は図書館の司書として勤めている。対して柳生君は医療を学びに海外の大学に進学した。そこで、私たちは恋人から友人となることを選んだ。私も彼の足枷になりたくなかったし彼もそれは同じだと言っていた。本当はまだ一緒にいたかったのに精一杯見栄をはって「向こうでも頑張ってね。これからは友達として応援している」なんて良い子ぶった。彼は、最後まで優しく微笑みながら、どことなく哀愁を漂わせて「お元気で」とだけ言ってくれた。
司書の仕事も楽ではない。だけど柳生君に比べたらきっとまだいいほう。不意に寂しくなる度に思い出すのは高校時代に触れていた彼の体温。もう、日本に帰ってきているんだろうか。もしかして今は私じゃない子が彼の隣に肩を並べているのかもしれない。彼も進んでいるのだから、私も進まないといけないのに。結局私は未練がましい。そんなときに同僚に告白をされた。その返事をするために今日はやって来たのだ。……本当はいつまでも過去に捕らわれていたくないからこの人と付き合おうと思っていた。だけどそんなの悲しすぎる。眉をひそめながら困ったように笑う私を見て、彼も同じように眉をひそめた。


「……やっぱり、駄目、かな」



彼は、優しく私を見つめる。ごめんなさい。やっぱり、だめなんです。もう二度と叶う事がないかもしれない思いだけど、それでも忘れられないんです。好きな人がいるんです。ごめんなさい。そう口にしながら顔を上げられずにいると、そっと頬に手が滑ってきた。驚いてとっさに顔を上げて。だけどその彼の背後に見覚えのありすぎる姿を見つけて私は唖然とした。どうして。なんで。
だけど彼の名前を呼ぶ前に澄んだ声が響いた。


「……この女性の恋人ですか?」
「え、いや、その。俺はただの同僚で」
「では、少々よろしいですか?」
「……あんた、誰だよ」


柳生君だ。私の目の前に柳生君がいる。そのことに驚きすぎて、同僚の彼と柳生君が何を話しているか全く聞こえない。ただ、気づいた時には私の前にいるのは柳生君だけで、息が詰まった。「恋人が出来たのかと思いました」なんて言う声は低くて、心臓を鷲掴みにされたほうがまだ苦しくないと思った。


「だけど、違うようでよかった。……これの役目が無くなることはなさそうですし」
『や……ぎゅうく、ん?』
「……貴女に受け取ってもらいたいものがあるんです」


そう呟いた柳生君がポケットから差し出したのは小さな四角い箱。彼の繊細な指先で開かれたそこには銀色に光るリングがあって、瞬時にそれを理解した私はまた息を詰まらせた。


「断られるのも覚悟で来たんですが。……でも、どうやらそんな気持ちはどこかにいってしまったようだ。突然の申し立てで、混乱させていることは重々承知です。……それでも私は、貴方が……あかりが好きだという気持ちに嘘をつきたくはないのです」


だから、迎えに来ました。
柳生君はさらりとした口調で言い放つと、手と手が触れ合う距離まで近づいてきた。心臓の音が尋常じゃないほどに鼓膜を揺らし悲しいのか嬉しいのか驚いているのか分からないままで涙が溢れた。


『っ……私、でいいの?』


すると彼は数年前よりも遥かに大人びているはずなのに、あの頃と同じようなはにかんだ笑顔を見せた。


「貴女を迎えに来たんです。他の誰でもない。あかりを迎えに来たんです」


どうか、私の手をとってくれませんか。御伽噺の中の王子様が口にするような台詞も今の私には甘すぎる。涙をぬぐう暇さえ惜しくて、とっさに地を蹴った体の行く先は彼の胸の中。きっと触れたらもう離れられなくなるよ、と口にしようかとも思ったけどそれはどうやら無意味のようだ。飛びこんだ先で囁かれた愛の言葉は、至極簡単であまりにも直球なストレート。


「どうか、貴方の未来を私にください」


否定する要素なんて一つもないの。幸福の絶頂に包まれながら涙声で肯定の返事をすると、そっと背中に腕が回された。浴びるような幸せの中で、静かに舞い降りる愛の言葉だけが今の私の全てだ、なんて恥ずかしい事を考えつつも、今度は離れてしまわぬようにその体にしっかりと体を寄り添わせた。



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柳生おめでとう!!!




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