大手企業に就職した弦一郎さんは、毎日多忙すぎる。昼はバリバリ仕事で夜は、残業か上司に付き添ってのお酌。私と顔をまともに合わせるのはおそらく朝の食事の時だけで、「いってきます」の時も「ただいま」の時も目も合わせてくれない。最初は、特に気にしてなかったし、私も私で家事に手一杯だったからそんなこと気にする余裕も無かったのだけど、家事に慣れを覚えていくたびに心の中に、寂しいとかもっと触れたいとかいう欲望が積もっていってしまったのだ。こんな感情で弦一郎さんを困らせたくなんてない。だけど、寂しい思いがそうそう簡単に消えるわけじゃないし、弦一郎さんが私の思いに気づいてくれることもないかもしれないし。
だから、仕事から帰ってきた弦一郎さんに、思い切ってその日告げたのは「今週の休みは二人でいたい」なんていうささやかなもの。何処かに行かなくてもいい。家でゆっくりでもいいの。二人の時間が欲しい、と懇願した顔で見つめると、彼の凛々しい唇から溢れたのは私の欲しい言葉じゃなかった。


「今週は、出張が入っている」
『じゃ、じゃあ来週は……』
「用事だ。前から決まっていたものだから外せぬ」
『っ、……よ、うじ』
「仕方が無いだろう」
  

呻くように呟いたのは弦一郎さんだった。一体なにが、え、意味が分からない。私の抱え込んでる悩みなんて「仕方が無いだろう」で終わらせられちゃうことなのかな。やだ、なんか分からないけど、止まんない。


「……やむを得ん用事なのだ」


なによ。
そんなの。そんなの。


『っ、そんなの勝手だよっ! いつもっ。いつも、げっ、弦一郎さんは何も分かっていないっ、私の寂しい気持ちなんてっ、全然知らないくせにっ』


顔を上げた先。呆気に取られたような顔をされた瞬間に、自分が何を言ってしまったのかを理解して一気に青ざめた。今まで一度だって、弦一郎さんを責めたことなんてなかった。だって、働いてもいない私にはとやかく言う権利なんてないんだもの。目の前の弦一郎さんが何かを言おうとした前に私は必死で笑顔を取り繕う。


『えっへへ。う、ウソウソ。ちょ、ちょっと、意地悪言ってみただけなの。よ、よし、私、お風呂の準備してきます』


やだ。嫌われる。あんなこと初めて言ったから。そう考えると、涙がこみ上げてきて、半ば走り去るように弦一郎さんに背を向ける。しかし、次の瞬間にはその体は宙に浮いてぼすりと音をたてて倒れこんだ。どこに? そんなこと分かっている。弦一郎さんの胸の中に。
暖かい。そして、外の香りがする。それと、直に感じる大好きな弦一郎さんの香り。


『げ、んい、ちろーさん?』
「やっと……言ってくれたな」


お前がなかなかわがままを言わないものだから、心配したではないか。そんな声が聞こえてきた二秒後には、唇に触れるだけのキス。濃厚でいて男らしいキスに頭がクラクラとしてきて呼吸が乱れる。ギブアップしかけた私のことを見て、彼は満足そうに笑う。


「もっと、俺にわがままなり文句なり言ってくれて構わぬ」
『で、も……』
「俺とお前は夫婦なのだから、それは是非に及ばぬことだろう。お前が一人で抱え込む必要はない」


これからは、もっと俺を頼ってくれ、なんて。ああ、この人は本当に狡い。ズルすぎる。そうやって私ばっかりが馬鹿みたい。
挨拶の時に目を合わせてくれなかったのはお前を見るたび離したくなくなるからだとか、お前に甘えて欲しくて少し意地悪をしてしまったとか。変なところで一枚上手なこの人に私は一生敵わないんだろうな。
弦一郎さんの胸の中で幸せに振り回されるのも悪くないと思いながらも、不意に耳を掠めた熱に体を縮こまらせた。


「実は、だな」
『うん』
「再来週の休みに、温泉でも行きたいと考えているのだが……どうだ?」


ふわりと微笑まれると、体が射すくめられてゆっくりと頷きながらも私は、不器用なようで器用な彼の瞳に愛おしさを噛み締めた。



彼と私は家族です様提出



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