5 「おうおう、そんな、にやけ顔しとると幸せ逃げそうやのう」 仁王。そう、私が幸村を好きだと知っていて、それでも何も言わない私の恋を応援してくれていた。もともと、仁王とは一年生の頃に一緒のクラスの隣の席で、なんだかその時によく分からないままで仲良くなったんだっけ。 『あはは、仁王にも幸せ分けてあげようかー』 「いらん。そんなニヤケ顔の幸せは嫌じゃ」 『うわあっ、失礼っ』 「嘘じゃって、うわ、そんな叩きなさんなっ」 仁王は何度も私を助けてくれた。 幸村が告白されているところを見て、落ち込んでいる私の頭を撫でてくれて、「お前さんもまだ望みはあるぜよ」とか言いながら、笑ってくれた。そう。そうだ。 仁王はいつだって私のことを慰めてくれていた。その仁王の優しさに甘えていた。 そうか、今も昔も結局私は仁王に甘えてばかりで、自分自身でどうにかしようなんてしていなかった。 瞬間、水の底に落ちたような錯覚に陥る。 沈む。沈む。沈む。どこ? プールのようなカルキの匂い。鼻から入り込むなんとも言えない匂いと、息苦しさ。 今までは過去の映像だったのに、これは違う。なんだろう。分からない。 だけど、光がどんどん遠ざかっていく。まるで底は無いようにどんどん吸い込まれていく。 嗚呼、駄目だ。手も足も何も動かない。 苦しい。苦しい。 息が出来ない。このまま、沈んでいったら私の体はどこにたどり着く? 私は。私はっ。 「汀っ!」 『っ……あ……はぁっ……はぁっ』 飛び起きて瞳を開けた先にいたのは、今瞼の上にいた仁王だった。 彼は、今まで見た事が無いくらい酷い顔をしていて、思わず自分が息をするのも忘れそうなほどだった。 そこで、自分が息苦しいのに気付き、心臓に丸ごと風を送り込むような大きな息をついた。ちりちりと、首元が痛い。仁王が私を抱きしめながら零す。 『に、お……』 「ゆっくり息吸いんしゃい。ほら、……そうじゃ」 仁王の頬から、つう、と水が落ちて私の口元に落ちた。……しょっぱい。よく見れば、彼の額はぐっしょりと汗で濡れていて、私をさする手は微かに揺れているかのようにさえ感じた。 そのままされるがまま仁王に体重を預けているわけにもいかず、もう大丈夫、とこぼすと「ほうか」と彼は体をゆっくりと離してくれた。 気付けば私は保健室で、額に微かな冷たい温度を感じた。 『……冷えピタ?』 「汀ちゃん、貧血」 『……貧血でなんで冷えピタ?』 「冷やせばええやろて。……詐欺師の俺の直伝やからあっとるか知らんけどのう」 苦笑交じりに言う仁王がなんだか幼く見えて、私は首を横に振る。 『ううん。大丈夫。仁王のこと信じてるから』 「詐欺師は信じんもんぜよ」 『仁王は私には嘘つかないでしょ』 「どうかのう」 ニヒルな笑みがいつもよりも、威力がなく見えるのは、私の体調不良の所為だろうか。 そんなことをぼんやり考えていると、仁王は「先生を呼んでくる」とか言って、私の頭を一度撫でて何処かへ行ってしまった。 静かになった保健室で、小さく息をつく。保健室のシーツは、滑りやすくて、なんだか冷たかった。 仁王がいなくなった後で、保健室のベッドの上で眠るのはなんだか心細くて、その上で一人体操座りをする。 そうか。 私、貧血で倒れたのか。馬鹿みたい。……そういえば、最近あまり鉄分とって無かったからな。健康だけがとりえだったのに。 だって、あの人が好きなタイプは、健康な人で……。 『っ、……ゆき、むら』 顔を上げたそこにいた人物にとっさに立ち上がりそうになり、小さく眩暈が襲う。 それを察した幸村がとっさに私に駆け寄り、私の背中を支えこんだ。今までにないくらいの距離に、呼吸を飲み込んだと同時に幸村の香りが体の中に入り込んだ。 「貧血なのにいきなり動いちゃ駄目だろ」 『……ごめ、んなさい……』 「ほら、体の力抜いて。ゆっくり体寝かすよ」 耳元を掠める声に、ぐう、と瞳をつぶっていると、柔らかく体がシーツに沈む。そのまま目線をあわせるのも気まずくて、目線をそらしたままで「ありがとう」と呟く。とにかく早くこの場から逃げ出したい、なんて思っていると、幸村の指が私の髪をすいた。 『っ』 「……目に……はいるよ」 『……ありが、とう』 やめて。触らないで。 次に触れられたらそう言ってしまいそうな口。そんな私の耳に届いたのは、幸村の吐息。 「……少し、話、してもいいかな」 嫌だ。嫌だ。 こんな最低な私じゃ、幸村のこと見れない。そう思うと体が動きとっさにシーツの中に隠れこんだ。 だけど、覆いかぶさった薄いシーツの外から聞こえてきたのは。 「そのままでいい。……だから、聞いて」 幸村の声。望んでいたはずの空間から逃げようとする私の心は、シーツに絡めとられてしまった。 戻る |