5 出会う。それは、人と人があいまみえること。 それならばいっそ私は、出会いを無くしてしまいたい。 空中を踊る蝶になって誰も知らない空を飛びたい。 だけど。結局は逃げられない。 私はまた自分の好いた空を飛んでしまう。 姿を見ただけで吐息がままならない、なんて本当に馬鹿らしい。 だけど、今それが本当に自らの体に起こっているのだから笑い話だ。ゆっくりと瞳を閉じることが出来れば視界の先にいる彼を見ずにすむのに、それを拒むところを見ると、どうやら私はそれを拒否しているらしい。 そのまま立ち尽くす私の前に庇うように立った仁王は、いつものように飄々とした口調で彼の名前を呼んだ。 「おう、幸村やないか。なんか用事かのう」 幸村。 幸村がそこにいる。 いや、私は彼の隣のクラスなのだから、彼の姿を見るのは日常茶飯時、と言ってもいいかもしれない。しかし、この数日。もっと詳しく言うならば、彼がマネージャーであるあの子と付き合いだしたあの日から私は極力自分から彼の姿を見つけないようにした。 そうすることで、彼から逃げてきたんだ。そうすることで、弱い自分から逃げてきたんだ。 「いや、前にお前に借りた本を返そうと思ってね」 「なんじゃ、そんなことか」 「面白かったよ」 「ほうか、それはよかったのう」 その会話の最中にも必至で私は顔を伏せた。いや、普通にすれば一番いいのかもしれない。 あんたのことなんて、ちっともなんとも思ってないよ。だから、前みたいに仲良くしていこうよ、って。そんな顔をして、「幸村」って声を出せばそれで幸村は笑いかけてくれるのに。 違う。違う。 そんな笑顔は欲しくない。 友達、として向けられる笑顔は、彼女に向けられる笑顔と違うことを知ってしまった今は、彼の笑顔なんて見たくない。 「……が、……とは、思いもしなかったな……て、……ね」 「お……はか……よ、さ……か……い」 駄目だ。 幸村と仁王が何を話しているのかさえ分からなくなってきた。 そのどうしようもない感情に押しつぶされそうで、吐き気さえする。とにかく、目の前がぐるぐるとして、私が見つめているのは地面なのか天井なのかさえ分からなくなった。 やばい。これは、やばい。 精神は強いほうだと思っていたけど、たかが幸村の顔を見ただけでこんなになってしまうんじゃ私も所詮そこらへんの女子と同じだったってことかもしれない。 嗚呼、なんか悔しい。 違うのに。私はそんなに女々しい女じゃないのに。たくさんの人を傷つけたし、たくさんの人に迷惑をかけている。これ以上何をしてしまうんだろう。 怖い。自分で自分が分からないことが一番怖いなんて、馬鹿みたい。 『っ……』 倒れる。反射的に手が出ればいいけど、この分だと間に合わない。 もう、地面が近い。あれ、地面? それとも天井? 私、どこにいる? 立っているのか座っているのか。そうじゃないのかそうなのか。まるでペテンの世界に迷い込んだ阿呆みたいに頭がループしていく。 思わずぐらりと傾きかけた体。それを予知していたかのように体を強く引かれて、気がついたときには頬に微かに髪の毛が掠めていた。 『っ、あ、……に、お……』 目線も定まらないまま、名前を呼ぶと、仁王が何かを私に言っているのが聞こえた。 でもその内容が分からない。ただ気分が悪くて、そのまま体重を預けていると不意に唇に暖かいものが掠めた気がした。 だけど私がその正体に気付くはずなんてなく、ぼんやりとした視界にわずかな青色が映った瞬間に意識を手放した。 いつだったか。 そう、あれは二年生の頃だ。幸村とすごく仲がよかった頃の話だ。 あの頃は、幸村に好きな人がいるなんて微塵も思っていなくて、ただ幸村が見せる子供みたいな悪戯な笑顔が大好きで大好きで、幸村がちょっかいをかけてくる度に「やめてよ」とか言いながらも心の中では会話を交わせただけですごく嬉しかった。 嗚呼、この場面を覚えている。 辞書を……確か私は辞書を忘れてしまったんだ。友達に借りに行ったけど友達は持ってなくて、昔からの幼馴染である蓮ニは絶対に持っているだろうと思ったけど、彼女さんに悪いな、なんて考えて、結局そのまま授業を受けようとさえ考えていたんだ。 まるで、その場面を幽霊になって、真上から見ているかのようなビジョンに不思議な感覚を覚えつつも、私の目の前で映像が進む。 そう、そうだ。 困っていた私の頭を容赦もなく小突いたのは。 『いったっーっ』 「へえ、俺にそんな口きいていいと思ってるんだ?」 『幸村っ?』 幸村は、真っ黒なオーラだだ漏れで、私に辞書を差し出す。 『え……』 「どうせお前のことだから忘れたんだろ?」 『……い、いいの?』 嬉しくて。嬉しくて。 「メロンパン二個と、オレンジジュース」 『うわ、最低っ』 「あ、そういえば今日の日付お前の出席番号と同じだね。ということは、あの英語教師はお前を当てるだろうね。まあ、クラスメイトの前でせいぜい恥をかけばいいよ。じゃあね」 『ごめんごめんっ! 幸村様っ、オレンジジュースだろうとメロンパンだろうとなんでも買うからっ』 「……やっぱり、あんぱんにしようかな」 『ああ、もうなんでもいいっ』 約束したからね。なんて幸村が決め顔した瞬間にチャイムが鳴って、彼は私の頭をまた小突いて自分の教室へと戻っていった。 さっきよりも優しい手に、鼓動が止まらなかった。 『出席番号……覚えてくれてたんだ……』 そんな些細な事が馬鹿みたいに嬉しくて、なんだかどうしようもなくなっていた。 そう、小さなことが嬉しくて、憎まれ口を叩きながらも幸村が私に話しかけてくれる度に心臓が飛び出そうなくらい嬉しかった。 何も知らなくてよかったあの頃が、幸せだった。 だんだんとぼやけていく映像と、離れていく映像。 次に瞼の上に映ったのは、白い髪。 ⇒ 戻る |