4 冷たい。いつも君が隣にいたはずのその席。 どうしてだろう。どうしてなんだろうか。いつの間にか、この隣の席に君が座っていることが、君が笑っていることが普通と成っていたその日常生活に慣れていた。 たとえるならば、今まで籠の中に閉じ込めていた蝶々が、逃げていたような気分だ。 ひらり。 目の前を飛んでいるのに、届かない。 ひらり。 もう、この指先さえ、触れることのできない。 ひらり、ひらり。 嗚呼、やっと気付いた。 これは、愛おしいの想いだ。 何もかもが零れていっているんじゃないか、というほどに涙が止まらない。蓮ニは、私が幸村を好きになったあの日に、彼女を作り、そして、数ヶ月前にその彼女とお別れをしたらしい。 私のせいで、傷付いてしまっただろう彼女。その相手を私は一度見た事がある。 すらりとした身長に、学年トップの成績を誇るほどの秀才。 だけど柔らかい雰囲気の女の子。 蓮ニと隣に並んでもひけをとることが無かった彼女は、蓮ニに愛されていないということをはたして知っていたのだろうか。 そして、その事実を知ってしまったとき、自分ではない人を愛していて、その目線が自分ではなく、他の人を見つめていた時、その彼女は、限りない絶望に陥ったに違いない。 嗚呼、私は。また一人、傷つけてしまったんだ。 それが、ひどく痛い。 いや、その痛みこそ、私に対しての罪なのかもしれない。 私は、多くの人を傷つける。 綺麗なままでいられるはずも無い。薄汚れた色の羽に染まって、血に染まってしまうのが、戯曲のオチなのかもしれない。 その溢れる涙を、大きな手がすくった。その手の先に、誘われるように涙がまた落ちて、私は、眉を下げた。 「もう、泣くな。……泣かないでくれ」 『別に、蓮ニの所為じゃ、ないよ』 「しかし、お前の涙をぬぐうことしか出来ないというのは、ある意味拷問に近い。その涙を止める術が俺にあるのならば、俺は全力を出してでも、それを実践しよう」 『……相変わらず難しい言葉使うね』 「分かりにくいのならば、分かりやすく言おう」 お前の、傍にいさせてくれ。 たとえ、その心が、俺の愛を受け入れる事が出来ないとしても。 口先で、囁くように言った蓮ニは、小さく笑う。 小さい頃からその笑い方は変わらない。私がケガをした時や、悩み事をした時によくする笑い方だ。 「大丈夫か?汀」 『大丈夫だよ、れんじ』 それを思い出し、この幼馴染が、随分と成長したな、と思った。昔は、おかっぱだった髪の毛もばっさりと切ってしまったし、身長だってぐん、と伸びた。 だんだんと男になっていたのか、と独りでに納得した。 「どうした」 『ううん。蓮ニを久しぶりにこんなに近くで見たから』 「お前が望むなら、いつだってこの腕の中に閉じ込めて、離しはしない」 歯の浮くような台詞をさらりと言ってのけた蓮ニは、私の涙をぬぐった手で私の髪の毛に指を差し込んだ。微妙に指が頭皮に触れるたびに、ひんやりとした彼の体温が伝わる。 心地よい、と目を細めてしまいそうだ。この幼馴染は、不思議とそういう雰囲気をともなっているものだから、困ってしまう。 もし、このまま蓮ニに抱きしめられたら、昔の幼い記憶に溶けこんで、幸せになれるのだろうか。 彼は、私の為に一人の少女を傷つけた。でも、そうまでして私を思ってくれた。 それを素直に受け入れる事が出来る身分だったのならば、よかったのかもしれない。 だけど。 だけど。 私の頭によぎったのは、白髪の色。途方にくれた私の手を握ってくれたその手。 『…………駄目だよ』 ひくり、と蓮ニの頬が動いた気がした。私は、ゆっくりとその胸板に手を置き、体を彼から離した。 『駄目……私は、仁王の彼女だから』 「お前の本望と思えない」 『本望だよ。私は自分の意志で彼のそばにいるの』 例え、彼が私のことを詐欺師としての顔で騙そうとしていたとしても。彼を裏切ることはできない。 多くの人を傷つけた私だから。 仁王雅治という人間を見捨てることなんて出来やしない。 『ねえ、蓮ニ。私は蓮ニが思っているほどの女じゃないよ』 「どういう意味だ」 『そんなに綺麗でもないし、蓮ニが思っているような素直な女でもない。幸村のことを好きで、彼の彼女を恨めしく思ったこともあるし、それこそファンの子達と同じように、彼の行動に一喜一憂したりもした』 「……それで?」 『今だって、仁王を傷つけている』 幸村が忘れられることがない、と言う私を。 彼は、抱きしめてくれる。 暖かな日差しの下で、ぼんやりと二人で空を眺めることしかしなくとも、彼は私の指にその細い指を絡めてくれる。 『……蓮ニ。私は、最低なんだよ』 「違うな。お前は何も悪くない。汚れた部分だとお前が思っているのならば、俺はその部分でさえ愛をもって接すると誓おう」 そんな風に言われると、胸が痛くてたまらない。 幸村をただ純粋に好きだったあの頃に戻れたらどれほどに楽なんだろうか。だけど、それを考えるにはもう遅い。 幸村の隣に、その目線に、私の入る余地など一欠けらも残っていないのだから。 ⇒ . 戻る |