13 屋上へと向かう。息が切れる。呼吸困難なんて馬鹿みたい。 幸村のことが好きだった。なのに私は今屋上に行っている。 矛盾しているのかもしれない「お前は最低な女だ」と他人から罵られるかもしれない。 それでも、止まりたくない。その時。不意に目の前を横切ったその姿。 『アゲハ、ちょ、う……』 ひらりひらり。 その羽をちらつかせ、私をいざなうその姿。この間と一緒の蝶なわけがない。だけど、その蝶は私を嘲笑うように、そして微笑むように舞う。 駄目だ。迷っちゃいけないのに、進めない。行かないと。あの人のもとへ。あの日の約束を、もう二度と破らないために。 「ずっと一緒だよ」 ごめん仁王。私は貴方に嘘をついたんだね。あの日、君がどれほどに傷付いたかなんて私には分からない。だけどね。 過去は戻らないけどね、私は……今を生きるから。だから、今、仁王に嘘をつきたくない。 私の気持ちに嘘をつきたくない。 再び足を進める私の前を行く揚羽蝶を追い抜かし、私は屋上の扉に手をかける。 ……怖い……。怖いよ。もしこの先に、私が見たくない映像が広がっていたら。いや、広がっている。それを分かっていて行くんだ。 やっと仁王は自分の好きな人と結ばれた。私はもう必要ないし、私が彼のことを好きだと言っても誰も喜ばないし、現に私は今、蓮二と幸村を既に傷つけた。 これ以上誰も傷つけたくないと言ったこの口が憎い。だけど、止まりたくもない。傷付いてもいい。たとえ傷つけたとしても、悔やむ事だけはしたくない。 「汀」 仁王の声が離れない。眠ろうとする私の頭の中で響いて半鐘する。 このまま立ち止まることはきっと幸せだ。だけど。 「お前さんを傷つけるのは俺だけなり」 そうやって笑う詐欺師に。 私は心を奪われたんだもの。 私は、扉を開けた。その先に。 「……本城」 そこにいたのは、たった一人。 真白い髪をなびかせながら、こちらを見て目を大きく見開いている仁王だけ。私はそのまま足を進めて。 「こっちに来なさんなっ!!」 『っ……』 鋭い声。私に今まで向けられたことのない声。体を激しく震わせると同時に仁王が「出て行ってくれんか?」と嘲笑を浮かべながら言う。でも私のことはちっとも見ない。嗚呼、胸が張り裂けそう。 『……嫌だ』 振り絞る声は震えた。かっこ悪いし、仁王からしてみれば「出て行け」の存在なのに私はそれを拒否した。 嫌われてもいい。疎まれてもいい。 『私はっ……もう仁王に嘘つきたくないっ』 あの日、あの場所に戻ることはできないけど。今日からを作ることはできるから。 びょうびょうと吹きしきる風に体が痛む。痛みを、受けながら言う。その台詞を。 『好きっ、仁王がっ、好きっ!! 好きなのっ』 喉がさけてもいい。伝えないといけない。仁王が好きだって。ありがとうって。 『幸村のこと好きだった私が言うのはおかしいかもしれないっ! 私は最低かもしれない! でも、でもっ……、好き、に、なっちゃったんだもん……っ幸村じゃなくてっ、蓮二でもないっ、にお、がす、きっ……だから、恋人、なんて、そんな贅沢言わないからっ、もう一回、友達、に戻りたいっ……』 涙を溢れさせるのは女々しいから、必至でこらえて、それでも嘘をつかずに。 『にお、うの……傍にっいたいっ! 嫌われてもいっ』 「ほたえなやっ」 『っ!!』 眉を吊り上げた仁王ががんがんと近づいてきて反射的に殴られると察知したからだが縮こまり、顔の前で両手を組む。 だけどその手を荒々しく下ろされ。噛み付くような口付けが落ちてきた。 『っふっ……』 一瞬何が起こったのか全くわからなくて、目を開けると其処には仁王の姿。嘘、私今、仁王にキスされてる? そんなことを考えていられたのはその時だけで、後は仁王の口付けを受けるので必至だった。 舌を絡めとられ、遠慮もなく吸われ、時折鼻と鼻があたる。舌を甘くかまれ、口内をぐちゃぐちゃに引っ掻き回されて、かくりと腰の力が落ちる。 その腰を支えた仁王は私の体をそのまま引き寄せて、私をその広い胸に閉じ込めた。呼吸が、仁王の胸に吸い込まれていく。 「……なんで」 『え』 「なんで幸村を選ばん」 『……に、お』 「せっかく人が一芝居うったんに……台無しじゃ」 その台詞が聞こえたのと、仁王が切なそうに私に笑いかけてきたのは一緒だった。顔を上げたそこで仁王は苦笑をしながら私の頬を撫でた。 「幸村と愛華が仲悪くなってきたんはあいつら付き合って2週間した頃やった。まあ、もともと幸村はお前さんを好いとったのに、自分の気持ちに気付かんかった、ってだけやけ、当たり前か」 仁王は私を再び抱きしめなおして、私の頭にその顎を乗せてきた。とくん、とくんと音が聞こえる。 「そこで愛華にちょいと手出したらすぐに落ちた。わざとお前さんにあの場面を見せて、傷つけた。そこで……フリーになった幸村はお前さんに告白をした。はずじゃけど。……断った、んか」 『……私の、ために……愛華ちゃんと付き合ったってこと……?』 「……結局ペテン失敗なり」 お前さんがおらんと、死にそう。 そんなことを頭の上で囁かれて普通で居られるほど私も出来ていない。ぎゅう、と仁王の胸に顔を押し付けると、仁王は旋毛に口付けを落としてきた。 「お前さんが幸せになればええって思ってしまった俺の負けじゃ。……幸村がお前に告ったち聞いた時は、もう俺の出番はないと確信したなり。……柄にもなく、死ぬかと思った」 でも、汀はここにおる。 そう言って、仁王が小さく私を頭を撫でる。「少し昔話をするきに、聞きんしゃい」とこぼす彼に頷くと「いい子なり」なんて子供扱いされたけど慈しむような声に耳を澄ましたかった。 「……昔々にあるガキがおってな、そいつはある女の子に惚れとった。……毎日が幸せで、その子以外なにもいらんと思っとった。けんど、その女の子は、ある日引越しするって言ってな。……ガキはきつい言葉をその子に投げつけたんじゃ」 『でも、っそれは私がっ』 「その数年後じゃ。……お前さんをまた見つけたんは」 ふわりと、仁王が優しい微笑みを浮かべた。 「……好いとーよ、汀……ずっと、ずっと。あの日からお前さんが好きやった」 『……に、おう』 「それなんに、お前さんは幸村なんかに惚れとるなんてなあ、俺のことも覚えてなかったのは……まあええ。汀と悪友になれたきに」 ぎゅうと抱きしめる手が強くなった。重なる二つの心音が、心地よい。 「それから、お前さんが幸村に振られて、俺のもんになってくれて……柄にもなく顔がにやけた」 『う、嘘だっ! だ、だって』 「詐欺師やけんの。デレデレしとるのを見せるわけないなり」 なんだか、ずるい気もするけど、それでも声音が優しいから何もかもどうでもよくなる。ああ、どうしよう。幸せに溶けていく。 「なあ、本当に幸村じゃなくてええんか?」 『……うん。でも愛華ちゃんは……?』 こんなことを私が聞ける立場じゃないかもしれないけど、と付け足すと彼は「それは心配いらん」と続けた。 「多分今頃は、他の男と一緒」 『え……?』 「お前さんはどう思って見とったか知らんが、あいつは相当のヤリてなり」 やけ、心配いらん。 お前さんは俺だけのこと考えとけばええ。そうこぼした仁王は、私の首筋に一つ痕を残した。 抵抗する暇さえなくて体を震わせると満足げな笑顔と吐息を私に向けた。 「……言って、もう一回、俺のこと好きって」 『は、恥ずかし……っ、痛いっ、そんなにぎゅっとしたら、痛いっ、わ、わかったよ』 胸から顔を上げ、仁王の目を見つめながら、精一杯の勇気と愛おしい気持ちをこめて「仁王好きだよ」とこぼすと、仁王は困ったように笑って「夢みたいやの」なんていいながら頬に口付けてきた。 「もう渡さん。汀が誰を好きでも譲らん。……一生、一緒なり」 『……うん。仁王がいい』 もう一度落ちてきた唇は今度は私の瞼を掠めた。見つめあい、キスをして、それを何回か繰返した時に不意に仁王が私を抱きしめながら言った。 「お前さんはあれに似とる」 『あれ?』 抱きしめられたままで仁王が指す先を見るとそこには、ひらひらと舞う揚羽蝶。 「美しくて、惑わせて、絶対に誰のものにもならんくせに魅力的で、恐ろしい程に俺の心をぐじゃぐじゃにするくらい、……愛おしい」 『……それって、褒めてる?』 「褒めとるよ。……ちいとな」 『仁王っ!』 「ははは、そない顔したらいかんなり」 させたのはどっちよ。なんて言いながらも微笑んでしまうあたり私はもう、何を言われても怒れないんだろうな。 揚羽蝶は、舞っていく。 あれはもう戻ることはないかもしれない。残酷な程に美しい色。 その色は人間がまとうことなんてできないようで、そのまがまがしさは人間そのものなのかもしれない。 遥か彼方の地平線へと飛んでいくその羽を見つめたとしてもなにも変わらない。 結局私が仁王と付き合うことになったとしても、世界は変わらない。何時もどおりに時計は回るし、仁王のファンの子達を傷つける。 私だって、幸村を傷つけて蓮二を傷つけた。 きっと彼らのファンの子はそれを悲しみ、そのファンの子を好きな人はそれを悲しみ……。 結局連鎖は終わらないし、何時か誰かが傷付くのは避けられない。 それが、仕方の無い事だと終わらせるのは、あまりにも酷いことなのかもしれない。 傷つけたくないと思いながらも、幸せになりたいなんておこがましいのかもしれない。 それでも。好き。 『仁王が、好き』 「……あまり言われると襲いたくなる」 『……意味が分からない』 「そんくらい好いとう」 意味が分からないよ、とか言いつつも、私が仁王の温もりを離せないように、誰しも誰かの傍にいないと生きていけないんだ。 傷付いて。傷つけて。 それでも、また何かを求めて。 その先には何もないとしても。 「汀」 『なに?』 「……今日の放課後は、一緒に帰るき、図書室におって。……ココア、買っちゃる」 『っ……に、お』 「口移しでな」 『な、っなに言ってっ』 予行練習、とか言っていきなり深い口付けをされて、一瞬で頭は真っ白。だけど、触れた場所から愛おしい想いが溢れて、さんさんと私に降り注いでくる。 角度を変えて、響く水音さえ気にせずにキスを繰返して、二人して見つめ合い。 「まずは、幸村に見せびらかしにいくきに……おまんがつけた痕は俺が付け直した、ってな」 『え、うっ……』 「楽しみじゃ」 傷つけ、傷付くとしても。 そう言って微笑む仁王のことを愛しているという想いを止めずに進む事を私はきっと悔やんだりはしないだろう。 あの気高い揚羽蝶のように。 飛ぶ事を止めずにその空を舞い続けたいから。 終焉 あとがき⇒ 戻る |