10

さっきまでの映像が離れなくて、最後に聞こえ響いたリップ音は何処に落とされたのかもわからずに、涙が止まらない。蓮ニはそんな私の肩を引き寄せ、半ば強引に何処かへ行く。それに気付いたときには既に家の前だった。

涙を流す私の頬に大きな手が覆いかぶさる。「今日のことはもう気にせずに休むといい」なんて優しい言葉をこぼしながら、暖かく微笑む彼。蓮ニは小さい頃から本当に優しくて、いつも暖かくて……。



「幸村の次は柳かのう」

『っ……!!』



違う。違う。私はそういうつもりなんじゃないっ。けど、だって、でも……どうして。仁王。どうして。どうして。私にまで嘘ついたの。それとも、仁王のことを信じていた私が駄目だったの? 優しく慰めてくれたのも全部、あの子の……愛華ちゃんを手に入れるためでっ。




『っ、あ……』

「平気か? ……汀」



耳元で静かに響いた声は私の内側を撫でた。私をふわりと傷つけないように抱きしめた蓮ニは今、どんな顔をしているんだろう。私は、どれほどに、彼に辛い顔をさせるんだろう。



『ごめん、蓮二……』



もう、平気。そう言う私に彼はただ何も言わずに頷いた。小さい頃から彼はそうだ。私が強がっているのを気付いていながら、あえて私が一人で立とうとするのを見守ってくれていた。今も、きっと私が平気じゃないことくらい気付いているんだろう。

でも、蓮二は「そうか」とだけ答えて頭を撫でただけだった。
そのまま家に帰る蓮ニの背中に何度も「ごめん」と呟くしかない私はなんて酷いんだろう。


結局、その次の日。
私は何時もどおり教室にいる。
ただ違うのは、いつもならば聞こえる声が聞こえないくらい。

仁王の声がすることがこんなに日常的になっていたことに少々苦笑した。そう、別に彼と私の関係は「嘘」で塗り固められたものだったのだから、かまわない。

私は幸村が好きだった。
幸村は愛華ちゃんを好きだった。
だけど。
仁王も愛華ちゃんを好きだった。そして、愛華ちゃんも仁王を好きだった。
ただそれだけ。


聞こえてくるテニスボールの音に、頭に仁王のことが浮かんでまた涙が出そうだ。
嗚呼、私はなんて馬鹿なんだろう。結局、仁王も離れてしまった、なんて言う資格なんてないのに。教室で一人声を漏らす。
辛い。苦しい。……果てしなく、寂しい。その時。フワリ。



『あげ、はちょう……』



廊下を小さく横切ったその姿。
目の中に飛び込んできた鮮やかな色に、何かが警戒音を放つ。
だけど、それをかき消すように私はふらふらと廊下に出た。
私の前で雄大に飛ぶ揚羽蝶。
妖しいほどに微熱めいた色を灯したその蝶は私を誘うようにひらりひらり。境界線の先に飛んでいくその姿につられるがままに私の足は動く。

途中誰かが呼んでいた気もしたけど、それさえも忘れて足が動く。
なんでだろう。
私は、この揚羽蝶をかつて見た事がある。そう、誰かと。誰と?




「汀」




暖かい木漏れ日。
優しく甘い声。私が初めて恋をした人。幼い頃の約束。約束を交わしたその白い微笑み。
恋? なに、なんなの。
どんどんと高まる警戒音。触れようとしても触れることが出来ない揚羽蝶。

待って。待って。
逃げないで。私を一人にしないで。一人が怖くなかったはずなのに、今、孤独になることが酷く恐ろしい。
嫌だ。行かないで。待って。待って。待ってっ。



「馬鹿っ!!」




聞こえた声が、びくりと私を現実に戻した。



「何をしているんだ! ここから飛び降りて死ぬ気だったわけ!?」

『ゆ、きむ、ら……?』

「しっかりしなよ! 自分が何をしようとしたか判ってる!?」

『……私……え……?』




ココ、屋上?
そして一気に覚醒した視界に映った景色は私を抱え込んだままで、息を乱しまくった幸村の姿。右頬に感じる地面の温度。二人して屋上に寝転ぶかのような姿。体の所々が痛みを嘆く。

そして屋上の柵。

遥か遠くの空の中で、ひらひら飛ぶ揚羽蝶。その蝶が飛んでいる前の柵は、茶色の褐色に変色しており、腐りかけた根元は、人が手をかけただけで壊れてしまうだろう。
そして自分があの揚羽蝶を追いかけ続けていて、幸村が呼び止めてくれていなかったらどうなっていたかを今更ながらに理解して、一気に頭が真っ白になった。
ただ、怖いのと、わけがわからないのが入り混じってがくがく震える私の体を抱きしめたままで、幸村が息を吐いた。



「……ごめん。痛かった?」

『ち、ちがっ』

「……大丈夫。君はまだ生きてる」



ゆっくりと体を起こした幸村は瞬きを繰返す私の頬についた砂埃を軽く制服の裾で払うと、また溜息をはいた。




「まさか、揚羽蝶を追いかけようとしてた、とか言うなよ」

『……だって……』

「っ! はっ? まじなわけっ? おま……ああ、もういい。俺の心臓がどんだけ止まりかけたとかお前にはわからないでしょ」

『ご、めんなさい』




本当だよ、と言う幸村は本気で怒っている。その鋭い眼差しに保健室でのことを思い出して……同時に、あの時優しい眼差しを向けてくれた仁王のことを思い出した。



「てっきり……仁王に振られたから、自棄になったのかと思っただろ」

『に、おっ……ち、違うよ。そんなことで死なないし』

「そうだね。そんなくだらないことで死ぬなんて許さない」




幸村はきっと誰よりも人の生死を知っている。だからこそ、私にこんなに怒っているんだ。そう思うと、なんだかいたたまれなくなった。
それと。ちくり。
痛い。仁王が、私の心を殺そうとしてるみたいで。
昨日のことが一気にフラッシュバックしてきたのはその時だ。

嗚呼、そうだ。けど、きっと今、苦しいのは私よりも幸村だ。
だって私と仁王は「嘘」の関係だったけど幸村と愛華ちゃんは本当に愛し合ってたもの。
あんなにお似合いのカップルいないって学校中が祝福していたもの。
それを考えたらまた涙が溢れそうで、でも幸村の前で泣きたくなんてなくて俯いたままで無言でいると自重的な笑みをこぼした幸村が私の頭を撫でた。



「泣かないでくれるかな。泣いている所を見るとどうしようもなくなるでしょ」

『っ泣いて、な、い、からっ……』

「……そう」




相変わらず意地っ張りだね。
その声がした時には、もう涙が止まらなくなっていて、ぎゅうとスカートの上で握り締めていたこぶしに涙が落ちた。
この涙は誰のためだろう。
なんで泣いているんだろう。

わからないけど。きっと。



『ゆき、むらも、泣いていいんだよ』

「……は?」




泣きたいのは私だけじゃない。
辛いのは私だけじゃない。



『幸村もっ、辛いでしょっ、痛い、でしょ? 泣いていいよ。私、黙っとく。誰にも、っ言わない、からっ……だからっ……』



そんな、我慢した顔、しないでよ。そう呟いたのはきっと私が誰よりも幸村を見ていたから。
辛い時、苦しいとき、痛そうに笑う幸村さえ好きだったあの日があるから。




「……ああ、本当に、本城は……」




苦笑した幸村が私の顔を無理矢理あげさせて、ぐちゃぐちゃの顔を見て笑う。「酷い顔だね」って。「じゃあ見るな馬鹿」って言いながらも涙が止まらなくて。
きっと、数ヶ月前だったらこうやって幸村と二人きりで屋上にいるだけで死んでしまいそうなくらい嬉しかったな、と頭の片隅で思う私をよそに。

幸村は、私の体をゆっくり抱きしめた。




『っ……ゆき、っ』

「本当に君は、……なんでそうやって俺の心の中に入り込んでくるんだろうね」




優しい声音が、小さくなびいた。




「確かにあいつのことを……愛華のことを世界で一番好きだったよ。それこそ、他の何かを壊してでも好きだったし、手に入れたかった」




だけど、……君が俺の隣にいない日常が、怖かった。
そう言うその先の言葉を聞いてはいけない気がして、私は体をよじる。だけど幸村の力は思ったよりも強くて、私は逃げることもできない。



「本城が俺の隣にいるときはさ、正直それが当たり前だったから何も思わなかったんだ。離れて、初めて気付いたんだ」





俺は、君が、好きだ。

耳の奥に残るような淡い言葉に瞬きするのさえ忘れた。
蒼い髪が私の口元で揺れていて、息をするのもためらうほどの距離で、彼は酷く残酷な愛の台詞を吐く。



「仁王の傍にいると本城が傷付くっていうのは柳に賛成。だけど、俺は柳みたいに自分の理性に打ち勝とうとは思わない」

『ゆき、むら、はな、して』

「酷い奴だと思ってもいいよ。俺はあの頃の日常を取り戻して、君に傍にいてほしいと思う」

『幸村、はなし、て』

「駄目。……愛華の代わりとかじゃない。誰の代わりでもない。君が、君自身が、好きだ」

『離してっ、駄目、っ、ゆきっ』

「俺はもう、迷いたくない」




目を合わせてきた幸村の視線から逃げられない。必至に逃げないといけないのに。ずるい。私はずるい女だ。



「もう一度、汀に……俺の傍にいてほしい。今度は、親友としてではなく……俺の彼女として……」




目を見開く私の言葉なんて何も聞かないままで。

幸村は私の唇に口付けを落とした。



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