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一緒に帰ろうと仁王が言ってきたから待っているというのに、いっこうに来ない。
たしか今日は練習はお休みだったはずだけどなあ、とか思いながらも足音がするたびに、彼のことを想像してしまう自分が、確実に彼を気にしているみたいでどうにかなればいいと思った。

仁王とは本当に悪友なんだ。
そういえば、私が初めてさぼりをした時にも仁王は傍にいてくれた。授業を始めてさぼったその日、仁王は甘い甘いココアを買ってくれた。
その甘さはまるで毒のように甘くて、舌の上で痺れが回ったことを今でも忘れない。
そんなことを考えていたら、なんだかココアが飲みたくなって、すぐに帰ってこようなんて思いながら自動販売機へと向かった。

校舎の中にある購買部の近くの販売機でお金を入れて、ココアを押す。教室にはさすがに人はいないらしく、静かな校舎。

そういえば、幸村に告白したあの日も仁王は「ご褒美じゃ」とか言ってこれを買ってくれたなあ。
すると、不意に遠くから手をあげた人が見えた。大きな身長とそのたたずまいを私が見間違えるはずがない。




『蓮ニ、生徒会の仕事?』

「ああ、お前が手伝ってくれるのなら、それも苦ではなく幸福になるのだが、どうだ?」

『……口説き文句が親父みたいだよ』

「そうか、では直接的に一緒にいてほしいと言えばいいか?」




にやりと微笑んだ蓮ニから目線をそらすと、彼は「お前は相変わらず愛おしいな」なんて恥ずかしげもなく呟くと私の頭に手を乗せた。



「おおかた、仁王を待っているのだろう」

『正解。でも詐欺師さんに騙されたかもなあ』

「……来ないのか?」

『そう。まあね、別にいいんだけどさ』

「お前にそのように想われる仁王が疎いな」

『……黒いよ蓮ニ』





蓮ニの手の中には書類がたくさんあって、どうやら彼は相変わらず生徒会も忙しいらしい。
お疲れ様、と口にした時に見せた少し切なそうな笑いかたになんだかちょっと胸が痛くなった。




『まあ、今日はちょっと駄目だけど、明日でいいなら手伝うよ?』

「……いや、いい」

『なにさそれ』




不意に私の耳元に口を寄せた蓮ニはゆっくりと囁いた。



「密室でお前と二人きりなど、理性がもたない」



一気に熱が顔に集まって、反射的にクチビルを噛むと、蓮ニは酷く幸せそうに微笑んできた。そんなことを繰り返しながら、ふ、と通り過ぎた教室。

扉の向こうに誰がいるかまではわからなかったけど、瞬間的に聞こえた切なげな喘ぎ声はさすがに私にも分かった。
同性の声。なんだか、色めいた水温まで聞こえてきそうなほどの生々しい音と声。

蓮ニもそれに気付いたようで、少し怪訝そうな顔をしながらも「離れようか」と耳打ちしてきた。
私も、仁王を待たないといけないからと思ってココアを手にその場を離れようとしたとき。




「ん、ん……にお、」

『……え』





聞こえた声。
単語。
今、誰の名前を呼んだ、の……?
違うよね。何故か判らないけどそう呟いてしまった私の耳に届いた二つ目の声。




「におっ、うせ、ぱっ……もっとぉ」

「……欲張りな奴やのっ……」




あれ。あれあれ。
なんだろう。目の前が真っ白になってきた。あれ、私、今手に何を持ってるんだっけ。
ココア。そう、ココア。

仁王、が……私に、よく、買って、くれ……たココア。




「も、っと、して……っ」

「ちょっと黙りんしゃい」

「んっ……」




がたりと机の揺れる音。
吐息。声。リップ音。嫌だ。嫌だ。呼吸の合間に聞こえる呻き声。喘ぎ声。

やだ。
嫌だ……嫌だっ!!




「あいし、てるっ、よ」

「……俺もなり」




アイシテル。
オレモ。オレモ。
……ああ、駄目だ。駄目だ。
頭がキンキンと鳴っている。目の前が何も見えない。聞こえない。
気づいた時には、その教室の扉に手をかけていた。




「やめろ汀っ!!!」




蓮ニの声が聞こえたその瞬間にはもう遅くて、私の目の前に広がっていたのは、息を乱した女子。それに覆いかぶさる私が待っていたはずの人。

白い。肌。解かれた後ろ髪。
それから……。ああ。もう見たくない。生々しいその映像なんて見たくない。
ただ、仁王の目線が此方にむいていると気付いたときには、からからとした声が溢れていた。




『そっか。……そっかそっか。あはは。……そういうことだったんだ。あはは……。……ねえ、蓮ニはすごいなあ』

「……やめろ汀」

『ねえ、蓮二の言うとおりだったよ。本気になっちゃ駄目だって、さすが蓮ニ。すごいなあ』

「やめてくれ、汀」

『あ……は、は……っ……そう、だったんだね』




がこんと、音をたててココアが落ちる。女の名前を私は知っている。どうして彼女がここにいるのかはわからないけど、いや、理解したくも無いけど。

とにかく。
そういうことだったんだ。

どうして仁王は私のことを慰めてくれているのかずっと知りたかった。どうして幸村のことをまだ好きでもいいと言って来たのか判った。
どうして……どうして、私の傍で私を支えてくれていたのか判った。




『仁王は……その子が好きだったから私を慰めたんだね……。だから私に幸村をまだ好きでいてもいいって言ったんだね』





仁王と両想いだったんだね。
ねえ、愛華ちゃん。

そう呟いた私の体を誰かが抱きしめた。ああ、誰かが私を落としていく。何も聞きたくないし、何も言いたくないし。もう、何も。見たくない。
そう考えた瞬間にこみ上げてきた涙と一緒に私は叫んでいた。



『信じたかったっ!!! ……仁王、のこと』




仁王は私のことを一瞥した後にゆるりと体を起こした。
私は何も見えない。
床に寝転んで頬を蒸気させているのが幸村の彼女であるはずの子だなんて知らない。
知らない。知りたくない。もう、なにも。




「これが現実じゃ」




ひどく澄んだ声。私の体が何かに捕らわれる。その瞬間からくつくつと笑う仁王の顔は見えない。
目の前に広がるのは闇だ。ああ、そうか、蓮二が抱きしめてくれているんだ。




「幸村の次は柳かのう」

「黙れ仁王。自分のしていることがわかっているのか。精市の恋人を無理矢理……」

「無理矢理、か」




参謀も馬鹿になったんか?
そう笑う仁王の足元のほうで愛華ちゃんが彼を呼ぶ声がした。

幸村ではなく。仁王の名前を。

その響きを聞いたと同時に、もう何もかもがどうでもよくなって、私は蓮ニの胸を小さく押しやった。彼は少し腕の力を緩めて私の顔を見つめる。嗚呼、そんなに切なそうな顔されたら泣きそうになるのに。
私は乾いた唇で「大丈夫」とこたえ、仁王に対峙する。

彼はこんな顔もするんだ。
今までどれほどに優しい眼差しを向けられていたのかがよくわかった。
嫌な空気。
男女の営みなんて私は知りたくなかった。……仁王なら、私の傍にいてくれるのかもしれないと勘違いをした。
それと同時に。
体がもう止まらなかった。



『っ……』



なんのためらいもなく彼の右頬をはたいたのと、床で未だ快感に浸っている彼女が私の存在にやっと気付いたのはそのときだった。



『仁王のこと、好きだった。信じたかった……ねえ、理由があるんでしょ? にお……』

「俺はおまんのことなんてこれっぽっちも想っとらんよ。俺が手に入れたかったのはこいつじゃき」




彼がその長い指先で愛華ちゃんの顎の裏を撫でると彼女は、無造作に制服を着崩したまま、私がいることも忘れたように喘ぐ。
しゃがんでいる仁王の目線が、私を見下す。




『だけど、幸村を傷つけた仁王は大嫌い。嫌い』

「おうおう、幸村様様やのう」

『やめて! ……幸村は、その子のこと本当に愛してたのにっ……信じてたのに! あんなにっ、あんなにっ……なんでっ、幸村から奪ったのっ!?』

「しょせん、男と女なんてこういうもんじゃ」




お前さんも俺に抱かれるか?
そう囁いてきた仁王の無機質なリップ音に、何も考えたくなかったのに……。
涙が出た。




「邪魔じゃ。幸村なり柳なり自分に優しくしてくれる奴のところに行きんしゃい」




そう吐き捨てた仁王は、私の体を蓮ニの方へ押し付けるように力をこめて押し付けた。ぐらりと倒れる体。

嗚呼、なんだ。
現実なんてこんなものか。


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