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さようなら。心の中で何度も何度もその背中告げた。
ありがとう。出会えた感謝をその横顔に告げた。
だけど。それ以外に言いたい言葉はあるはずなのに。

もう、私は話すことが出来ない。
無様に舞い、羽根をちぎることでしか君に思いを伝える事ができない。



「君には本当に感謝しているんだ」



優しい声だ。だけど、生徒に向けられるそれとは違う。私を気遣ってくれた声。静かで、流れるような幸村のこの声を、久しぶりに聞いた気がする。それだけで、逃げ出したくなる自分は、シーツの中でひたすら丸くなることしかできない。



「愛華と付き合えるようになったのは、まあ……確かに俺が動いたのもあるけど、君が俺の相談に乗ってくれたからだよ」




嗚呼、痛い。未だにこんなに胸が痛いんだ。だけど、それは幸村がまだ好きだからなのだろうか。
分からないけど、とにかく心臓が握りつぶされそうだった。



「汀のおかげで、俺は今幸せ、なんだと思う……きっと」

『……何、その……言い方』


あまりにも言い澱んだ言い方に、少しカチンときて、思わず声を出していた。だって、私がどんだけ頑張って協力してあげたと思ってるのよ。それなのに、多分?
ふざけるな馬鹿。……だけど、冷静になってきた時に、やっぱりその先を言うことが出来なくて、またシーツを深く被ろうとしたら、こつり、と頭を小突かれた。


「……いい加減出てこないと、話しづらいんだけど」

『…………じゃあ、お帰り下さい』



別に私は頼んでいません。と付け加えつつもどういう顔をしたらいいか分からない。
勿論、幸村の顔も分からない。
面倒臭いならさっさと帰ればいいのに。きっと幸村はいい奴だから、「友人」の私が倒れたことを気にしてくれているんだ、なんて思うとなんだかどうしようも無くなるのに。
唇を噛み締めた時、勢いよくシーツが剥がされた。
開けた視界。そして瞳に映った姿。


『……ゆ、きむ、らっ……』


芥子色のユニフォームを着た幸村の姿。
数秒直視した後で、すぐさまシーツに戻ろうとして、シーツを手にしたけど、あろうことか幸村はそのシーツを床に落してしまった。
その力が思ったより強くて、それに、貧血だったのも手伝ったようで、体がぐらり。



「っ、ちょっ、汀っ」



ぐらりと歪んだ視界。
吐き気。やばい、気持ち悪い。そう思ったときには、幸村の芥子色のジャージが見えて、最後の抵抗と言わんばかりに、私はとっさにその胸を押しやった。
結果。



『いっ……つ……』

「なっ、なにやってっ」



思い切りベッドから落下。背中に走った激痛と、がんがんする頭痛。焦ったような幸村が、少し怒っているのが分かった。



「お前馬鹿なわけ?! 貧血で倒れて、いきなり動くどころか、助けようとしたのに拒否る……」

『幸村君には関係ないですからっ』




声を聞きたくなくて、叫んだ声があまりにも響いた保健室。先生はいるのだろうか。いや、私が落下しても誰も来ないんだからいないだろう。
保健室の床に仰向けになったままの私を、見下ろす幸村の顔が、だんだんと歪む。
ほら、その顔も久しぶり。
何時以来かな。
ああ、そうだ。……幸村と親しげに話していたことに腹を立てた女子に水をかけられたことが幸村にばれた時だ。



「どうして俺に言わなかったの」



あの時は、もう少し静かな怒り方だった。だけど今は、思いっきり黒いオーラ満載。そうだよね。だって、幸村君なんて今まで一回も言った事ないから。幸村に敬語を使ったのなんて初めてだから。



「ねえ、さっきからどうして敬語なんて使うわけ?」

『なにかおかしいでしょうか』

「あの日から。俺が付き合いだしてから確実にお前は俺を避けてる……。……とりあえず座れば?」




とりあえず、起き上がろうとした私の横に座った幸村は、私に手を差し出した。
大きな手。テニスを頑張っているだろう手。
今までどんなに望んでも掴む事ができなかったその手に、今ならば触れられるのに。




「……!」

『一人で、平気です』




私は、自力で立ち上がった。
その時の幸村の顔は、今まで一度も見た事が無かった顔。大きく眼を見開いて、神の子の癖に口をぽかんとして、まるで静止画みたいに固まっている。

嗚呼。そんな顔していても美人さんなんだから、本当に罪だ。
私が好きだった人。今は? 今は……。



『私じゃなかったら、そういう行動されたら勘違いされますよ』




幸村のことを好きな女の子なんてこの学校に何十人といる。同級生から、後輩までそれはもう幅が広い。
そんな人気者幸村に、手をさし伸ばされて「立てるかい」なんて言われたら普通の女の子は恋に落ちる。……チッポケな私の心臓でさえ、高鳴っているのだから。

私は、そのまま保健室を後にしようと足を進める。
薬品の匂い。そこにわずかに鼻に残る幸村の匂い。
自分で離れようとしているなんて、一ヶ月前の私が聞いたら激怒しているかもしれない。
だけど、もうあの頃には戻れない。

純粋に幸村を好きで仕方なかった日々に戻る事なんてできない。
心に浮かんだぐるぐるした思いを消そうとしていると、左手首を掴まれた。
痛い。こいつ、こんなに馬鹿力で人の手掴んで何のつもりだ。




「俺の話、まだ終わってない」

『知りません』

「なんで、最近俺を避けるわけ? 意味が分からないからこうやって聞いてるんだよ」

『別に、避ける理由も近づく理由もありません』

「は? お前……」




痛い。手首? それとも心?
分からないままで、とにかく逃げ出したくて、でも幸村の手を振りほどくことで全てが終わってしまいそうな気がして……。
終わらせたほうがいいのに。
こんな叶わない恋なんて、いっそのこと捨ててしまったほうがいいのに。

そしたら、仁王に対して罪悪感を持たなくてもよくなる。
もともと仁王のことは友達として大切だったから、ちゃんと彼のことを見れば好きになれるはずだ。
そうだ。そうなんだ。
私は、これ以上誰も……誰も。



「仁王とは上手くやってるんだ」

『っ!!!』



反射的に振り返ってしまった時にはもう遅く、私の視線は幸村に捕らえられてしまった。
駄目。その眼に捉えられたら、離れられないのに。やめてよ。やめてよ。



「仁王が好きだなんて知らなかったな」

『……関係ないことですから』

「俺は、所詮お前にとって相談もできないような存在だったわけか」



勝手な事言わないで。
相談? 馬鹿じゃないのこの鈍感男。あんたにあんたの相談してどうすんのよ。
幸村の視線は、私を離さない。
イップス、だったかな。確か幸村はテニスでそういう技を遣うらしいけど、まさにそれだ。
眼も、耳も感覚も何もかも。
幸村でいっぱいになってしまいそうになる。



「ああ、俺に相談する必要もなく付き合えるくらい二人は相思相愛だったわけか」

『っ……』

「俺も、汀が幸せになるなら別にそれでかまわないんだけどね。よかったじゃないか」

『……ありがとうございます』

「……ねえ、いい加減敬語止めないと、不愉快だ。ああ、それとも自分以外には敬語を使うように彼氏様から言われているのかな?」



冗談めいて言う幸村に悔しくて、怒りさえわいてきそうだ。だけど、前半の言葉は本当のようで、また手首の力が強まった。
痛い。痛い。何も知らないくせに、幸村は勝手すぎる。



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