03






 濡れた髪はしっかり拭いて、着替え終えたマリアが廊下に出ると、食堂の方からすでに宴らしい騒ぎが聞こえていた。
 こういうところはさすがに赤髪海賊団とでも言うべきか。何でもかんでも宴にできるあたり、彼らは幸福を見つけるのが上手いのだとマリアは思う。
 ただそのまま食堂へ行って宴に加わる気分にはなれず、とりあえず水でも貰って落ち着きたかった。
 風呂場のそばに、簡易キッチンとテーブルと椅子がある小さな部屋があることを、マリアは思い起こす。
 そこへ行こうと、ふと廊下の先に目をやったとき、窓が見えた。
 人ひとりが何とか通れそうな……何の変哲もない窓だ。
 ―――だがなぜ今自分は「人が通れそうな窓」などと考えたのだろう?
 違和感を自覚した瞬間、ぞわりと背筋が泡立つ気がした。
 窓は閉まっている。
 当たり前だ、外は大雨。赤髪海賊団の仲間たちが、意味もなく窓を開け放しておくような真似はしないことをマリアはよく分かっていた。
 だからこそ余計に違和感を感じたのだ。

「………」

 嫌な胸騒ぎが大きくなった。
 無性にミホークの顔が見たくなったような気がして、マリアは頭を軽く振る。
 気のせいとは言わないが、それを理由に彼に甘えるような真似は絶対にしたくなかった。
 マリアは足早に部屋へ入ると、蛇口をひねってグラスに水を注ぐ。
 不安ごと飲み下すようにそれをあおった時、突然扉がノックも何も無しに開いて、マリアは危うく噎せそうになった。

「マリア? ああ、上がったのか」
「……シャンクス、びっくりさせないで」
「? 悪ィ、ンなつもりはなかったんだが」

 シャンクスに曖昧に笑ってみせて、マリアはほっと息を吐く。ただでさえ妙な気分なのだ。入ってきたのがシャンクスで、良かったと思った。

「…なぁ、マリア」
「…なぁに?」
「いい刀だな。それ」

 シャンクスが視線で示したのは、マリアの腰にさしてある"夜桜"だった。
 もう重みにも慣れてきて、"夜桜"が腰にあることが、意識の中で受け入れられつつある。

「"夜桜"っていうの。ミホークが見立ててくれたのよ」
「あいつが?」

 そうか、と答えただけのシャンクスは、彼にしてはあまりはっきりしない反応にも思えた。
 なにか言い含みたいことでもあるのだろうかと、マリアは水のグラスを持ったままシャンクスへ向き直る。

「シャンクス…どうしたの?」
「ん? いや……あー……」
「……何なの?」
「…マリア。鷹の目とはうまくいってんのか?」

 いきなり核心ときた。ある程度予測はついていたとはいえ、先ほどとはまったく別な意味で心臓が跳ね上がる。
 だが彼が心配するほど、ミホークと長く「付き合って」いるわけでもなかった。
 だいたい恋人と言い得るのかすら不安定だが、そこを突き詰めるとまた泣いてしまいそうで、それだけは避けたかった。

「…うまくっていうか…ついこの間会ったばっかりなのよ? 知らないことのほうが多いし…よく、分からないわ」
「…そうか」
「ミホークのことなら、シャンクスの方が詳しいと思うわ。教えてほしいくらいよ」

 あえて冗談のように軽く笑い、また蛇口へ向きながらマリアが言うと、背後の椅子に腰かけたらしいシャンクスが、苦笑する気配がした。

「おれだって、あいつのことはよく知ってるわけじゃねェよ」
「…でも私より長く付き合ってるわけでしょう?」
「長く付き合ってるから色々知ってるわけでもねェ。口癖が"暇つぶし"ってくらいだな」
「"暇つぶし"……」
「その暇つぶしでやられた奴はたまったもんじゃねェだろうがなァ」

 からから笑いながらシャンクスが言う。
 彼にとっては、特に深い意味もない、単なる事実だったのだろう。
 だが瞬間、マリアの脳裏に、あらゆる情景が、言葉が、よみがえって走り抜けていった。

 雨宿りの酒場で再会してから、彼はいったい何度マリアの名前を呼んだだろうか。
 数えきれないくらい、あの低い声で、彼は自分を呼んでいた気がする。
 ミホークが名前を呼ぶときの声、それを思い出すと、身体に震えが走った。それは心を底から揺るがしていくような、恐れや寒さなどとは違う、精神の震えだ。
 彼がつぶやいたあらゆる言葉。
 一見、素気なくて短くて、淡々としている…だが無駄なことをつけたさない、不器用な、一途にさえ思える一言。短いようでひどく濃厚だった数日間にミホークが告げた一言を、マリアは何一つたりとも忘れていない。
 そして無骨な言葉の中にシャンクスの言う「口癖」が一度もなかったことに気がついたとき、抑えていたはずの涙が堰を切ってしまっていた。

「ねぇ……」
「…何だ?っておま、泣いてんのか!?」

 涙に濡れて歪んだ声に慌てふためくシャンクスに首を振って、いいからと意思表示する。

「口癖なんて、私…私そんなの聞いたことなかった…」
「!? そりゃ、お前…悪ィ、そういうつもりで言ったんじゃ」
「"暇つぶし"だなんて…あの人は一度も言わなかった…!!」

 マリアが言いたい意図に気付いたのだろう。
 シャンクスが立ちあがって、大きな手でマリアの頭をそっと撫でる。
 幼い頃から慣れたその感触にさえ、ミホークの体温が重なりまた涙が溢れた。

「どうして…? なんで、あの人は…」
「マリア。それはお前が確かめろ」

 穏やかな一言に、感情で熱された心が冷水をかけられたように縮みあがる。
 ああ、シャンクスに甘えるなんて、いい加減子どもっぽい真似はやめにしたかったのに。頭でいくらそう考えていても、泣きじゃくって縋りついて、自分は何一つこの人から離れられない。
 だがいつまでもそうさせてくれる人でもないことを、マリアは知っていた。
 だからこそこうして甘え倒しているのだとしたら、自分はとんだ性悪だ。

 シャンクスに言われて、気がついた。
 マリアは今まで彼のことを見ようとしてきただろうか。
 周りに揺らめくあらゆるものに惑わされて、彼の姿をまっすぐ見つめようとしなかったのは、寧ろマリア自身ではなかったか。
 あの人はあんなにもそばにいたのに、どうしようもないくらい馬鹿なことをしてきた。頬を冷たい涙が幾筋も伝って床へと落ちていく。

「……でも! 今更、何を、どうやって言えばいいかなんて…!」
「場所と時間くらいなら、おれが作ってやれるさ。だが肝心なトコはお前次第だ」

 優しいが厳しさも明確に含んだ言葉に、マリアはぐっと嗚咽を飲み下す。
 シャンクスはいつもそうだ。そばに来て、道を示してくれる。
 だが選ぶのはいつもマリア自身だった。

「…わかってやれ。お前にしか見えないあいつが、いるんだろ?」

 察しろだの、そんなことじゃなく。海賊でも、世界一の剣士でもない、ひとりの男の姿を見てやれと、シャンクスは言った。
 マリアの頭をぽんぽんと叩いた温かい手に、背中を押された気がした。

「……シャンクス」
「ん?」
「ありがとう。もう、大丈夫だから」

 あなたのおかげで、私はまた自分の足で立ち上がって、自ら選んだ道を歩くことができる。
 マリアは涙を拭ってシャンクスから離れた。
 その姿を見届けるシャンクスには、かすかに寂しさが見え隠れしていたけれど。マリアは気づかないふりをした。

「もう、いいか?」
「ええ」

 きっぱりと頷いたマリアに、シャンクスはまるで苦笑いするかのようにほんの少し息を吐いて、ここで待ってろと言って出て行った。




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