05
―――目を開けると、夜の闇よりも深い黒が、視線を遮っていた。
黒いのは布。ミホークの舟に張られた帆だ。屋根のように甲板を覆っていて、それが寝ころんでいるマリアの視界をも覆い隠しているのである。
これはじきに海が時化ると判断したミホークが張ったのだった。
マリアは、深く深く息を吐き出し、そしてまた吸い上げる。あくまで、静かに。
隣には、規則的な寝息を立てているミホークがいる。
熱すぎるほどの抱擁と接吻のあと、二人はそのまま熱情に流されることなく…ただ抱きあったまま、眠っていたのだった。
「少し休め」と言い出したのはミホークだ。病み上がり、しかも徹夜明けなのだからと。
夜を徹していたのはミホークも同じで、そのことに思い当ったマリアは大人しく彼の言うとおりにしたのだ。
だが何故か、ミホークの腕の中にいてさえ、マリアはあまり安眠できずにいた。
彼のせいではない。たしかに、お互いに肌が触れあう距離にいて胸が高鳴らないわけではない―――だがそういう肉体的なつながりがなくても、こうしてそばにいられるだけで、最上の幸福だった。
しかし目を閉じて眠ろうとすればするほど、すかさず悪夢がやってきて、マリアの意識を責めさいなむのだ。
マリアはそれに妙な違和感を感じていた。
夢を見るのは珍しいことでもないが、夢の続きを見るのは滅多にないことではないだろうか。
一度悪夢にうなされて目覚め、もう一度眠ろうと目を閉じると、夢の続きが待ち構えているのである。
「夢」といえば身内に心当たりがないわけでもなく、マリアは嫌な不安のままにそっと息を吐き体温を逃がす。じっとりと汗をかいた体は気持ち悪かった。
帆の外は、ミホークが読んだとおり時化になりつつあり、波が高くなって、雨が降り出していた。
ぱたぱたぱた、と厚い帆布をたたく雨粒の音。それが子守唄代わりにでもなればいいと、マリアがもう一度目を閉じようとしたとき。
機械的な電子音が、雨音をかきわけて聞えてきた。
「………!!」
聞きなれたはずの電子音。ここ最近は聞いていない―――否、聞かないようにしてきた音。それは電伝虫の呼び出し音だった。
源はマリアのトランクだ。唯一の荷物であるこれは、アヤメの女中が先に舟へ届けておいてくれたものである。
しかしためらっている暇はない。あまり長引けばミホークも気づいて起きてしまう。
マリアは、意を決してトランクを開け、電伝虫の包みをつまんで帆の外へ出る。ここなら雨の音で会話も漏れないだろう。
受話器を取ると、無表情だった電伝虫が不遜な顔つきに変わり、予想していた通りの男の声が聞こえてきた。
『久しぶりだね…って分かってるよね? 念のために訊くけど』
「ええ。分かってるわ」
『それは良かった。忘れられてるかと思ったよ。まさか七武海と逢い引きしてるなんて思いもしなかったけどね』
単刀直入に本題に斬りこんでくる。相変わらず心臓に悪いやつだとマリアは思う。
革命軍の中では、これでも一番付き合いが古い。彼がどんな人間かは、マリアが一番よく知っていた。
だからこそ、連絡が取れないようにあえて避けていたのだが。
『熱でも出てるの? 自分が何してるか分かってる?』
「分かってるわよ」
『なら訊くけど、まさか本気じゃないだろうね』
「………」
黙ったマリアに、電伝虫がすかさず追い打ちをかける。
『なんでそこで黙るんだい?』
「あんたには関係ないわ」
『あるんだなぁ、それが。次の任務で一緒になるのを忘れてるわけじゃないんだろう? 裏切り者の面倒をみるのは御免だよ』
「何も裏切ってないわ。だから私が誰と何をしていようと、あんたには関係ないでしょう」
怒りを隠しもしないでマリアが言えば、電伝虫が盛大に嘆息した。
雨にさらされて、マリアの髪も身体も濡れそぼっていく。
『そうだね、君が誰と寝ていようがおれにはもう関係ないね。でも組織として無関心じゃいられない。本当に七武海と付き合えると思ってるのかい?』
「………」
『所詮、あいつらは"政府側"で、おれたちは革命家だ。相容れないよ。だいたい"鷹の目"じゃあ、情報源にもなりそうにないけど』
「あんた、それ以上しゃべったら殺すわよ」
喋り続ける電伝虫に、マリアが苛立ちもあらわに会話をぶつ切りにする。電伝虫が『会話になってないよ』とぼやいた。
「いちいち地雷踏みにかけてくるんじゃないわよ。分かってないとでも思うの? 私が革命家で、彼は七武海だということを」
『分かってるなら、本気じゃないってことだね?』
沈黙。
叩きつけてくるような豪雨に変わった滴が、容赦なくマリアの頬を濡らして髪からぽたぽたと滴り落ちる。雷がとどろいて、稲光が黒い海原を冴え冴えと一瞬だけ照らして消え去った。
荒れ狂う海原は、そのままマリアの胸の内でもあったのか。
しかし発されたのは、場違いにさえ思える、笑い声だった。
『…なんでそこで笑うの?』
「ふふ、別に。そんなに気になるなら、確かめにくれば?」
『何だい、それ。答えになってないんだけど』
「私がどんな立場で、誰と一緒にいようが、あんたには関係ない。でもね、」
愛してるのは確かだわ。
それは心すべてを込めたような声音だった。
―――電伝虫が、深々とためいきをつく。
『…イカれたね』
「何とでも」
マリアは受話器を放り出した。がちゃりと荒っぽい音を立てて、電伝虫は沈黙する。
このまま海にでも沈めてやりたいところだが、それは流石にかわいそうか。マリアがびしょびしょになってしまった顔をぬぐって、肌にへばりつく黒髪をかきあげたとき、
「何をしてる」
「!……ミホーク」
背後からかけられた一声に、思わず肩がはねてしまった。振り向けば、ミホークが眉間に皺をきざんでこちらを見ていた。
いったいいつから起きていたのだろう、と気になったが、問いかける前にタオルが降ってきた。
「こんなに濡れるまで、外にいたのか?」
がしがしと髪を拭いてくれるミホークにびっくりしながら、マリアは「ごめんなさい」と口にする。そして、礼も。
「…ありがとう」
「……いや」
風邪をひくだろう、とミホークが帆の中へ入るように促す。マリアもそれに従おうとしたが、ふと海原の向こうに光る明かりが目にとまる。
「…どうした?」
「…あれ、船じゃない…?」
マリアが指さした先をミホークも見つめれば、たしかに波間に揺られる明かりがある。二つ名のままに鋭い視線は、明かりの源の形状をも容易く捕えていた。
ミホークの眉間に、マリアへの心配ではない、別な感情が皺になって浮かび上がる。
「レッド・フォース号…」
ぽつりとマリアが呟いた船の名前は、海賊であればおそらく誰でも知っている。"白ひげ"のモビー・ディック号に並ぶ、有名すぎる竜の船。
マリアにとっても、ミホークにとっても、それはとうに見慣れたものだった。
[ 38/46 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[栞を挟む]
表紙へ