03
着替えるマリアを置いて行ったあと、ガラスが割れるような音がしたので、ミホークは様子見のために部屋まで戻ろうとしていた。
正直な心持としては気まずいものがあるのだが、心配になったのも否定できなかった。
マリアが、大抵のことには対応できるだけの実力を持っているとしてもだ。
ミホークが玄関のそばを通ると、なぜかマリアと女中が一人、そろって箒とチリトリを持って掃除していた。
見ると引き戸が半壊していて、ガラスが割れた音はこれが原因だと知れた。
「何をしている」
「あ、ごめんなさい、遅くて……ガラスを割ったから、掃除を」
「……お前が割ったのか?」
「……ええ、まあ」
何かが強くぶつかったのか、引き戸の壊れ方は派手だった。マリアのほっそりした体躯からは想像しにくい光景ではあった。
怪我がないように見えるということは、マリア本人がぶつかったわけではないようだったが、能力者である彼女なら、何かを意図的に吹き飛ばすくらい容易いだろう。
「怪我がないならいいが、何があった」
「え?……それは……」
言いにくそうに目を逸らすマリア。先ほどの話をすべて伝えてしまうのはさすがに気が引けたのだ。
言えないような事態が起こったのかとミホークが眉をひそめると、女中が助け船を出すかのように言った。
「良くない輩が来てたとこを、お客様が追っ払ってくれたんですわ」
「……放り出す時にガラスを割った、の」
きまり悪そうなマリアの様子に、そう気にするほどのことではないだろうとミホークは思う。
しかし、マリアが何を思い何を考えているかなど、ミホークに分かるわけもなく。理解が及ばずに傷つけた記憶が未だ生々しい。
「…怪我がないなら、いい」
「え?……そ、う?」
「早く着替えて、戻ってこい」
戻ってこい―――と。また違う意味をも込めたことを、マリアが知る由もないのと同じなのだ。
そのまま踵を返してしまうミホークの背中を、マリアもまた見送るしかなく。まだ到底、二人の間に横たわる黒々と淀んだ溝は埋められそうにもなかった。
言わなければ何一つ伝わらないというのに、つたない言葉はもどかしく空を切って消えていく。
「うん……すぐ行くわ」
もっと違う声音で言わせることなど、いま自分に持てる言葉では叶わないのだとミホークは理解していた。
***
アヤメの仕事場は決して広くない部屋だったが、初めて入ったマリアは所狭しと壁に並ぶ刀に思わず圧倒された。
よく見ると、刀以外にも、薙刀や槍、剣など、あらゆる刃物がかかっていた。
部屋の奥では、タスキをして袖を捲ったアヤメが、研かれた黒刀を持って待っていた。
「あらぁ、お二人揃っていらしてくださって、ありがとうございます。さて、先ずは此方ですわ」
アヤメが黒刀をミホークに手渡す。
ミホークが黒い柄を握ると、マリアはまるで彼の腕と刀とが一体化したかのような錯覚をおぼえる。
鞘のない、鴉の濡羽色のように輝く長大な刀が、ミホークの手にこれ以上ないほどしっくりとおさまったのがわかる。
マリアは、彼が世界最強と謳われる理由の一端を垣間見たような気がした。
ミホークが黒刀を軽く一振りし、アヤメに頷いてみせると、アヤメが嬉しそうに微笑んだ。
ミホークさえ満足させられるのだから、彼女の腕前は間違いないものなのだろう。
その光景を半ば以上ぼんやりした頭で眺めていると、アヤメがふいにマリアのほうを向いて言った。
「あと、姫さんには此方ですわ。お似合いになるといいんですけど」
「……私に?」
アヤメが差し出したのは黒い腰帯だった。
黒地に金糸で美しい蔓草模様が、そして朱の糸で椿が二輪、縫い取られていた。
美しい帯だった。
だがどうしてアヤメがこれをくれるのかが理解できない。
「あの……どうして私にこれを?」
「あら、あんさんから聞いていらっしゃりませんのん? 早ぅネタばらしして差し上げたらいいですのに」
アヤメがにっこり笑ってミホークを振り返ると、彼がほんの少し苦々しく口元を歪める。その姿を直視している勇気はなく、マリアが目を背けようとすると、唐突に目の前に刀が一振り、差し出された。
「抜いてみろ」
あまりに突然のことで、思わずミホークを見返すと、早く持てと言わんばかりに刀が揺れた。
黒い柄。これにも金糸が巻いてあって美しかったが、マリアがそれを握ると、ずっしりとした刃の重みが腕に伝わってきた。
マリアとて、刀が扱えないわけではない。剣士とは名乗れないが、それなりに振るった経験はあった。
すらり、と抜くと、桜の花びらが散りばめられたような、美麗な刃紋が姿を現す。
よく見れば、それはミホークがエースに突きつけていた、あの刀だった。
「………綺麗」
「お前にやる」
「…………えっ?」
またも唐突すぎる一言にマリアは素っ頓狂な声をあげてしまう。彼は今何と言った?
「銘は"夜桜"だ」
「そうなの……って、どうして……!?」
ミホークが考えていることが、分からない。
相手は最高の剣士。
彼に刀を賜れるのならば、これほどの名誉はないだろう。
世の剣士にとって見ればだが。
剣士ではないマリアに、一度は自らも振るった刀を与えるなど、信じられなかった。
「そいつは、お前に似合う。そう思ったからだ」
「私、に………」
ミホークからの初めての贈り物が、刀だとは。
悲しくなるようなことが嫌というほどあって、もう自分は彼にとって不必要な存在なのかもしれないと絶望しかけていたというのに。
この贈り物の意味がどうのとか、どうしてマリアに似合うと思ったのかとか、気にならないわけではない―――気にならないわけがない、だがもはやそんなことはどうでもよくなってしまう。
どうしても、嬉しい気持ちがこみ上げてくるのが抑えられなかった。
「ありがとう……」
この心が滅んでしまうまで、大切にしようと決めた。
ミホークが何を思ってこれを贈ったとしても。
ぎゅ、と"夜桜"を抱きしめて、マリアはそっと礼を言った。
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