02






 エヴァンが立ったテラスからは、アプリリウスの夜景がよく見えた。
 高いビルから見下ろす夜の街並み。ぽつぽつと灯る明りは、ちりばめられたダイヤのようだ。
 エヴァンのそばを、夜のつめたい風がやんわりと吹き抜けた。

「…あの、」
「? はい?」

 背後から呼ばれてエヴァンが振り向くと、そこには青年がひとり。勿論イザークではない。直接の面識はなかったが、エヴァンは頭に入れていた来客のリストからその名前を探し出す―――たしかホワイト家の子息だったか。

「…なにか御用でしょうか」
「あ、その…もしよかったらなんですが…」

 ぼくと踊っていただけませんか?

 青年の誘いに、エヴァンは内心で舌打ちする。イザークと踊ったのは不可抗力だったが、彼とは踊る理由が無い。
 だから着飾るのは嫌だったのに…おまけにその元凶となった相棒は、いま隣にいない。
 疲れたとでも何とでも言って、兎に角断らねばなるまい。穏やかな笑顔の彼には悪いが……エヴァンがあいまいな笑みを作って、口を開こうとしたとき。

「貴様、そこでなにをしている?」

 底冷えがしそうなほどの怒りが込められた一声。今更誰何を問うまでもない。

「彼女は俺の相手だ。手をだすのはやめていただこうか」

 青年は一瞬呆気にとられたようだった。だがここで容易く引き下がるわけにもいかないのか、緊張した沈黙が流れる。
 沈黙をうち破ったのはイザークのほうだった。

「…さっさと失せろ!!」

 その迫力たるや、鬼も裸足で逃げ出しそうなものだった。なまじ顔が整っているだけに、イザークが怒れば相当な凄味がある。エヴァンは、あわてて離れていった青年を多少ならず哀れに思った。
 結果的に、エヴァンは助かったのだが。

「…かわいそうな人」
「ふん。お前に近づいてくるのが悪い」

 イザークは、仏頂面のままエヴァンにグラスを差し出した。グラスにはエヴァンの瞳の色と似たシャンパンと、サクランボが揺れている。

「…酒は苦手だったか?」

 一瞬、間を置いてグラスを受け取ったエヴァンにイザークが問う。エヴァンはゆるゆると首を横に振った。

「いいえ、ありがとうございます」
「…礼を言われるようなことじゃないがな」
 イザークはテラスの手摺にもたれる。夜風が、火照ってばかりの頬に心地よく触れて通り過ぎていった。

「…もっと驚かれるかと思いました」
「…なに?」
「私のことにです。戸籍が無い軍人の女なんて、そういるものではないでしょう?」

 エヴァンはイザークの隣に、すこし離れて手摺にもたれる。その間合いは、手を伸ばせば触れられる距離であり……伸ばさなければ指先さえも触れられない距離でもあった。

「お前こそ、驚かないのか?」
「なににです?」
「…その……さっきの俺にだ」

 エヴァンは、さっきのイザーク…と思いめぐらす。ここに来てから、イザークのことでは驚いてばかりな気がする。
 イザークのほうを見ると、ばつの悪そうな顔で、たいていの女はああいう俺を見るといなくなるからな、と呟いた。

「ああ、ホワイト家のご子息を追い払ったことですか?」
「…あいつを知ってるのか?」
「来客のリストは、すべて暗記していますから」

 シャンパンを飲みながら、さらりと言い放つエヴァン。彼女があくまで護衛の仕事でここへ来ていたことを、イザークは今更ながらに思い出した。

「そういう女もなかなかいないだろうな」
「…ふふ、きっとそうでしょうね」

 かすかな笑顔を浮かべるエヴァンに、イザークも口の端を少しだけ上げた。

「でも、あの姿も貴方なのでしょう? なら、驚くこともありません」
「…そういうものか」
「ええ…そういうものだと思います」

 初めて会ったときも問うた。そういうものかと…エヴァンは、そういうものだと答えた。
 自分の容姿や、ジュール家の名前にすりよってくる女たちは、少なからずイザークに理想を押しつけてきた。この短気な性格は軍ではかなり有名だが、外見とネームバリューにしか興味のない連中に、そこは単なる短所にしか映らないらしいことに、イザークはうんざりしていた。
 激昂しやすい自分を丸ごと受け止めてくれるのは、母やディアッカくらいのものだ。
 だがエヴァンジェリンもまた、「イザーク=ジュール」をそっくりそのまま受け入れているのだ。

「エヴァン…」
「…その名前で、呼んでくださるのですか?」
「ああ」

 ならば、彼女のすべてを受け入れたい。
 聞いた真実は決して生易しくはなかった。だがそれを知ってなお、エヴァンジェリンに惹かれるこの気持ちが衰えてしまうことはなかった。
 イザークはそれに安堵した。そしてうれしかった―――何を知ろうとも、彼女を愛しく想えることが。

「エヴァン」

 イザークが、グラスを手摺に置き去りにして、そっとエヴァンの頬に触れた。




[ 14/31 ]

[*prev] [next#]
[mokuji]
[栞を挟む]
表紙へ



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -