寒くて、重くて、うめく自分の声が聞こえた。何かおかしい。けれど、これはきっと夢だ。目を開けたら、きっとカレルの部屋なのだ。ユキノは夢うつつの中、なんとか意識を現実に戻そうとした。そしてはっきりとした痛みに、目を開ける。



「…っ!? きゃぁ!」



 夢の中の事は、夢だと願った。けれどそんなものも儚く、現実は夢よりも厳しかった。ユキノを囲むようにして、多くの黒い影が集まっていた。ユキノを囲む輪はどんどんその規模を縮め、今にもユキノに襲いかかってきそうだ。



「…なに…? なんで…?」



 そうだ、自分は確か、ティントレットとドナテルロと共に、いろんな所を案内してもらっていたはずだ。彼らはどこなのだろう。



「ティントレットさん! ドナテルロさん!」



 いくら呼んでも、彼らの返事はなかった。その内、冷やされた身体が悲鳴を上げ始めた。こんな時なのに、身体がどうこう言っている場合ではないのに。ユキノは苦しくなる肺を呪った。



 ―――もっと、ちゃんと動いて…!



 死ぬのかもしれない。ユキノは指先や足先が冷たくなっていくような感覚を覚えた。このまま、何もかも冷たくなって、心臓さえ、その動きを放棄してしまって。ユキノはそう考えると、どうしようもなく怖くなった。こんな、わけのわからない所では死にたくない。



「―――っカレル!」



 これで最後というように、彼の悪魔の名を呼ぶ。そして、鋭い爪を持つ黒い手が、自分に迫るのを見た。




-†-†-†-




 悪魔の名を、何かの救いのように呼ぶ声が聞こえた。カレルは二人を置いて、その声のした方へ急降下した。



 ―――血臭が…。



 ユキノの匂いに混じって、血の匂いがする。カレルは誰より分っていた。この血が、誰のものであるのか。



「どけろ!」



 怒鳴る様なことが、彼の生の中に今まであっただろうか。自分の声が反響する森では、鳥達が驚いて飛び立ち、獣達は巣に潜ってしまった。そして怒鳴り声を浴びた当の悪魔達は、彼が誰であるかを知って悲鳴に近い金切り声をあげる。



「言葉も忘れたの」



 ユキノの、あまりの匂い。あたりに立ち込めるこの匂いに釣られてやってきたのだろう。最早匂いに当てられ、魂に眩み、理性を手放してしまっている。



 なおも避けようとしない悪魔達を、カレルは凪ぎ払った。そしてこの騒ぎの中心、ユキノを見つける。きっと、悪魔一人対ユキノだったら、ユキノは今骨さえ残っていなかっただろう。けれど幸か不幸か、ここには大勢の悪魔がいた。多くの悪魔が獲物を取り合う事で、当の獲物は辛うじて、まだ生を残していた。瀕死であることに変わりはないが。



 カレルはユキノの側まで来ると、その周りに膜を張った。しばらくは、他の悪魔は近づけないだろう。そして改めてユキノを見て、その悲惨な光景に目を細める。



「…ユキノ? 死んでないだろ?」



 見た所、一番大きな怪我は脇腹だった。爪で引き裂かれたのだろう、その傷は流れ出した血で赤く染まっている。そして、自分を庇ったのだろう、腕や背中は、無数の傷でぼろぼろだった。ぐったりと横たわるユキノを、カレルは抱き起こした。まだ魂は身体を離れていない。きっと今ユキノを生かしているのは、彼女の力ではない。カレルが与えた、魔のエネルギーだ。



「……」



 カレルは結界の外を見た。彼らに、この魂はどう映っているのだろうか。至上の果実。幻の果物。喉から手が出る程、それを欲する気持ちはカレルにもわかる。現に彼も、ユキノが死んでいたら、その争奪戦に参加する所だったろう。けれど今、彼女はまだ生きている。カレルは、紫に変色しつつある、その小さな唇に自分のそれを重ねた。唾液を流し込むようにキスをして、その様子を眺める。外で、ティントレットやドナテルロが騒いでいるのが聞こえた。きっと、この状況を楽しんでいるだけだ。少しだけ、血の溢れる速度が治まった。ユキノはまだ、生きようとしている。



「……ユキノ。死ぬの?」



 カレルの問いに、ユキノは眉を寄せた。耳が聞こえるのか、カレルにはわからない。そもそもユキノは、彼がここにいることを理解しているのだろうか。わかっていないかもしれない、カレルがそう考えていると、ユキノのまぶたが震え、薄目を開けた。少しの間宙をさまよい、その瞳はカレルに定められる。



 その唇が微かに動いた。何かを伝えようとしているのに、声が出ていない。



「あ? 何」



 ユキノはもう一度さっきの言葉を言おうとした。けれどやはり、声が出ていない。けれど今度はカレルはそれを読み取る事ができた。ユキノの小さな唇が、一文字一文字魔法のように、カレルにその一言を伝えていた。文字は勝手に頭の中で変換され、ユキノの声で響いて来る。カレルは目を見開いた。そしてその刹那、結界が外のエネルギーに耐えきれず、破裂する音が響いた。気づくと、カレルの心臓にかすって、悪魔の爪が刺さっていた。カレルは苛立まじりに振り向くと、ユキノを庇いながら応戦体勢に入る。欲に狂った者達は、目を滾らせ獲物を見据えている。そしてそれの前に立つ悪魔に気づくと、攻撃の方向をそちらに切り替えた。



 カレルはさっきのユキノの言葉を、頭の中で繰り返した。そして、その言葉に応えたいと思っている、自分の存在に気づいた。驚きは気の弛みを許し、このていたらくだ。カレルは一つ深呼吸をすると、力を手に貯め始めた。



 自分には理解できない感情だった。ついさっきまで、本当にそう思っていたのに。どこで狂ってしまったのだろう。彼女のたった一言で、自分の気持ちを知るなんて。ユキノの体調が悪化している事に気づく度、苦しくなることがあった。彼女の側にいれば、ノイズは聞こえない代わりに、その命の儚さに憂鬱になった。思えばもうずっと、それは胸の内に眠っていた感情だった。





 ユキノは息をしていた。小さな呼吸を繰り返す、唇がまた、微かに動いた。それはまじないのように、それは決意のように、それは祈りのように。ただ一言を繰り返す。ユキノには見えていた。あの、少し意地悪な笑顔で彼女をからかう、カレルの姿。その姿に向かって、ユキノは唱えていた。ただ、彼に伝えたかった本当の気持ち。









『―――カレルが、好き』








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