※一部過激で暗い表現があります。ご注意ください。







浜辺を歩いている。遥か向こうにまで続く地平線があまりに眩しくて、久しぶりに写真を撮った。数年間投稿することのなかったSNSに写真を載せてみる、特に誰が見るわけでもないけれど。
そのまま何をするでもなく砂に腰を下ろして風に吹かれていた。気づけば日が傾きかけている。桟橋に止まったうみねこが寂しげに鳴いている。そうして飛び立った一羽のうみねこは、どこからともなくやってきた群れに合流して、波の随意に浮かんで消えていった。

うみねこにすら寄り添う仲間がいるのに、自分はというと、思い返しても帰る場所もなにもない。私もどこかへ飛んで消えてしまえたら。




私は何も持っていなかった。
私の個性は"遺失"。失くす個性、大切なものは全てこの手をすり抜けていった。誕生日にもらったくまのキーホルダーを失くした。友達を失くした。家を失くした。家族を失くした。お金を失くした。生きる希望を失くした。生きたいという思いをなくした。あと何をなくせばいいのだろう。
うみねこの鳴き声が聴こえる。あぁ、そうだ。私がまだなくしてないものは、惨めったらしくすがっていたものは、

私はその日、命を手放そうとした。
まだ2月の海は冷たくて、でも少しだけ心地よかった。どんどん歩いていけば、深みにいき、息が苦しくなる。もうすこし、もうすこしで後戻りはできなくなる、昔本で読んだ。溺死の死体はとても醜いらしい。でも私には関係ない。きっと死体すらどこかへなくなってしまうのだから、






「何してるクソが。」






私はかつて幼なじみを失った、好きな人を失った。彼はヒーローになると言って、どんどん先に歩いて行ってしまったのだ。私は立ち止まっていて、彼は見えなくなった。当たり前のように同じ高校にいけると思って胸をときめかせていたのは私だけだったようだ。
彼の合格を喜べないゴミのような自分だけが残されて、1人部屋の隅でうずくまって泣いた。

それからすぐに私は住んでいた家を失くして、引っ越した。彼には合格発表の日を最後に会っていない。テレビで彼を見る度に、活躍を喜ぶと同時に、遠くの世界の人になってしまったことを寂しく思った。




それが、いまここにいる。






「…っ、どうして、」
「あんたが死んだり生きたりすんのはどーでもいいわ、けど最後ぐらい人様にメーワクかけずに死ね!」
「ごめんなさい、そうします。ありがとうございました。」
「チッ、他人行儀かよ。愛想まで失くしたか。」

彼は左の手で私の手を掴み、砂浜の方向へ歩いていこうとする。私はそれに必死で抵抗した。


「放っておいて、私から、死ぬ事まで取らないで、」
「…そんなに死にてぇなら俺がやってやるよ。」

彼は繋いでいなかった右の手で私の頭を掴んで、勢いよく水に浸けた。
衝撃で息が漏れる。途端に苦しくなって、身体がどんどんと狭くなっていくような閉塞感を感じる。こんな時なのに遠のく意識の中で、彼の左手の熱を腕に感じて、胸がきゅ、とくるしくなる。息ができなくて酸素が尽きていく苦しさ、でもそれ以上に胸が締められる痛みの方が辛かった。

私は馬鹿だ。

あぁ、今になって惜しい。大好きだった幼馴染とやっと会えたのに、下らない意地で突き放して、今人生を終えようとしている。言いたいことはたくさんあった。伝えたい思いがあった。全部、伝えられずに、今ここで死んだら私の想いはどこにいくのだろう。失くしてしまうのだろうか。消えて、なくなってしまうのだろうか。

そんなの、本当は嫌だ。この想いはまだ失くしたくない。




「…っ、はぁ、」

彼の手によって頭が水面より上に投げ出される。途端に分厚いドアが開いた時みたいに、勢いよく肺に空気が流れ込み肩を上下にしながら息を吸い込む。
ふわりと身体が宙に浮く感覚があった。遠い意識の中で、漠然と、彼に抱えられているんだなと分かった。

こんな時だけれど、知らない間に私を抱えられるくらいに逞しくなってしまった幼馴染に、離れていた時間の長さを感じて言い表しがたい寂しさがあった。




気が付いたら身体は砂浜に投げ出されていて、私がむせて咳き込むのを彼はただじっと見つめている。

髪の毛からぽたぽたと滴る雫が伝うのと同時に、私の目からもぼたぼたと涙が溢れた。息ができなかった分の生理的な涙だけじゃない。
ただ咳き込んでいたのが、だんだんと嗚咽に変わって、私はこれまでにないくらいわんわんと泣いた。涙は止まることなくただただ流れ落ちた。声をあげて泣いた。沢山泣いた。髪の毛の隙間から入り込むオレンジの光が酷く眩しい。




「………気は済んだか?」
「…、うん、」
「飲め。枯れんぞ。」

彼がどこからか持ってきたタオルと缶ジュースを差し出してくれる。オレンジの炭酸、私が大好きだった味。
ありがと、と言葉にならない声でつぶやいてそれを受け取る。人差し指でプルタブを弾いたら勢いよく空気が弾けた。

懐かしい甘さが口いっぱいに広がる。飲んだのは5年ぶりくらいだろうか。

「…おいし、」
「はっ、いつまでもガキだな。」
「選んだの、か、勝己くんじゃん、」

久しぶりに名前を呼ぶのは、少しだけためらった。
拒絶されたらどうしようと考えたら変な汗が吹き出てくる。変なの、さっきまで死のうと思ってたのに、こんなに小さいことを気にしてしまうなんて。


「…馬鹿なことしやがって。次死のうとしたらそんときゃ俺が殺す。」
「ふふ、勝己くん変わってないね。安心する。」
「あんたが死んだらオバサンが悲しむだろ。」
「そっか、勝己くんには伝えられてなかったんだけどね。お母さん、」

私は思わず言葉を詰まらせる。喉の奥が苦しくなる。未だにこの喪失感に慣れることなんてできない。

「……亡くなったんか。」
「うん。引っ越してすぐ病気がね、悪くなっちゃったんだ。」
「そか。」

彼は、よくうちに遊びにきていた。家が近かったのと、彼のお母さんとうちの母が仲が良かったのも理由の一つだろう。
うちに来るたびに、母の作るカレーライスをがつがつ食べていたのを覚えている。

「………ひとりぽっちになって真っ暗だった。なにも残らなかった。そこからなにも考えずただ毎日過ごしてたけど、なにも楽しくなかった。」
「…」
「勝己くんと遊んでいたあの頃が、人生で一番楽しかったなぁ。楽しい思い出。」


頭から被ったタオルをきゅ、と握りしめる。


目線を落とせば、コンクリートにのせられた彼の掌が目に入る。横に並べてある自分のと比べても遥かに大きくて、ゴツゴツしている。
またしても、長い時の流れを分からされて喉の奥が締め付けられるような感覚を覚える。

「はは、いつまで縋ってるんだろってね。勝己くんは立派なヒーローになったのに、私はまるで何にも成長できてないなあ」
「なまえ、作り笑いやめろ。気に食わねえ。」
「…うん、ごめん、」
「アンタにとっては、死のうとするくらい辛かったんだろ、」


真っ直ぐな瞳だった。赤い揺らぎがこちらを捉えて離さない。怖い、弱っちい自分を曝け出すのは怖い、それでも気がついた時には言葉がぽろぽろと零れていた。


「個性は、歳を重ねるごとに強くなるから。このまま、個性が強くなっていったら、私は、いつか記憶さえも、失くしちゃうかもしれない。」
「…んだよ、それ」

風が頬を撫でる。

つい先日、会社で大切な契約書が紛失する騒動があった。私は見たこともないようなものだったけれど、誰しもが、私が失くしたんだろうと影でコソコソと話した。普段は話すこともないような上の上司に呼び出され、叱責するのかと思いきや、その人は柔らかい口調で諭すように病院に罹ることを勧めた。

そのまま有休で指定された病院へ直行し、医師が淡々と告げたこと。
『このまま個性の制御が出来なくなっていったら、記憶も曖昧になるかもしれません。自分が何を失くしたかも思い出せなくなることもあります。…お仕事を続けることも難しいでしょうね。』
殴られたような衝撃だった。書かれた診断書を会社に出せと言われるままに提出したら、案の定、依願退職を勧められた。
まるで心配するような口振りだったが、そんなものは頭に入ってこなかった。病院へ行かせたのも、こう仕向けたかったからなのだろう。私は"要らない"とレッテルを貼られてしまったらしい。

あれから会社には行っていない。
こうして仕事も人望も失った。駅から徒歩20分の安アパートも、そろそろ出て行かなきゃいけないかもしれない。行くところも見当たらず、私は思うままに海へやってきた。
5年ぶりにSNSに投稿する一枚の写真。
最後に、何かしら残ればいいな、なんて呑気に考えた。





「いろんなものを失くして、1人になって。それでも頑張って来れたのは思い出が、あったからだよ。」

全てを打ち上げたら、この思いは、この世のどこかに残ってくれるかな。そうだといいな、目の前の彼があまりに表情を変えずにこちらを見ている。昔は態度や言動は粗暴だったのに、いつの間にかそんな顔も出来るようになったんだと思うと可笑しくて笑みが溢れる。

あぁ、やっぱり好きだ。私の好きな人。



「………辛いときはね、勝己くんのことを思い出してたよ。私を支えてくれて、ありがとう。勝己くんは、凄いヒーロー、だね。これからも、たくさんの人を救ってね。」


一思いに思っていたことが口から流れ出た。胸のつかえがすっと取れたような気持ちになり、とてつもなく軽くなった。今日はいい日だ。このままどこまででも行ってしまいたくなる。



「……なんでアンタはいつも、どっか遠くに行こうとすんだ、」
「えっ、」
「次死のうとしたら俺が殺す、絶対ぇ許さねえ、もう二度と勝手に居なくなったりするなクソなまえ」

とっさに視界の光が塞がれる。彼の腕が私の身体を強く包み込んで、そう、これは彼に抱き締められている。
私の知っている爆豪勝己はこんなことをするような人じゃなかった。突然のことに訳が分からなくて、思考が混乱する。

「高校入ってアンタが突然引っ越して、連絡も取れなくなってよぉ、何考えてんだ。」
「ご、ごめん、引っ越してすぐ、携帯の会社を変えた時にデータ失くなっちゃって、番号も変わっちゃって、」
「んなこと知らねぇわアホ、なんかあんだろ普通、」
「…でも、私は勝己くんのこと、ニュースとかでも見れてたからいいかなって…、」
「俺は良くねーんだよ」
「っ…、それ、どういう、」




「…手、だせ。」

彼がズボンのポケットから徐に取り出したのは、薄汚れたくまのキーホルダーだった。それには、見覚えがあった。
視界が、みるみるうちに滲んでいく。


「……これ、失くした、と思ってた、どうして、」
「無いってピーピー騒いでた日に探しに行った。お陰で帰りが遅くなってババアには怒られるわ散々だったわ。挙句、次の日渡そうとしたらもういいってテメェが言うからタイミング逃してたんだよ悪いか」
「悪くない、悪い訳ない…!ありがとう、嬉しい、本当に嬉しい…!」

それは母が大切にしていたキーホルダーだった。欲しいって何年もごねてやっと貰ったものなのに、結局落として失くしたのが申し訳なくて、最後まで無くしたことは打ち明けられなかった。

「アンタが失くしたもんは俺が探す。アンタが忘れることは俺が代わりに覚えてる。だからアンタは、もう遠くに行くな。」


この数年で変わってしまったこと、失くしてしまったものばかり数えていた。まだ手の中に残っているものを数えたことはなかった。






私がが死のうと思ったのは、失くしてばかりで心がからっぽになったから。
でも、あなたのような人がいる世界でなら、もう少し頑張れるかもしれない。



すっかり日は地平線の奥に沈んでしまった。
テトラポットに腰をかけた2人は、どちらからともなく、お互いを確かめるように手を繋いだ。





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