(早起きは三文の得)

 これは正当防衛だと、人を殺めた直後だというのに私の頭の中はその一言しか浮かんでこなかった。相手への謝罪や自分の罪に対しての恐怖、自首すべきか逃げるべきか。それすら考えずにあの日の私は服に付着した土を払う。土と一緒に人として大切なものさえ払い落としてしまったのではないかと、月並みな歌の歌詞にでもありそうな感想だけが残った。黒いトップスのおかげでほんの少し飛び散った血が目立たなくてよかったとも思った。家に帰るまでに誰かに血痕を見られたら面倒事になってしまうと気づいたからだ。そんな私の考えは杞憂で、家までの道のりでは誰ともすれ違うこともなく。帰ってすぐにそれまで着ていた服を全部脱いで洗濯機へ投げ入れた。別に血を落とそうとか証拠を隠滅しようとしたのではなく、ただ綺麗にしたかった。これを脱水して干して取り込めばそのままクローゼットへ戻せばいい。私の家に警察は来ないのだから誰にばれるわけでもないのだ。せいぜい部屋を勝手に掃除しようとしてくる母がクローゼットに入れられた一着の服を手に取るか心配すればいいだけだし、そんな唯一の心配の種である母が私の服をクローゼットに仕舞うことはあっても取り出すことはない。

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 次の日も私の中に自責の念が生まれたり、もしやどこからか情報を聞きつけて私の家に警察がやってくるのではないかと怯えたかといえばそんなことはなかった。ただ、いつもはアラームを何度か鳴らさないと起きられないのがやけにあっさりと目が覚めて、これが私なりの変化かと思うと同時に、あまりにも小さな変化すぎて馬鹿らしいなと思った。生が無に帰すかいつもより30分早く目覚めるか、まさに天と地ほどの違いだろう。
 早めにリビングに降りてきた私を見て母はおはようと言った後に起きてきたのが父ではなく私だということに気がついて「珍しいね」と続けた。私もおはようと返して洗面所で顔を洗い、付けられていたテレビの天気予報を眺めながら朝食のトーストを囓った。この間にも母が何も言わないのだから今の私はいつも通りに映っているのだろう。第三者から見ても私が昨日までと変わりないように見えるのだと証明されたけれど、殺人を犯しても普段と同じように振る舞うことができるような娘を持った母のことを思って、そこで私は初めてほんの少しの罪悪感を抱いた。ごめんなさいお母さん。なんて、柄にもないことを思いながら制服に着替えるために私は自分の部屋に向かう。クローゼットを開くと昨日のうちに閉まった黒のトップスは他の服に紛れていて、もうどれだかわからなかった。1番端に吊ってある制服を手にとってクローゼットを閉じ、赤いカーディガンに袖を通して、母に声をかけようとリビングに顔を出すといつの間に降りてきていたのか、父もさっきまでの私と同じように食パンをトースターから取り出そうとしているところだった。
「行ってきまーす」
「早いのね」
「日直だから」
 嘘だった。別に日直なんかじゃない。けれど、たまに日直だから!と朝ごはんも食べずに家を出て行く私を見ていた母は素直にそれを信じて「いってらっしゃい」と言う。父もトーストから口を離して「気をつけて」と言い、またさっきと同じように噛り付いた。がりっと砕ける音が昨日耳にしたものと似ている気がして、その音がやけに耳に残ったまま家を出た。

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教室に入ると中には桐絵しかいなかった。何かにペンを走らせていた桐絵はドアの方ををちらりと見て、入ってきたのが私だとわかると「早いじゃない」と言った後におはようと続けた。
「お母さんにもおんなじこと言われた」
「だってあんた予鈴が鳴る直前か直後に教室に入ってくるじゃない。ひどいときはチャイム鳴ってる時に入ってくるんだから、家が近いことに感謝しなさい」
「今日は30分早く起きたから早いだけだよ。桐絵こそ、家がそんなに近いわけでもないのになんでこんなに早いの? まだ誰も来てないような時間なのに」
そう聞くと桐絵は「日直よ」とだけ答えてまたペンを走らせた。桐絵の机の前の椅子に座ってノートを見ると確かにそれは日直の人が使う分厚いノートだった。それに桐絵は今日の時間割や担当教員が誰かを書き写している。本当の日直は桐絵だったらしい。真面目だなあと呟きながら黒板の方に目をやると、右端の日直欄に桐絵ともう1人の名前がチョークで書かれてあった。
「もう1人の子は?」
「風邪をひいたから今日は休むって昨日の夜連絡がきたの」
「だからってこんなに早く来る?これ授業中にも書けるじゃん」
「学校で変に慌てたところなんて見せたくないの」
支部ではいつも慌ててるのにねと言うと桐絵はうるさいわよ! と言ったあと、やってしまったという顔で周りを見渡した。「あんた変なこと言わないでよ!」と怒ったような声と顔で言うけれど、周りを気にしてかさっきよりも潜めいた声量なのがどうにもアンバランスに思えて、私が笑うとさらに桐絵は眉を吊り上げた。これ以上続けたら本当に怒られそうだから「桜きれいだよ」と外に向かって指を指して話題を無理やり逸らすと、それにつられて窓の外を見た桐絵は本当ねと言って窓を開けに立ち上がった。その後ろをついていくと開けられた窓の隙間から早朝だからかひんやりとした冷気が流れ込んできて、私はカーディガンの上から腕を擦る。桜は咲いていてもまだこんなに寒いなんて。そんな私をよそに桐絵は寒さなど気にしていないような顔で桜を眺めているので「もしかしてトリオン体?」と聞いてみるけれど返事はなかった。それがどうにも面白くなくて桐絵のカーディガンの裾を少し強めに引くと、ようやく桐絵はこちらに意識を向けた。
「なによ、構ってほしいの?」
「違いますー、ただ桜の怖い話を思い出したから桐絵にも教えてあげようと思っただけ」
 少しの間の後でふうんと桐絵は何事もない風に相槌を打った。その声が若干震えていることに、私は気づかないふりをした。桐絵がまだ自分が怖いものが苦手だと誰にもバレていないと思っていることを知っているからだ。
「それでね、桜の木の下には桜が埋まってるんだって」
「死体!?」
 また大きな声を出した後に、さっきと寸分変わらぬ顔でしまったという表情を浮かべる桐絵を私は可愛らしいと思った。こんな人も殺せないような性格で攻撃手3位の地位を維持している彼女の手に、私は自分の手を緩く絡めた。普段から双月を握りしめているはずの手のひらには肉刺1つない。双月を握っている時は常にトリオン体なのだから当たり前だと思うけれど、どうかこの柔らかい手のままでいてほしいと思った。冷気に当たり冷たくなっている桐絵の手を死体のようだと思う自分が嫌で、私は桐絵の手を両手で包み込んだ。「別に怖くないでしょ」と言うと「当たり前じゃない」と返ってきて、でもすぐに「学校だけでこんなに桜があるのに、そんなにたくさんの人が死んでいるのかしら」と桐絵は言った。その目には限りなく同情に近い恐怖が浮かんでるように思えて、怖いものが苦手な彼女を少し怖がらせすぎたかなと後悔した。代わりにさっきまでより強く手を握って明るめの声色で「冗談だよ、こんなのただの迷信だし。そんなことあるわけないじゃん」と微笑んでみせると、それに安心したように桐絵は笑った。
 2人で笑いあっていると他のクラスメイトが入ってきたのでおはようと声をかけ、それが合図のように桐絵は窓を閉め、私たちはそれぞれの席へ戻った。
 自分の席にうつ伏せになりながら、さっきと同じように日直の仕事をこなす桐絵に目だけを向ける。もっと明るく笑い飛ばしてやればよかったと思った。桜の木の下に死体は埋まっていないと。そうすれば桐絵はこの話をきっとすぐに日常の会話の一部として忘れただろうし、今日の放課後に向かう支部や、眠る前なんかに思い出すこともないだろう。けれど、この三門市の山のどこかに埋まっている、埋めた私ですらもう所在のわからないあの死体だけは、私自身が早く忘れないといけない。そう思いながら、私は人もまばらで静かな教室の中で目を閉じた。

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