(5Gレンタル神様)

 やったことのないことが、たくさんある。
 したくなくて避けていたこともたくさんあるし、やってみたいのに今日までずっとできずにいることもたくさんある。
 乗馬、ヴァイオリン、漫才なんかがそうだ。やりたい気持ちだけが膨らんで、したことがないと、自分の中にある「わたし」への期待値はどんどんあがっていく。もしかしたら、わたしには才能があるかも。眠っているだけで、やってみれば案外うまく── それこそ、人並み、あるいはそれ以上にできるかもしれない。そんな風に、考えてしまう。
 
 腹を軽く蹴れば艶のある鹿毛を持つ馬は長い脚を走らせてわたしの行きたいところまで連れて行ってくれる。楽器店の店員にショーケースから取り出されたヴァイオリンは楽器を美しく見せるために設置された照明の光を柔く跳ね返しながら手入れの努力もされていないわたしの両手に収まって、かつて生きていた偉大な音楽家たちが五線譜に書きなぐった音楽を透き通った音色で奏でる。それより強い照明に目を細めながらわたしは隣に立つ相方と必死に考えたネタを観客に披露して、カメラに語りかけてはテレビの前にいる遠く離れた相手さえも笑顔にするのだ。
 空想の中ではなんだってできる。そうして期待を抱いては、自身の至らなさを思い出す。自分はいつも口だけで、思うだけで。それでいて自信だけは持っていて、行動に起こせば失敗か理想よりもずっと低い結果しか出せなくて。とんだ悪癖、お笑い種だ。思い出してしまうと、自分を責め立てるようにして心にナイフが突き立てられる。どうしてできなかったんだと。突き立てているのは他の誰でもない自分だ。流れた血が、地面に小さな水溜りを作っていた。
 
 赤い水たまりがわたしの足元にまで届いた時、考えることを放棄したみたいに、頭が真っ白になる。本来なら温かみを覚えるはずのリノリウムの床で倒れている人はわたしのせいで「そう」なった。つまり悪いのは私で、右を見ても左を見てもわたしを助けてくれる人はいなくて。そのくせ部屋に散らばる物言わぬはずの無機物たちがわたしに何か語りかけてくるのではないかと気が気ではなくて、今すぐにでもここから離れたくて。思いつく限りの罵詈雑言、誹謗中傷、わたしを否定する言葉ひとつだって聞きたくはなかった。
 でもこのことをみんなに知られてしまったら? 唯一と言ったっていい居場所である高専の人たちに知られて、もしも軽蔑されてしまったら、わたしが思いつく言われて嫌に思う言葉の一つでも言われてしまったら──
 この先にわたしを待ち受ける最悪な想定だけが汚いシミのようにこびりついて離れない。立っていられずしゃがみこむと、死体の転がる地面との距離が近くなる。
 一人でいたくはなくて、いもしない神様に祈りたくなって、携帯を握りしめた。液晶越しに名前に触れれば、小さく呼び出し音が鳴る。音なんて不確かなものだけが、今のわたしの生死を握っていた。
「なんで…… 出てよ……」
 こんなに祈ってるのに。会えるならわたしが渡せるもの全て差し出したって良いのに。
 震える手とは違うリズムで単調な機械音が繰り返されている。いつ鳴り止んでしまうかもわからない蜘蛛の糸が切れてしまうことを覚悟した時、スピーカーから聞こえるはずの声が頭上から降ってきて、顔をあげた。
「名前ちゃん」
 術師にしては珍しい、白い上着がよく目立っていた。乙骨くんが高専に入学した時から着ている、もはや見慣れたと言ってもいい制服だった。血がついたら目立つと思うのは、この状況のせいだろうか。
「携帯は」
「あれっ、もしかして鳴らしてくれてたの? ごめんね、急いで出てきたから持ってきてなくて…… きっと名前ちゃんが、困ってると思ったから」
 乙骨くんの言葉は半分正解で、半分不正解だった。乙骨くんならなんとかしてくれないかな。そんな不健全な気持ちと、乙骨くんがここにやってくることで余計に話がこじれたことになるのではないかという懸念。二つの気持ちが入り混じっていた。
 目の前の女がそんなことを思っているなんて知らないだろう乙骨くんは、自分の靴が汚れてしまっていることを気にする素振りも見せずにしゃがんで、目線を合わせてくれる。わたしよりずっと大きいのに頑張って小さくなって、わたしを見上げようとする。いつもそうだ。乙骨くんはいつもわたしの目を見て、わたしの口から言葉が出てくるのを待っていて、ひとつも聞き逃すまいと──そんな顔をしている。苦手な顔だった。もっと適当に聞いてくれればいいのに、といつもなら溜息をつきたくなるような、何度も見た顔。それでも今は、そんな乙骨くんぐらいしかわたしの話を聞いてくれる人はいないのではないだろうか。
 
 ずっと、乙骨くんに面倒を見られるのが嫌だった。
 入ってきたばかりのときはわたしよりも術師としては未熟で、真希に投げ飛ばされていたのに。何も知らない男の子だったのに。あっという間に強くなってしまった。
 みんな強くなった乙骨くんを褒めていた。わたしだって「すごい」なんて言葉で褒めていたけど、人ができている訳ではないから少し気まずくて、距離を置くようになった。そうは言っても一般的なクラスメイトの距離に戻っただけだ。毎日乙骨くんにわからないことはないかと隣で辞書のように構えて待っていたり、あまり楽しい生活を送ってこなかったという彼を東京の街に何度も引っ張り出すような生活から、顔を合わせれば挨拶をして、必要があれば会話をする。それぐらいの距離感になるよう調整しただけ。自分よりできないことが多かった乙骨くんの面倒を見ることが、一年生の身でありながらなんだか後輩ができたみたいで嬉しくて、ずっと側にいた。それ自体がおかしいのだ。
 付き合ってもいない高校生が側にいたっていいことなんてない、これまでが近すぎたんだから変ではないはず。そう、自分に言い聞かせていた。
 それなのに乙骨くんは距離を置いても近づいてきた。わたしが一歩引けば一歩、二歩引けば三歩進んでくるようで、わたしが困っていると助けてくれる。というか、わたしが困らないようにしてくれていた。道端に転がる小石を箒で掃いていてもおかしくないほど。わたしに入っていた任務なのにわたしと呪霊の間に庇うようにして乙骨くんが立っていたときに「もしかして」と思ったが、うっすらとでも気づいてからはどんどん息苦しく感じるようになっていた。
 自分は乙骨くんより劣っていて、自信のあった術師としての活動だって結局はだめだめで。呪具の扱いは真希に劣って術式は棘に、パンダには度量のデカさなんかが負けている。そうしたネガティブな気持ちが降り積もった結果だろうか。内側から湧いてきた反骨精神に従って誰にも気づかれないような夜遅くにこうして寮をひとり抜け出して、こんなところまでやってきたのに。
 
 人の命を奪ってしまったことを、わたしは説明した。
 故意ではないとはいえ、任務外で。それも明確にわたしの手で行われたことを。凶器だってある。死体が転がるこの部屋を一目見ればそんなことわかるに決まっているのに、その間乙骨くんはなにも言わなくて、要領を得ないぐちゃぐちゃなわたしの話をじっと聞いていた。
「全部うまくいかない。乙骨くんがいなくてもやっていけるって思ってたのに、わたし、人ひとり殺しただけで怖くて、なにもできなくなっちゃって」
 彼はずっと相槌を打ってくれた。わたしをわるく言う訳でも、責めることもしなかった。ただ、わたしが大きく息をついて、言いたいことを全部言ったタイミングで、「大変だったよね」と。中学のころの女友達みたいな共感を見せて、神妙そうな表情を浮かべていた。

「……怒らないの? わたしのこと、嫌わないの?」
「そんなことあるわけないよ! ──でも、今日みたいな遅い時間に一人で高専を出ちゃダメだよ。行きたいところがあるなら真希さんだって狗巻君だって、ついて行ってくれるはずだから」
 もちろん僕も、そう付け加えた乙骨くんはわたしのなかから不安要素を全て消し去ってくれる。だから、彼のこれからはちゃんと自分を頼ってほしいという言葉にも、できる? なんて子供に言い含めるような声かけにも、わたしは大人しく頷いた。
 せっかく避けていた乙骨くんとの距離が元どおりになるかもしれない可能性なんて大したことではない。こんな気持ちになるなんてもう御免だった。術師として生きられても、わたしというひとりの人間として生きるのは向いていないのだ。きっと。
 そう結論づけて、先に立ち上がった乙骨くんが伸ばしてくれた手を掴む。その手が少し汗ばんでいて、わたしがそう思ったことに気づいたのか顔を赤くするから、なんだかおもしろい。さっきまでの出来事なんて嘘みたいな軽やかな気持ちになって、わたしは笑ってしまう。こんなに普通の男の子なのに、これからわたしに降りかかるであろう責任なんかもまあ、この人がどうにかしてくれるんだろう。そう考えてしまうほどには結局のところ、わたしは彼に頼りきってしまっていたのだった。

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