(寿命を喰う犬はいない)

「聞きたいことがあるんだけど」
 私の言葉に反応して、天使の悪魔──以後天使くんと呼ぶ は私の奢りで買ったカップのアイスを掬う手を止めずに、視線だけをこちらに向けた。大型ショッピングモールのフードコートで買ったアイスなのに騒がしいのは嫌だと天使くんが言うからわざわざ私がお金を出して、外に待つ天使くんにまで届けたのだ。自分の分も買ってはいるが、我ながら健気だ。
 言葉を続けようとする私の瞳を、髪とよく似た、傷んだ桃を思わせる燻んだピンクがじっと見つめている。
 なんだか耳を向けて聞いているアピールをする猫みたいだと、私は思った。
 
 天使くんと会ったのは早川くんの紹介だった。正確には私が所属する公安の特異課からの紹介だったけれど。天使くんとバディを組む早川くんの手が空いていない時に、私のバディが出勤できなくなっていた。偶然とはこのこととでも思ったのか、出勤して早々にバディの欠勤に頭を悩ませていた私に早川くんが、天使の悪魔はどうかと聞いてきたのだ。
「今日だけだから、頼めるか」
 提案というよりは依頼に近かった。
 まさか早川くんにお願いされることがあるなんて。珍しいと感じながら私は二つ返事でオーケーを出した。見回りは基本人の目がある場所で騒ぎを起こすような知性を持たない愚かな悪魔と遭遇しては処理を繰り返す簡単な仕事だったが、時折強力で狡猾な悪魔と出会うこともある。ということを私は知っていた。
 私は変に一人で見回りをして死にたくはなかったし、早川くんは代打を探していた。天使くんの意見はひとつとして採用されない気配を早川くんの口調から感じていたが私は戦力を確保できればいい。早川くんは自分のバディを誰かに預けておきたい。
 正にウィンウィン、相互扶助の関係と言ってもいいだろう。
 そうして期間限定で一日を共にした天使くんだったが、これまで天使くんの話を聞いてきた中で構成されてきた「手を焼く悪魔」という印象はあながち間違いではないようだった。なんせ動こうとしないのだ。働こうとしない以前に、引きずらなければ動かない。私と見回りをするように頼み込んで外へと連れ出したのはいいものの、今度は日陰から動こうとしない。私と言えば、日向に立ちながら必死に天使くんの説得を試みていた。黒いスーツが太陽の光を吸収して、隠れいてるはずの素肌が焼けているようにさえ錯覚してしまう。私は焦っていた。
 出社してパソコンを開いているだけで仕事と言い張れる事務はいないように、悪魔が悪事を働いていないか確認しないデビルハンターはデビルハンターと言えない。
 外に出てきただけでは、見回りにならないのだ。
「天使くん、もう行こうよ。私残業したくないし」
「嫌だ。第一僕を外に連れてきたのはキミの都合でしかない。僕が従わないといけない理由もないだろ…… 外は暑いし嫌いだ」
 それだけ。要約すれば彼の言いたいことは最初の「嫌だ」で完結している。
 返事もまともに返してくれないものだから、私は頭を抱える。さっき天使くんが指差したクレープを賄賂として献上したのに。効果がなければ賄賂ではなくカツアゲだ。私だってどちらかといえばインドアで、アウトドアな人間とは遠くかけ離れた存在である。しかし仕事まで自我を持ち出すまでに子供ではない。私はれっきとした社会人なのだから、お給料分は務めを果たす義務がある。
 早川くんが私に「仲良くしろよ」と言った意味を、クレープ代六百円を悪魔に吸われてからやっと理解した。悪魔嫌いで有名な早川くんにそんなことを言われるなんて、と呑気に思っていたが、今の私からすれば呑気を通り越して馬鹿だ。仕事はしないといけない。そう強く思う私と、仕事をしたがらない天使くんは相入れない。
 どうやら早川くんにはこの未来が視えていたらしい。
 七つの大罪には傲慢や強欲があげられて、名前の通り七つの要因が人を罪に導くとされている。それならば自分のために力を使う悪魔に丁度いい。そう思っていたが、天使の悪魔は怠惰と呼ぶにぴったりの悪魔だった。
 
 しかし今の私は天使くんの要望を聞きつつ一緒にアイスを食べる関係になっていた。
 バディでもないのに。そう思うが、きっかけはバディを組んだことに他ならなかった。最終的に、天使くんと私のバディは当初の約束通り一日限定で終了した。けれど私は天使くんに、天使の悪魔に興味を持つようになっていた。天使くんほどまともにコミュニケーションを取れる悪魔と出会ったのは初めてだったから。
 四課には戦闘員として悪魔や魔人が数名配属されているが、人間の言うことを大人しく聞いたり交流できるほどではない場合が多かった。デンジくんは魔人のようだがわからないことが本人にも私たちにも多いし、デンジくんとバディを組んでいるパワーちゃんこと血の魔人は会話ができるけどできていないという難儀な子だった。それに比べれば天使くんは悪魔でありながら意味の通った会話もできて、背中から羽が生えていることを除けば限りなく人間に近かった。
 最初は怒りの要因でしかなかった天使くんの言葉も、思えば私が意味を理解できるほどスムーズにコミュニケーションを取れていることの裏付けになった。私の意見に反対するのも、私がどう思っているか理解しているからできるのだ。
 だからあの後、食事で釣って天使くんと交流を図ろうとした。
 採算が取れているかわからない食堂で食事を摂りながら私は「またこんな風に誘っていい?」と天使くんに尋ねた。
「……いいけど」
 あの時初めて、テーブルに並んだ料理越しから私は彼の肯定を聞いたのだ。

 話は冒頭に戻る。私は今日、どうしても天使くんに聞いてみたいことがあった。
 先ほどまでと変わらず、天使くんはずっと私のほうを見て、続きを待っていた。
 平日の昼下がりの公園には子供もいない。遠くに見える噴水が水飛沫を散らしている。噴水と木々が緑を揺らす音だけが公園に満ちていた。
「天使くんに触ったらどれぐらい寿命が減っちゃうの?」
 それが、私の質問だった。
「ほら、触ったら天使くんに寿命が吸われちゃうとかさ、天使くんの武器に使われることは知識として知ってはいるけど、実際触ることでどれぐらい減るのか、知ってみたくて」
「キミってさあ、怖いものとかないの?」
 質問を聞いて天使くんはまた、アイスに視線を向けていた。メニューでこれがいいと、指さされていたレモンのシャーベットが彼の口へ運ばれていく。
「怖いもの知らずって言いたいわけ?」
 生活していくうちに覚えた言葉なので熟語か慣用句かは知らないが、天使くんはきっと私を怖いもの知らずだと言いたかったのだろう。そういうところでならまだ私が教える立場になることができる。ふふんと胸を張ってみたが、天使くんは少しも悔しがる様子を見せない。張り合った私を馬鹿馬鹿しいとても思っているのだろうか。
「触られたらわかるんでしょ? これまでどんな時に何年分吸っちゃったなーとか。わからないの?」
「触る時間によるんだから僕にはわからないよ」
「そっかあ、そういうものなのか……」
 どうやら天使くんにもわからないらしい。
「じゃあ羽は?」
 私は天使くんの背中に引っ付いた羽に手を伸ばした。意外と柔らかい──?
 そう思ったのも束の間。指先が羽に触れた瞬間、天使くんの感情に従うように羽は勢いよく私の手を離れていった。羽の先は二つとも空を向いていて、なんだか万歳をしているようだった。
 天使くんから分かれた羽が一枚だけ、私の膝に落ちてくる。
「ちょっ!! なに触ってるんだよ!!」
 初めて見る剣幕で声を上げて、それから馬鹿じゃないの。天使くんはそう零した。服越しに触っても大丈夫なんだから、羽を触ってもまあ、大丈夫だろうと思っていたことを打ち明けると、いよいよ天使くんの顔は憤りを通り越して私への憐れみを含んだ表情になった。あまりにもあからさまだ。そんな憂いを帯びた顔でさえ宗教画に描かれる天使のように私の目には映るのだから、美人はどんな表情でも美人というように、天使の悪魔はどんな表情をしていても天使の如き顔なのだった。
「今のでどれだけ寿命が減ったって、わかる?」
「……二日」
「二日」
 怒るんだから寿命も減っているのだろう。確認の意味を込めて尋ねると私の寿命が今ので二日減ってしまったらしいことを天使くんは告げる。
 なんだ、たった二日か。天使くんがあんなにも嫌がるからもっと、五年とか、十年。あるいはそれ以上の寿命を一気に持っていかれると想像していた私は拍子抜けをしてしまう。死ぬまで二日早まったって、死ぬときの私は覚えてもいないだろう。
 なんなら自分が寿命を迎えて大往生する場面を想像できない。理由はきっと、悪魔に殺されて私は死ぬからだ。そこに寿命なんてものは一切関係なくて、天使くんのせいだと私が思うより先に、身体に走る痛みが私を支配するのだろう。
「人と触れ合いたいって、思わないの?」
 私は天使くんに尋ねる。だって、ハグをすればストレスが軽減されるという実験結果が出ているほどに、誰かと触れ合うことは人の心を助けるのに。
 天使くんは生まれながらにしてその権利を奪われているなんて悲しいだろう。
「僕は悪魔だよ? キミの思う普通に当てはめないほうがいい」
 人間じゃないんだからと天使くんは続けるが、私は天使くんを人だの悪魔だの思うより先に友達だと思っている。だから寂しく思っていないと言われても、知らないだけなのではないかと、お節介な気持ちが働いてしまう。友達ならば良いことは共有するべきだ。私たちが今日、二人でアイスを食べて涼を楽しんでいるように。
 天使くんの手に触れた。とっくにアイスを完食していた天使くんの手を、布を通さずに。人の手だと思った。見た目通り、どこまでも人間に近い存在なんだなと思わされる。抵抗がないのを良いことにそのままゆるく握ってみるが、自分から寿命が減っているようにはとても思えない。本当にこれで私の死期が早まっているのだろうか。
 一方の天使くんといえば、何も言えないでいた。言いたいことはあるのだろう。小さな口を陸に上げられた魚のようにぱくぱくと動かしているが、聞こえてこなければ言われていないに等しい。この暑さもある。手汗が気持ち悪いと思われていたら嫌だな。そう思って離したが、離した途端に天使くんは口を開いた。
「馬鹿!? 馬鹿だよキミ!! 何がしたいんだ、僕と友達の真似事をしても意味なんてないだろう。本当に馬鹿だ。理解できない……」
 言いたいことは一通り言い切ったらしい。
「キミは本当に馬鹿だ……」
 律儀に四回も馬鹿と言って息を吐いた天使くんが今度は私の肩に頭を預けてきた。彼の髪の毛がスーツにピンク色のラインを作っていた。
 今度は私の寿命が減ることはないし、天使くんのストックする寿命が増えることもない。吸われた分は募金したとでも思えばいい。私はもう一度、天使くんに尋ねた。
「ね、今ので何年減った?」
「一年……」
 また、天使くんは言い渋る。今日だけで私の寿命は一年と二日減った。八十歳まで生きることになっていたなら七十九年が、正式な私の寿命になるということだ。
 誤差だなと感じた。それでも天使くんが申し訳なさそうな顔をするから今日はもう、寿命を犠牲に彼をからかうのはやめようと思った。でもまた、彼が忘れた頃に羽を触ってみようか。そう思うほどには、私は天使くんを気に入ってしまっているのだった。

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