(つまり全て)

 自宅で酒を飲む場合、誰もが限界まで胃に酒を流し込むが、飲み会だとそうもいかない。それが世の掟であった。
 大衆の目がある居酒屋などで、職場の人間と語らい、酒を飲む。公安の特異課でそういったことがある場合、酔いつぶれる人間と介抱にまわる人間は完全に別れていた。
 姫野は酔いつぶれた挙句に吐瀉物を撒き散らしかねない、一言で言い表せば潰れる側だった。反対にアキと名前は、飲み会では飲食よりは会話を重んじる傾向にあった。年長者に比べて酒への興味が薄い年齢だったこともあるが、若い二人にとって同じ特異課で普段会話しない相手との会話は貴重だったからだ。そうしているうちに名前とアキは、なるべくしてと言うべきか。
 潰れた人間の面倒を見る方に、いつしか振り分けられていた。
「さよならー!!」
 最後のタクシーに手を振って、曲がり角をライトが横切った時名前の瞳から生気が消える。一息をつく。
 忘年会とはいえみんな飲み過ぎだろうと、思わずにはいられなかった。
 酔っ払いが一人この場から消えても、周囲に似たような店ばかり構えられている飲食店街での騒がしさがマシになることは夜が明けるまでない。それに── 名前は自分の腕を見やる。同じ女性とはいえ、意識を半分以上失っている人間を無理やり車内に押し込むのはなかなかの重労働だ。男性はアキくんに任せられるからいいけれど。そう思いながら肩を回すと肩甲骨あたりが明日へと響きそうな音を鳴らす。
 名前が飲み会に参加するようになってから、特異課の人間の住所を空で運転手に唱えたことは一度や二度ではなかった。それまでは面倒をみる側だったという岡田も、いつしか顔を赤くしてテーブルにうつ伏せになっているようになっていた。
「岡田くんはねえ、名前ちゃん達が入ってきたから飲むようになったんだと思うなあ? だって自分以外がしっかりしてると自分はいいやって思うもんね。通過儀礼ってヤツ?」
 それが姫野の意見だった。「次に成人済みの新人が来るまでがんばれ」と名前の肩を抱くが、そう姫野が二十歳のころに酔っ払いの面倒を見ている光景は想像もつかなかった。しかしなるほど、自分のまわりをしっかりしている人間で固めている人間の言葉は良くも悪くも参考になる。名前は心のメモ帳に書き込んだ。"歳上は無責任に酒を飲む"と。
「私みんなの個人情報を知るために成人したわけじゃないんだけど」
 名前の呟きが届いていたのか、同じく最後までタクシーを待って残っていたアキが「まだ足りないのか」と名前に向かって言った。足りないなんてどころではない。そう言いたかったが、冷たい風がマフラーを付けていない名前の首筋をくすぐった。名前はチャックを握って上着を口元まで持ち上げた。
「足りないに決まってるでしょ。風が吹いただけでもこんなに寒いんだし」
 酒を飲んでいれば身体も火照って、今しがた吹いた風さえ夏に浴びる冷房の如く。天の恵と思えていたはずなのだ。そう思うチャンスを失った悲しみは大きい。名前の悄悄とした気持ちが戻ることはなかった。今からもう一軒というのは我ながら魅力的な案だが、酒に飲まれた挙句終電を逃して徒歩で自宅まで戻ることは名前にとって最も避けたい事態だった。このままアキと飲むことができればいいのに。
「なら、飲むか」
 名前の心を読んだかのように、アキの言葉がピンポイントで名前の心に突き刺さる。飲む。今から。アキくんと? 名前は、自分の心がライトを点けた部屋のように一瞬で浮き足立つのが感じられた。煩わしく思えた居酒屋の照明さえやけにドラマティックに映った。視界に移るもの全て、目に入らなかった。見えるのは名前の横で白い息を吐くアキだけだった。
「え、いいの」
「ああ...... 屋台か居酒屋か、どっちかの家もあるが」
「じゃあアキくんの部屋がいい」
 アキが自分の思うことがわかるならアキの部屋で眠るつもりでいる名前の企みに気がついているのではないかと内心気が気ではなかったが、これで後先を考えずに飲むことができる。そんな思考が真っ先に名前の頭に浮かんだ理由は、誰かの介抱をせずに飲む酒が何よりも美味しいことを知っているが故だった。

「私、ううん。私たち、損してるよ。みんないっぱいお酒飲んで酔っ払って馬鹿してるのに、私たちはろくに飲まないでみんなのタクシー呼んだりさ、私だってもっと飲みたいのに、飲めるのに」
 飲み放題の値段は同じだというのに。地べたに置かれたクッションに頭部の全体重を預けて幼子のように丸まる名前の気持ちは、自分の払った金で別のメンバーが酒の席を満喫していることにあるようだった。脚をバタつかせれば胡座をかいていたアキの脚にぶつかる。テーブルの上にはコンビニで選んだ期間限定のストロング缶が堂々と鎮座していた。
「そうか」
 向かいに座るアキは気にも留めない。慣れた手つきで、ビニールで一つずつ包まれたジャーキーに手を伸ばす。端と端を持って引っ張れば中身がころりとアキの手のひらに落ちてきた。碌に相槌を打たずとも話し続ける名前はアキにとって、テレビを垂れ流しているに等しかった。そう思われていることも知らず、名前はいつの間にか話題を大幅に転換させ、飲み会の良さを語る方向へと持って行っていた。
「でもさ、こういうことがあるからアキくんとサシで飲めるんだよね......」
 アキからすれば奥に付けられたテーブルの脚。そのさらに向こうからクッションごとずりずりと移動してきた名前が顔を覗かせて、「ね?」と同意を求めるようにアキを見た。
「普段だってサシで飲む時あるだろ。今だってそうだ」
 アキと名前が一対一で飲むことは珍しいことではない。現に、先週も名前主催でアキの部屋で行われた「お疲れ様の会」は十一月から今日にかけて三度は続いていた。
 アキの言葉に反応するようにむくりと起き上がった名前はアキ本人もいくつ目かもわからなくなっていたジャーキーをアキの手から掠め取り、齧りながら否定する。
「違うんだよ。飲み会終わりに一緒に飲むのはこう、ング。ハシゴとか、二軒目に近いロマンがあるんだよ。それに、仲良しって感じがしない? このロマンがアキくんにはわからないかな」
「一生わからなくていいな」
 奪われたジャーキーに固執することなくアキはチーズに手を伸ばした。
「言い過ぎじゃない!?」
 驚きを表したのか、名前の瞳は大きく開かれる。同じくらい口も開かれていた。アキがひとつチーズを名前の口に放り込むと、名前は大人しく咀嚼を始めた。それから飲み込むまで黙っていたが、ごくんと飲みこむとまた口を開いた。
「でも本当に、私たち仲良しだよね?」
 さっきよりも一段階自信が減少した瞳で名前はアキを見つめる。酒の力も相まってか、肯定以外の返事を受け取れば今にも潤み始めそうな瞳だった。
「酔いすぎだ。寝とけ」
 耐えかねてか、アキの横で丁寧に折りたたまれて待機していた掛け布団が名前に投げられる。軽いとはいえ、重力も重なって顔面から布団のダイブを受けた名前は先ほどの体制に逆戻りになる。
 横になって静かになったかと思えば、静かな寝息が聞こえてきた。麻酔銃を撃たれた動物でももう少しは睡魔に抵抗するだろうに。今の名前に動物ほどの自制心もないことに気がついたアキは名前が眠ったことを確認して、乱れたままだった布団を四隅が見えるように直して、頭の下にクッションを置いた。
 机に置かれた空き缶とつまみの包装は分別して、自分も床に横になる。自宅に帰ってきてからアキはロング缶一本しか開けていなかったため、さほど酔ってはいなかった。その気になれば自分だけ自室で眠ることもできたが、この日のアキはそうすることを選ばなかった。電気の消えた部屋で名前の寝息と東京を走る車の排気音を聞きながら、アキも眠りについた。

「記憶がない」
 翌朝目覚めた名前には昨夜の記憶がなかった。朝と呼ぶにはいささか遅すぎる昼前に目を覚ましたかと思えば開口一番にそれかとアキは思った。名前が顔を洗って歯を磨くまでの間に朝食の用意を整えて、アキは名前を待った。トースターがゆっくりと食パンに焦げ目つけている。
 いくつかのジャムから名前はマーマレードを選んでトーストに塗る。塗りながら、テレビで今日の天気を確認しているようだった。
「今日晴れるんだ...... アキくん、この後さ、一緒に服見に行かない? セール前に欲しいやつの目星つけておきたいんだけど」
 ほら、もうすぐ来年だし。そう続ける名前は何事もないように振舞っている。実際何も起こっていないのだから聞く意味もないのだが。アキの分のトーストが焼きあがる音がした。トーストからパンを取り出して、アキもテーブルにつく。名前にコップを差し出しながら、アキは尋ねた。
「昨日、どこまで覚えてるんだ」
 唸りながら、名前は昨夜の記憶を手繰り寄せているようだった。そうして貰ったばかりのコップに口をつけた後、
「アキくんに布団かけてもらったところまで......」そう答えた。


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