(冷たくって仕方ない)

 カンカンと、革靴がステンレス製の階段を叩く音がする。鼓膜に焼きついた、もう何度も聞き慣れた音だ。今日みたいな雨の降る日は濡れた階段と靴が擦れて、時折り小さな、鳥の鳴き声のような高い音も聞こえてくる。
 アパートの前に通っている道路を使う人から住人に至るまで、何もかもが少なくてカラスの鳴き声と夕方のサイレンぐらいしかはっきりと聞こえる音がないこの木造建築は、住宅街の中にありながらもひどく静かだ。階段を使うと特によくその音が響く。
 今も背筋がぴんと伸びているだろう彼のことを思う。私が留守にしている可能性を考えていないのだろうか。秋が過ぎ去って冬が訪れたことにより、季節の変化と比例するように日が落ちる速度も早くなった。とはいえ、午後二時だとまだまだ明るいはずだ。それでも部屋に日は射さず、太陽は雨雲の更に上にいて、光はここまで届かない。電気の点いていない、陰鬱とした雰囲気で満たされている部屋。アパートの三階、左から二つ目の暗い部屋から人間の気配を感じ取れる人がどれほどいるだろう。部屋で唯一稼働している暖房器具が消費する電気を数えるカウンターを盗み見た人にならわかるだろうか。自分から光を拒んでいるのに温もりは求めているというのも、中々に滑稽なものだ。
 薄暗い部屋の中で、彼が踊り場を超える数を数える。いち、に、さん…… 鳴り響いていた足音が小さく、落ち着いたものになる。コンクリートの廊下に出たからだ。あと少しすれば、同じような見た目をしたドアを通り過ぎて彼は私の部屋の前で立ち止まる。力を加えないと捻ることができないドアノブを人の手首のように回して、鍵の掛かっていない私の部屋に足を踏み入れる。錆びたネジが軋む音と一緒にリビングから一直線、開かれたドアの向こうには、彼──早川アキと、細長い雨粒と薄暗い外だけが見えた。明るさは辛うじて屋外に軍配が上がっているのか、彼の顔には逆光が射している。

「よう」
「……アキくん」
 閉じられた傘の先端を地面で数回叩かれたことでコンクリートの色が灰色から黒へ、単調な変化を見せる。すぐに乾くインクのような色だった。
 玄関のドアが閉まったことで、アキくんの顔が見えるようになる。下駄箱に体重を掛けて靴を脱いでいる彼の動きに合わせて、括られた髪からは水滴が落ちていた。スーツが濡れていると帰ってから皺なんかで困るだろう。タオルでも渡せればよかったけど、今座っている椅子から立ち上がれるほどの気力が、私にはなかった。玄関に立つアキくんの方がよっぽど早く動けるだろう。
 動く素ぶりを見せない私に彼は何にも言わず、勝手知ったる様で洗面所の棚から小さいタオルを取り出した。それなのに、自分ではなく手に持っていたビニール袋の表面とその中身を拭いている。結局濡れたタオルで自分を拭いていて、それじゃあ意味はないだろう。
「洗って返す」アキくんが言う。紺色で無地のタオルは私よりもアキくんの手に収まっている方がしっくりきているように見えた。
「いいよそれぐらい。それよりもさ、なにそれ」
「さっき買ってきたのと作ってきたやつ」
 少し使ったぐらいのタオルなんて気にしなくてもいいのに。なんなら別の乾いたタオルでもなんでも使えばいいのに、家主からの施しを受ける気はないようで、彼はタオルを四つに畳んでカバンに入れた。
 ずっと触れられなかった袋の詳細を尋ねるとアキくんは簡単な答えを私に与えてから中に入っている物を取り出していく。「なんも食べてないんだろ」どうせ。と付け加えられた言葉には納得がいかなかったが、この数日ろくな食事を摂っていないことは事実なので何も言い返せなかった。袋から出てきたのは彼の家で見たことのあるタッパーが二つと流動食のゼリー、りんご、アイス。ひとつの大きな集合体のように机に置かれた差し入れのラインナップにはどこか見覚えがあった。病人へのお見舞い品に選ばれがちな物、なのではないか。と勘ぐってしまった。病気の娘に母親が買ってきそうな食品のそれに、私は少し呆気にとられてしまう。
「私、風邪ひいてないけど」
「急に味が濃いやつなんか食べない方がいいに決まってるだろ、胃が驚く。 気が向いたらゼリーでも食え。りんごの種は食べるなよ」
「……それぐらわかるよ」
 小学生ほどの子供に聞かせるような決まりごとを、自分とそう年の変わらない同期に淡々と告げる彼の心情は測りたくなかった。私がそう思っていることなんて露知らず。机から冷蔵庫へ。テキパキと仕舞われていく食品類から少し遅れて冷凍庫に入れられたひとつのアイス。零度以下のスペースが閉じられる寸前に見た、空っぽの冷凍庫に一人でいたアイスは居心地が悪そうで、申し訳なくなる。

 立っている間にできることを一通り終わらせて、向かいの椅子に腰掛けたアキくんは首を数回鳴らしながら背もたれに身体を預けた。そのあと、軽く身を乗り出すようにして机に肘をついて「止めないのか」と聞いてくる。なんのことだと聞き返そうとしたら視線と一緒にベッドの横に置いていたラジオを指さされて、納得がいく。
「あぁ、あれね…… ボタンが壊れちゃって。止められないの」
「電池抜けばいいだろ」
「ソーラー充電だからむり」
 ほら、昨日夜まではずっと晴れてたでしょ。そう言うと「そんなもんなのか」とよくわかっていないような顔で立ち上がったアキくんはラジオをこちらへ持ってきた。持ち上げて、見上げている。部屋に電気がついていないんだから、掲げても意味がないだろうに。触っているうちに飽きたのだろうか。長方形の角からこつり。と、小さな音と一緒にラジオは机に置かれる。
 昨日の夜から鳴り続けていたラジオは、同じく夜更けから降り続いていた雨音と違和感なく混じっていたこともあり、すぐに私の部屋に馴染んでいた。だから、この部屋における音楽の存在感はある意味なくなっていて、すっかり忘れていた。気まぐれで付けたものだったけれどこれが案外、一人暮らしの寂しさなんて奴を紛らわせてくれるのだ。
 雨音、家の軋み、微かながら漏れ聞こえてくる誰かの生活音。そのどれもに寄り添うようにして在り続けるラジオは、思っていたより悪くない。
 本当はボリュームのつまみを少し捻れば音は消えるのを、アキくんには伝えないまま言葉を続ける。
「どうせすぐ終わるでしょ」
 私の部屋にテレビはない。そう言う類のものは必要ないかと思っていたのだ。このラジオも、元々は誰かから譲り受けたものだったような気がする。もっと早いうちからラジオを使うべきだったと、黒い機械を見ながら思う。
 そうすれば、少しは喪失感と無縁でいられただろうか。それとも、今よりもっと、本当に壊れてしまった時に私を突き刺す静寂に耐えられなかっただろうか。

 私の背後で、屋根の端から伝った雨粒がぱたぱたと落ちる音がする。雪の積もっていない日はないんじゃないかと思うほど日々雪が降る冬の北海道と違って、関東だと少しぐらいの雨なら雪にならず地面に落ちて水路へと流れていく。
 一定のリズムを刻む雨粒と、ばらばらの音を立てる雨粒が窓を濡らす。後ろの窓から見えるのは、隣のアパートの壁だけだ。
 私がラジオを止める気がないと知ったアキくんは大きなため息を一つついて、「遠征に参加する」と私に告げた。
「……そっか」
 ──それでは、お便りコーナーに、……と思います。
 絶え絶えに、ラジオのパーソナリティがリスナーからの手紙を読み上げていく。 もう電池が少なくなっているのだろう。トークの合間に入り込んでくるノイズに途切れ途切れの音楽は、静かなこの部屋ではよく目立った。聞いたことのないクラシックを、机を挟んで向かい合わせに座る私とアキくんが黙って聴いている。おかしな光景だった。クラシックを聴きたいわけではない。異国で生まれた音楽を耳にしたことは数えるほどしかなかった。ただ、二人とも先に進むことができなかったかのだ。私の脳裏には彼の部屋でバラエティ番組を観て笑っていた記憶がまるで走馬灯のように甦る。これまでとこの先で恐らく変わってしまうだろう彼との関係を一足先に察知したのだろうか。
 
 銃の悪魔討伐作戦、ひいてはそのための遠征。それがアキくんの言う遠征だと思って間違いないだろう。
 十三年前に彼の家族を殺した、今となっては世界一恐れられ、憎まれさえしている悪魔。いや、銃の悪魔には彼の家族を、数多くの人々の命を失った自覚すらないだろう。あの日生まれた憎悪を糧に、もしくは一方的に屠られた人の無念を晴らすために、アキくんを含む公安の多くの人間は命をかける訳だ。私には到底理解できない思考だった。
 
「なにも言わないのかって顔してる。 言ってほしかった? 行かないで、なんて。 言ったってやめてくれないくせに」
 意識しないようにしていた空っぽの袖を揺らしてアキくんは、黙ったまま、沈黙で肯定する。片腕を失ったアキくんがこれまで通りのバランスを保てる訳がない。刀を振るうなんて以ての外だろう。そんな戦力外通告を叩きつけられても仕方がないような状態で遠征に参加するなんて。デンジくんらを家に迎え入れてからの彼は変わったとばかり思っていたけど、思い違いだったのかもしれない。上司であるマキマさんは許したのだろうか。
「流石に伝えずに行くなんてできないだろ。それに、お前は行くもんだと思ってた」
「行くわけないじゃん。死にたくないもん」
 そうだ。私は死にたくないのだ。デビルハンターを生業にしていながら。なんて言われてしまいそうだけど、生きるために自分ができることを選んだ末に自分で決めたことなのだから、仕事が理由でいつか死んだとしても後悔はない。でも私は、自分が死にたくないと思う気持ちと同じぐらい、それ以上に、大切な人に死んでほしくないのだ。
 だからこそ、左腕の次は右腕。そうして最後には自らの命さえ喪うつもりなのかと問い詰めたくなるほどのアキくんの行動を許せなかった。憎しみや悲しみを力に変えて命を切り売りする人が大半を占めるデビルハンターにとってはある意味、銃の悪魔とあいまみえて命を落とすことこそが正しい死に方かもしれない。
 けれど、アキくんは自分が死んで悲しむ人間がいると思わないような顔で、正面に座る私が悲しまないとでも思っているような顔で遠征参加の事実を告げる。それが私にとっても死刑宣告に近しいものであるとも知らないで。

「ずるいね」口が音を刻むことを私は止められなかった。その言葉に驚いたのかアキくんは目を大きく開いて私を見る。豆鉄砲を受けた鳩のような、どこか間抜けにも見える顔を見てほんの少し、満たされたような気持ちになる。自分だってずるいと大声で騒ぎ立てる、うしろから追いかけてきた自己嫌悪を見ないふりしようとして、できなかった。
「俺はずるく、見えるのか」
「見えるよ。鏡あるけど、見る? ......冗談」 
 アキくんが「おい」と言葉を挟んだので形だけの訂正する。自分の方が余程ずるいことは、鏡を見なくたってわかっていた。
 十分傷ついているアキくんが、もっと傷ついてくれないかと思う自分が嫌だ。遠征できっとアキくんは死ぬだろう。実行日がいつかなんて知らないが、こうして言いに来るあたり、近いうちにアキくんは戦線に向かうかもしれない。そうして第二次世界大戦で散った特攻隊のように、帰ってくることはないだろう。
 どうせ最後になってしまうなら、マキマさんでも姫野さんでも、誰のことでもなく。ただ私の言葉ひとつでアキくんが傷ついて、その傷が治らないままに息絶えてくれればどれだけいいだろう。死ぬ前の暗闇で思うのが悪魔に付けられた傷の痛みや寿命を奪われる苦しみなんかではなく、私のことであってくれないか、なんて。
「ずるいアキくんと会えるのは今日で最後かな」
「勝手に最後にするな」
「そう。じゃあまた会える?」
 ぐちゃぐちゃな内心を隠して笑ってみせる。再会を願う女のように。
 そんなことないと否定してくれなくたっていい。優しい嘘を聞いたって、胸に残るのは銃で開けられた小さな風穴と、虚しさだけだ。遅かれ早かれ私も死ぬ。アキくんが先か、私が先か。ただそれだけなのだ。
「来年の北海道は私も連れて行ってよ」笑ってみせる。未来の出来事を予約して、明るい話題を出した私とは反対にアキくんの表情はどんどんと雲がかっていく。
「嫌なの?」
「そんなことは、」
 ない。と、アキくんが言ってくれることを知っていた。本人の前で「そんなことあるぜ」なんていう人ではない。ないからこそ、こんな約束が、意味のない約束を結ぶことに後ろめたそうな顔をしているアキくんの手を無理やり取る。
「なっ」
「冷たいねえアキくん...... でもあったかいね」
 彼が傷つきそうな言葉ばかりを選んでいる。当然なのに、そうなることを望んでいたはずなのに、実際に自分の言葉で傷ついたアキくんを見ると胸が痛む。
 暖房を二十二度に設定している部屋にいながら、二人とも指先はキンと冷たくて、互いに温度を分け合えないまま、私は彼の手を握る。
 冷たくても、生きいていることに変わりはなかった。本当に死んでいる人の手は、こんな風に脈も通っていないのだ。右手の小指を彼の小指に緩く巻きつける。
「最後にさ、指切りしよう。願い事はそれぞれで考える感じで」
「......初詣にすることだろ。それ」
 そう言いながらアキくんも小指を曲げる。指切りげんまんの代わりに、ラジオからは昭和の曲が流れ始める。
 アキくんが死にませんように。また会えますように、幸せでいてほしい。
 サビが終わって、どちらからともなく手を離した。彼が何を願ったのかは知らない。子供の遊びだと思って、何も願わなかったかもしれない。でも、音楽の流れる間に盗み見た彼が祈るように目を瞑っていたから、誰でもない彼自身の幸福を願っていてほしいと、そう思った。

 ──さん、こんにちは、はい。こんにちは。……さんは東京都に、お住みのようです。私も……区に住んでいて、......ですね。明日はもっと冷え込むそうです。

 壊れかけのラジオは止まない。雨もまだ、止みそうになかった。

- 6 / 23 -