(対象外)

「か、格好いい......」
 始まりは苗字の何気ない一言だった。寮暮らしの高専生にとってはリビングとも言える共用スペースに置いてあるテレビからは、誰のものかもわからない笑い声が聞こえてくる。
 声の出所である太い淵に覆われた液晶に映っているのは、ここ数年でお茶の間に馴染んだ男性俳優だった。一つ前の音楽番組から惰性で見ているのだと家入は思っていたが、夕食後からずっと隣に座っていた苗字は最初からこの男が出演するバラエティ番組も見るつもりだったらしい。観覧の発する笑い声に合わせて弾んだ声を出しているなとは思っていたが、好きな俳優が出ている故の反応の良さもあったのだろう。
 大きな身振りが視界に映り目をやると、男は自身のコメントが司会をしていた芸人に突っ込まれているようで、細められた瞳や綺麗に上がった口角からは人柄の良さを感じさせる。
「誰こいつ」先ほどまで吸っていた煙草の火を灰皿で揉み消した家入が言う。
「硝子知らないの? まあ私も最近知ったんだけどさ」
 名前、誕生日、代表作品、年齢。基本的な情報をすらすらと並べた苗字の説明も虚しく終わる。家入は俳優の情報を一切聞いていなかった。好きとか嫌いではなく、単純に興味がなかったのだ。どこがいいんだと言いたげに首を傾げながらポケットに手を伸ばして、新しい煙草を取り出した。ライターのノックを強く押し込むと爪ほどの長さをした炎が家入の手の上で穏やかなリズムを刻んで揺れる。

「本当に格好いい...... 休日なんてさ、ジム行ったり自炊したりしてるんだよ!? 未婚の成人男性が! 信じられない」
 「私が立候補したいぐらいだよ」なんて、夢に夢見る少女のような顔をして空想に耽る苗字を冷めた目で家入は見つめていた。ジムだって料理だって、選ばれし人間しかできないというものでもないし、そんなもの、いわゆる好感度のために事務所が用意した適当な回答だろう。
 第一、未婚が事実であるかどうかなんて男や、男の周辺人物以外に知りようのないことだ。苗字は左の薬指が埋まっているかどうかで判断をしたがっているようだったが、指輪を外してしまえば誰だって未婚に見える。
 「視聴者に好かれていること」それが芸能人にとってどれだけ重要なことかは、自ら進んでリモコンを手に取ることのない家入にさえ簡単に理解できることだった。そんな風に顔も知らない他人に媚びへつらって何が楽しいのかは、理解できないが。

「この前ドラマでキスシーンあったんだけどさ、クッションで顔隠しちゃった。見てられなくて」
「それ、恥ずかしかったからとか言う?」
「言うね」
「うへえ
 お手上げだった。家入は両手を軽くあげて降参の意を示す。長々と聞いてられる話題ではない。「呆れないでよお」と、もたれかかるようにして体重をかけてくる苗字を「重い」と軽くあしらい、ソファの背もたれにぴったりとつけていた背中を浮かせると生まれた隙間に苗字の身体は重力に抗えず倒れ込んでいく。叶うなら別の話題に移りたいと、家入は思う
 そして、そんな家入の願いは正しい道筋とは少し異なった方法で叶う。
「え じゃあじゃあ硝子はどんな人と結婚したい?」
「は? どんなもクソもねえよ」
「......生涯独身?」
「当たり前じゃん。そんなこと考えたことないし」
「いや私も硝子が誰かと結婚するとこ想像できないけどさあ」
 もしもだよ。と苗字が言葉を付け加える。同い年である家入があまりにも興味なさげな顔をしていた。それに苗字は納得がいかなかった。家入が行った解剖の感想や自分の任務の話なんかをすることはもちろん好きだ。だが、血生臭い会話ばかりをしていると女子高生である意味がないような気がしたのだ。
 そうして、ため息を一つ、小さく吐いてから家入は考える。もしも、自分が結婚するなら、と。
 けれど、術師のどこに異性と出会えるアテがあるんだか。術師をしている限り、安定した生活なんて夢のまた夢だ。金銭についてはその限りではないが。その日の約束さえ守れないかもしれないのに、結婚を含めた将来のことを考えながら残り数年ここで過ごして、高専を出て、それから──
 
「よ、やってる?」
「おや、二人だけかな」 
 家入の思考は、五条と夏油が姿を現したことにより中断される。暖簾くぐりの真似をしているが、もうすぐ日付が変わりそうな時間になっての帰宅だった。
 今日は二人それぞれ別の任務へ赴いていたはずだが、偶然帰宅の時間が噛み合ったのだろうか。特徴的な前髪とサングラス、そして一般男性よりはるかに高い長身。そんな男性陣がいっぺんにやってきたことで共用スペースが一気に手狭に感じられる。
 二人して、打ち合わせでもしたかのように家入と苗字が座るソファの左右に置かれた一人掛けのソファにそれぞれ腰を下ろす。全員でテーブルを囲んでテレビを観るかのような配置だった。このまま居座るんだろうな。そう思った苗字が、先ほどの続きと言わんばかりに口を開く。
「で、硝子は結婚するならどんな人がいいの?」
「まだ続いてたの。それ」
「なんだ、恋バナかよ。青いなあお前ら」
「悟だって同い年だよ」
 夏油が少し咎めるような声を出すが、冗談の延長戦のようなものだった。それをわかっていて、「だって」と反論しようとした苗字の声を遮り五条が言葉を続ける。
「だって、じゃねよ。ガキか。術師で独身の奴どんだけいると思ってんだ。傑だって独身貴族になるかもしんねえってことだぞ。なあ!?」
「うそ、夏油が独身なんて言われたら私、絶対無理じゃん。望み薄って、つまり、そういうこと......?」
「そういうコト」
「い、いやだ!! 結婚したかったのに!!」
 
 言葉を失うほどにショックだったのか、ひどく悲しそうな顔をしてもうだめだと言わんばかりに苗字は手に持ったクッションを両手で強く握りしめる。その様を見て夏油も一握りの罪悪感を感じたのか、「気にすることはないよ」と声を掛ける。それでも苗字はクッションから手を離さないままだった。仮にも呪術師として日々肉体労働に勤しんでいる苗字全力の力を込められて、中の綿がばらばらに移動していく様子を硝子は眺めていた。想定外の所にあるからか、均等に詰められていた綿は四隅の角さえも見えない程にぼこぼこと、原型を失いつつあった。
 その間も五条と夏油は好きなように会話を続けていて、テーブルの上を二人の言葉が往来していた。
「硝子さ、」
 苗字が、ぽつりと言葉を漏らす。
「五条と夏油なら、どっちがいい......?」
「は、」
 最初に声を漏らしたのは誰だったか。
 家入か五条か、それとも夏油か。三択と、勘で当てることもできそうな数にまで絞られていながら、当事者である三人は全員、動揺から自分の声だと認識することはできなかった。妙な緊張感が場を支配していた。
「いや、だから、硝子が結婚するなら五条か夏油のどっちがいいかって聞いてるんだけど」
「お、お前さあ......」
 さも当然のことのように言い放つ苗字に、そこまで馬鹿だったなんて思わねえだろ。と五条は初めて恐れに似た感情を抱く。
 ──恋愛脳という言葉が、五条の脳裏に浮かび上がる。実際の意味とは異なるだろうし、口には出せなかったが、もはやそうとしか思えなかった。
 それでも極力沈黙を貫いたのは、自分が口を開くことで余計に話がこじれることはわかりきっていたからだ。
 現状を打破すべく、正面に座る夏油にアイコンタクトを取ろうと試みる五条だったが、合ってすぐに小さく首を振る親友を見て天を仰ぐ。大丈夫かあいつ。一回でかい任務でも受けさせれば目ェ覚ますか? いや、逆に世間に出したらダメなやつだろ。

「ねえよ。俺のほうからお断りだっつうの」
「私も...... 家庭のことは考えていないからな」
 硝子が何か言う前に自分から拒むこと。それが五条と夏油が同時に叩き出した解答だった。硝子には悪いが、二人にはこの場から去るための理由、ひいては「答えたからもう出て行ってもいい」という事実が必要だったのだ。
 
 もういいだろうと言わんばかりに五条と夏油は立ち上がる。これでお役御免。晴れて自由の身だ。だが、それまで口元に手を当てて何かを考えるような素ぶりを見せていた家入が隣に座る苗字に目をやって答える。
「こいつらクズだし、苗字だな」
「し、硝子......!?」
 来た時と同じように、二人揃って出て行こうとする男たちを着火前の煙草で指した家入は確かにそう言った。その言葉に一番驚いたのは、誰でもない苗字だった。言葉にならない音を口先で刻みながら満更でもなさそうに頬を緩めている。
 苗字の好きな俳優が出演する番組はとっくに終わっていた。今現在放送されているニュース番組では、誰が死んで、どこで火災が起きて──そんな人々の不安を煽るような報道が行われている。神妙な面持ちで原稿を読み上げる液晶内のアナウンサーと、さっきの沈痛な表情なんて嘘だったかのようにはしゃぐ同級生は、ひどく相対的に思えた。

「なあ傑、俺らいらなくね?」
「......そうだね」
「部屋行こうぜ。俺まだレベリングしたいんだよな」
「いいよ、付き合おう」

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