(ずっと優しい夢の中)

紅く色づいた枯れ葉と一緒に柔らかな風が、私の頬をかすめて通り過ぎていく。そのまま枯れ葉は地面に落ちて、他の落ち葉の上に重なるようにして道の一部になる。似たような赤ばかりで、見分けがつかなくなった。
空と地上の間、私の頭上で木の枝と同化した色合いの鳥が鳴いている。高く囀る声を聞きながら思考を巡らせる。どうして自分が高専にいるのか、思い出せないのだ。用事でも入っていたか、約束でもしていたか。それとも、他の理由か。ひとつひとつ当てはまりそうなことを考えてみるけれど、そのどれもが間違っているような気がして、出口の存在しない行き止まりの迷路に放り込まれたような気分になる。
辺りを見渡しても、視界に映る見慣れた古びた校舎や、落ち葉に覆われた石畳に砂利、その全てが何回と数えられないほど目にしてきたもので、どうにも違和感を抱けなかった私はこちらに向かってくる後輩たちを見てやっと、自分がここにいる理由を理解する。
「あ、名前先輩」
先頭を歩いていた硝子が一番に気づいて声を掛けてくるのを皮切りにして次に夏油が、最後に悟が、「名前だ」「”先輩”、だろ」なんて口々に話ながら近づいてきて、私は思う。
ここは、夢の中だ。

「お久しぶりです。先輩。 もう四年生なんだから学校来ない、なんて言っていたのに」
「だよね。学校で会うの久々だ」
「えっと、みんなに会いたかったからじゃだめ、かな」
その場限りの適当な理由と口角だけ上げた笑みを並べる。瞳が脳へと慌ただしく伝えてくる情報を整理していくほど、予測でしかなかった考えがどんどんと現実味を帯びていって、不安な気持ちは透明な水を黒く染めるインクのように私の心に広がって満たしていく。
私が四年生ということは、一つ下の学年だった硝子たちは三年生ということだ。本来なら、離反して呪詛師となった夏油がこの時期に高専にいること自体がおかしい。
それに、十九歳 ──四年生の頃の私は県外での任務に明け暮れていて、高専に戻ることなんて一年間で片手で足りるほどの回数しかなかった。夏油の離反を知ったのもかなり後のことだった。そんな、星漿体の護衛任務を経て最強に成った悟の隣に夏油がいて、私に笑いかけている。時間差で涙腺が緩みそうになるのを堪える。懐かしい顔ぶれだった。この光景が夢じゃなくて、なんだと言うのだろうか。

一通りの結論を出してみて、それでもなお複雑な気持ちを抱えたままでいる私に向けて初めて悟が「明日、時間ある?」と声を掛けてくる。
「ある。けど、どうしたの?」
「見せたいもんあるんだよね」
「そうなの? いいよ」
ポケットに手を突っ込んだままでこちらを見る悟。高専に在籍していた頃の悟は、良くも悪くも「生意気な後輩」という印象だった。会うたびに何かと突っかかってきては、形を残さない風のように消えていく。それに嫌悪感を感じていたわけではないけれど、悟に比べると硝子は歌姫さんを慕うように私に接してくれていたし、夏油も模範的な後輩といった態度を崩さなかったことから、悟が一番問題児だと思っていたことを思い出す。
ただ、約束をしたのはいいけれど、悟の言う”明日”までに私が目覚めればこの約束も不問になる。夢の中で日付をまたぐことなんてあるのだろうか。
眠りについて、目覚めること。ひいてはその繰り返しを重ねて生きていくこと。現実だから可能なことで、こうして私の脳内で行われている夢で現実と同じことを行うというのはいかがなものか。

「名前先輩今日はずっとここにいるんですか?」
「うーん。うん、そうだね。夜蛾先生にも挨拶したいし今日は学校うろついてるかも」
「そうなんですか?じゃあ一緒に授業受けましょうよ」
いいですよね?なんて硝子が言うから思わず「じゃあそうしようかな」なんて返してしまう。昔から弱いのだ。彼女には。いつかは忘れたが、学生の間に煙草を買いに行かされた気もする。その時も「お金払うんでお願いします」と頼まれて二つ返事で「いいよ」と答えたと、思う。
頼まれたから。硝子のお願いを叶えるため。そんな体で後輩らと一緒に行動してみると、この夢はひどく優しい世界に感じる。
「五条も夏油も結構寂しがってたんですよ、信じられます?」
「んん、信じられない、かな……」
「事実にそぐわないことを言わないでくれるかな」
「そーそー、適当なこと言ってんじゃねえよ」
一緒に授業を受けても、学年が一つ上でも、私が彼らに教えられることは元から無かった。本当に学生をしていた頃は優れた後輩に少しの劣等感を抱いていたけれど、大人になった私はきちんと対応できている。そう信じている。

午前の授業が終わる。昼食を食堂で一緒に摂って、そこで初めて「何もすることがないな」と思った。話の節々から察するに、呪霊も呪詛師も活動はさほど活発化しているわけではなさそうだった。学生だった私たちが戦いの場に駆り出されなくてもいい世界。中学生の私がそうであったように、決まった時間に登校してチャイムの音に合わせて行動すること、決まった時間に家路を辿ること。それが当たり前とされるこの雰囲気がとても心地よく思える。身を削り血を流し、戦いに青春が奪われない世界に、そのまどろみに浸っていたくなる。特筆することがないぐらいに穏やかな学生生活に安心している自分がいる。呪霊を倒さなくてもいい世界。なんて幸福な夢だろう。

**

それは、体感にして一瞬にも満たなかった、舞台の反転。
夜じゃないのに薄暗くて。景色全てが灰色に見える。それは事実じゃない。ただ私の心がそう理解しているから、そんな風に見えるのだろう。現に、秋晴れの空には数えられる程の雲しか浮かんでおらず、鳥の囀りはさっき聞いたものと寸分の違いもない。
「なんで? 悟……」
この場にそぐわない声が聞こえた。他の誰でもない、私の声だった。喉の奥から無理やり絞り出したような声で、掠れた声だ。それでも彼には届いて ──届いてしまったらしく、しゃがみ込んでいた悟は池に石を投げ込むのをやめて、緩慢な動作で立ち上がる。ゆらりと、そんな擬音がつくような動きだった。
悟の足元に転がる人、命を持っていた者には、見覚えがあった。
中学の頃に私を過度にからかってきた人。
高専を出てからの任務先で、呪術を使った私を「化け物」となじった人。
浮気の発覚を経て、一年前から付き合っていた私を振った人。
そのどれもが私にとって思い出したくはない人たちで、忘れたいと、何度も思いながら自傷行為のように当時の記憶を反芻してしまう、忘れられない人たちだった。
そんな、悟とは面識のないはずの彼らが恐らくだが悟の手に掛けられて、物のように地面に置かれている事実に、息ができなくなる。

「え、だってコイツらが嫌いだって言ったの名前じゃん」
「嫌いなんて、そんなこと」
「言った。少なくともお前はそう思ったよなあ? 俺はちゃんと覚えてるよ」
だってお前のことだし。そう言う悟は、彼と入れ替わるようにして地面にへたり込んでいた私の前にしゃがみ込んで問う。
「どう? 嬉しい?」
否定することが、できなかった。
悟は、こうすれば私が彼を褒めると、「ありがとう」なんて言って笑うんだと、きっとそう思っている。彼の善意からくる行いを否定すれば今度は自分の身が危うくなるのではないかと、そんな気さえ覚えて、温度を感じないはずの夢の中で、この肉体に通っているかもわからない血の気が引いていくのがわかる。
「……嬉しくないわけ?」
言葉一つも返さない私に悟は、苛立ってさえいないものの、疑問を抱いているようだった。旋風が池の表面を大きく揺らして、いくつもの波紋を描いてる。
大きな手を頬に添えてこちらを見下ろす、その動作一つとっても、彼の行為を否定することが許されない事実を嫌という程感じさせられて、私の心は蝕まれていく。嬉しくないに決まっている。それなのに言葉が出ない。怯えているのだと、自覚する。私は悟に、怯えているのだ。

昼食の時、夏油から聞いた言葉を思いだす。
「呪霊はもう長い間、ずっと大人しいままじゃないですか。学生の私たちが出て行かなくても、術師だけで回していけています。ちゃんと。当然でしょう」
あの言葉が本当なら、私が優しいと喜んでいたこの世界は悟が今みたいに、躊躇いも無く力を振るうことで生まれたのだろうか。
──そもそも、星漿体の一件がなくたって、悟は生きている限り十分この世の一番たり得た。
一番強くて、簡単に力を振るう悟になら、きっと、世界だって悟の意のままに動くだろう。正しい意味としてこの世界が悟のものではないことは、私だってわかっている。
でも、ほんの少し術師としての力があっただけのちっぽけな私を取り囲む世界なんてたかが知れている。青と緑に覆われたこの星を、悟を中心に重力が巡っているような世界が、今ではとても憎らしく思う。

「なーあ、名前?聞いてんの?」
「……聞いてる。けど、嬉しくないよ。こんなの、」
私の夢のはずなのに、どうして私の願わない方へ進むんだろう。それとも、どこかで彼らの死を、望んでいたのだろうか。誰かの不幸を願う深層心理を、悟に代行してほしいなんて、思っていたのだろうか。
私に優しい悟が好きだ。でも、私は欲張りだから、生きる人みんなが等しく守られていてほしい。少なくとも、そう願って術師をしていた。
「ごめん。ごめんね、悟。夢でだってこんな役回り、させたくなかったのに」
この願いすら叶えられないなら、それこそきっと。
私が夢に逃げないといけない時なのだ。

**

そんな夢を見た。
目覚めたのは開けられていたカーテンから朝日が入り込んできていたからで、眩しくて手で顔を覆う私に「魘されてたよ」と悟は言う。さっき見ていた彼よりも大人びた姿で。
「さとる、……悟?」
「なに」
悟だ。いま、私の目の前にいる彼の、薄手のVネックに覆われた体に触れる。手からゆっくりと伝わってくる熱が、目覚めたばかりでまだ平熱より高い私の体温と混ざっていく。
自分に触れたまま動かない私を見かねてか、悟が口を開いた。
「まだ夢見てんの?」
「いや…… 悟でよかった」
「なんだよそれ」
「うーん、起きた時に悟がいてよかったってこと」
「そりゃ嬉しいな」
噛みしめるようにして言う私が面白かったのか、笑っている彼を見て、罪悪感を感じる。
あの少年ではなく、この人こそが五条悟で、世界の、多数の非呪術師の味方になることを選んでくれた人だ。と思う。でもそれは、親友の夏油と決別することを選んでしまった彼だでもあって、改めて考えると素直に喜ぶことができない自分もいる。

「なーにニヤニヤして。気になるでしょうが」
「ふふ、うん。悟がみんなに優しくてよかったなあって思ったの」
「僕が?」
「そう」
不思議そうな顔をする悟を置いて、私は話し続ける。
「苦手な人とかさ、たくさんいるけど別にその人達を救いたくない訳じゃないくて。術師とか、そうじゃないかとか好きとか嫌いとか、全部関係なくて、救える人はみんな救いたいから。だから悟がやさしくてよかったなって」
さっきまであんなに、泣きたいほど辛かったのに、こうして目の前にいる悟が私の気持ちを尊重してくれて、話を聞いてくれるだけで、簡単に嬉しくなってしまう。単純だ。
それでも、あの私にだけ優しい悪夢が、正夢にならないでほしい。そう思った。

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