(瞼に焼きつく色)

「あのっ、五条さん、まだ頂上に着かないんですか」
「もうちょっとかな。名前も呪術師なんだからもっと体力つけたら?」
「っ、余計なお世話です!」
暗い山の中を進んでいる。私の10歩は前を進む五条さんだけを頼りに。それなのに、いつも通りの真っ黒な服装でどんどんと進む彼を、この暗闇の中で見失ってしまわないかと不安を抱きながら、私は手に持った懐中電灯で彼を照らし、整備されていない獣道を踏みしめる。何度も、なんども。
普通の山道なら、私だって五条さんと同じか少し遅いぐらいのペースで歩けていただろう。でも、人が通ったこともないことをひしひしと感じさせるような、それこそ地図に載っているかも怪しい道を1時間以上も歩いていれば、普段の倍のペースで体力が摩耗するのも、息が切れるのも、仕方がないことじゃないか。そう独りごちながら右足を出して、左足を出す。作業のように同じことを繰り返しながらたまに転がっている大きな枝や暖簾のように垂れ下がっている葉を潜って、そんなことを考える。
どこに向かうのかも、何をするのかも知らない。それでも、なにを見るかは知っていた。

11月17日。いつも通りの日々を送る私に星を見に行こうと言ったのは五条さんだった。
「しし座流星群……ですか」
「そ。今日の夜中がピークらしいんだよね。だから正確に言うと18日かも」
言われた単語を検索エンジンの検索欄に打ち込むと、求めていた答えはすぐに見つかる。結果の一番上、ニュースサイトの欄をタップして情報に目を通す。
「本当ですね。18日未明から明け方がみごろ、防寒対策必須…… ってこれ、あんまり見れないやつじゃないですか?」
「まあね。でも見れるでしょ」
そう言っていたのに、五条さんの嘘つき。
何度目かわからない荒い息を吐く。星を見るより先に私の体力が限界を迎えそうだった。いつまで続くかわからない森の中を淡々と進んで、前か後ろか、それとも斜めに進んでいるのかも、暗闇の影響でわからなくなりつつあった。

「ほら名前頑張って、もう少しだから」
いつの間にか、立ち止まっていた五条さんがこちらを向いていた。これでもう急勾配の坂を登らなくても済むのだろうか。差し出された手を取り、最後と思われる土と木の根が積み重なって生まれた大きな段差を踏み越える。
そのまま平らになった道を進んでいると呼吸が整ってきたのか、先程よりは余裕の出てきた脳が様々な情報を取り込み始める。
足を滑らせる原因として厭っていた落ち葉は案外綺麗な色をしていたし、大きく息を吸うと東京とは思えない澄んだ空気が熱の籠った肺を冷やすと同時に、地に落ちたきのみが発酵したような匂いを感じた。

それから数分、黙って歩いているとついに目的の場所に辿り着いたことを知らせるように五条さんが私の手を引っ張って、私は一歩前に出るような形になり彼の隣に並ぶ。その瞬間、寒さも吹き飛んで身体から汗が滲んだ。
手を、繋いだままだったのだ。分厚い手袋をしているから人の体温が手から伝わっていたことなんて気づけなかった。焦って繋いでいた手を引っ込めようとしたのに、それに気づいていたのかいないのか、五条さんが私の手を強く握りこんでいたから引っ張った衝撃は彼を呼んだと捉えられたのか、五条さんがこちらを振り向く。下ろされている白い髪が、一緒に揺れた。

「なに? 楽しみなの? でも本当に楽しみにしてくれてていいよ。 ……ほら、見てみな」
「……わ、」
これまで空を覆っていた木々を抜けた先。開けた場所に出て来た私が空を見上げると、何者にも遮られない夜空が視界一面に広がる。冷えた空は高いところまで澄んでいて、遥か上空で数え切れないほどの天体が自由に光を放っている光景が、私を圧倒する。

「いやー、本当はもっと近所でもよかったんだけど、こういうのって場所によっても記憶の残り方が変わりそうだからさ」
そう言いながらさむいねえなんて笑う五条さんの瞳はサングラスと夜の黒が入り混じってよく見えない。けれど笑っているんだろうなと、彼の声色を聞いて思う。
「……そうです、ね。 私もかなり厚着してきたんですけどこれでトントンって感じです」
感覚的に秋だと考えてしまいがちな11月だが、日が落ちてしまえば立冬という名の通り、寒さは増していく一方だ。足元に広がるくるぶしほどの高さの草も茶色に染まっていて、どこか萎れた印象を感じさせる。

年末の深夜。初詣に並ぶ時ぐらい。真冬の地蔵。寒さのフルコースを想定した防寒でも心なしか肌寒い私は、マフラーさえしていない五条さんは寒くないのだろうかと考える。
肺に残った息を吐き出すと白くなって、目に見える形で消えていった。彼の髪と同じ白色だったものを追うように上を見上げるとさっきと変わらない星空が私を迎え入れる。

「本当に綺麗ですね…… 五条さん、それで見えてるんですか?」
「見えてるに決まってるでしょ。僕を誰だと思ってんの」
「ならいいですけど…… ほら、見てください。あそこ、星が三つあるでしょう。あれが確か夏の大三角形です」
「へえ、秋なのに見えるんだ」
「本当にギリギリですけど。 ……というかこれぐらいしかもう覚えていないんです、星座のこと」
「そーお? 十分詳しいじゃん。 前から星見るの好きだったの?」
尋ねられて少し、返事に迷う。なんてことない、ただの子供の話だったからだ。それでも口を開いたのは、この場に五条さんしかいないという安心感があったからだろうか。

「アンタレスが好きだったんです」
「なんで?」
「蠍座なんです。 私。 11月に生まれて。 なのに11月の空に蠍座は、アンタレスは浮かんでいないんです。変な話ですよね」
初めて知った星がアンタレスだった。進級したばかりの春にもらった理科の教科書156ページ、「季節の星座」を思い出す。真っ暗な宇宙の中では珍しく思えた、赤く輝く、蠍の心臓。
「……だから、どうしても自分の目で見てみたくて、小学生のとき、望遠鏡を買ってもらったんです。 ちゃんとで使うから! ってお願いしたら、二人ともいいよって言ってくれました」
「いい親じゃん」
「はい。最初はすごく嬉しくて、夜になると望遠鏡を持ち出して星を見ていました。でも、小さい星なんかはピントを合わせたりするのが大変で、──それに、近づけすぎるとすっごく眩しいんです。星も月も。だから眠れなくなっちゃって、押入れにしまいました」
太陽で目が眩むことはあったけど、夜に存在するものを見て目が眩んだのはあの時が最初だった。
眩しすぎるものを見てしまうとまばたきをしても目を瞑っても明るくて。それに月が自分をじっと見つめているような気がして、そんな日は決まって寝付けなかった。

「ふーん、でもさ、こんなに遠くても綺麗なんだから近づいたらもっとすごいのかもしれないよ」
ほら。と五条さんが指を指す方を見ると、ちょうど今日の目的だった流星が消えていくところだった。
「どうでしょうね…… 見てみないとわからないですよ」
話しておきながら恥ずかしくなって、素っ気なく返した私の返事は「じゃあ見てみる?」と、軽く放たれた五条さんの言葉にいとも簡単に上書きされる。見れるんですか。と言いそうになってすぐ、素直に受け取ったことを知られたくなくて、話を変える。
「う、はい…… あ、月も綺麗ですよ。 三日月だ。満月だとうさぎが見えるって知ってます?」
「知ってる知ってる。でも、月の裏なんて惑星で作られたクレーターでぐちゃぐちゃさ。残念だけど」
夢を壊す男は嫌われると、知らないのだろうか。こういうところだけを見ると五条さんが最強の男だと思えなくて、少し呆れてしまう。
というか見たことがあるのか。と、さっきの会話で得た違和感を反芻してみる。なんやかんやで最強な五条さんなら一人で実物を見に宇宙に行く。なんて人間離れした芸当も簡単にこなしてみせそうだ。
もしも五条さんに連れて行ってもらえたら、あの時望遠鏡では見えなかった裏側も見えるのだろうか。

「ぐちゃぐちゃでもいいんです。それでもいいから、いつか見てみたいなあって思います」
「ふーん、名前も大概物好きだよねぇ」
そんなに光ってるのが好きなの?首を傾げながらそう尋ねられ、つられるように首を横に小さく傾け答える。
「はい。やっぱり眩しいものって無条件に綺麗だと思っちゃうし、心が奪われるっていうか、良くも悪くも記憶に残るというか」
私の答えに何か思うところがあったのか、五条さんは「ふうん」と顎に手を当てて何か考えているようだった。
「ね、綺麗なもの見せてあげようか」
「本当ですか?」
「ほんとほんと」
まあ、名前への大サービスってやつかな。そう言って彼の目を隠していた硝子板が誰でもない彼自身の手で外されていく。滅多に、というか見たことのなかった光景に私は目が離せなかった。

五条さんがサングラスを外すその間、隙間から漏れ出ていたのは蒼い光だった。それが、サングラスが完全に外されたのと同時に強く輝く。私の視界に映るのは二つの星だった。私の一番好きな星、アンタレスの赤と対極にある蒼い星。手を伸ばせば届くところに浮かぶ、五条さんの瞳であるはずのそれがあまりにもまぶしくて、目が眩む。
人間に平等に備えられている虹彩とは思えない輝きだった。山に入る前に通って来た住宅街の街灯より、険しい山道を照らしてくれていた懐中電灯より、すれ違った車のランプより何より、五条さんの目のほうがずっと明るい。
先程発した自分の言葉に嘘偽りなく、私は五条さんの瞳に心を奪われそうになる。
私の頭上、彼のまばたきに合わせて小さな光を弾くように瞬く様子は本当に、夜空に煌めく星のようだった。白に縁取られた睫毛は私を見るために伏せられていて、ずっと見ていたいとさえ思うのに、眩しさとは異なる美しさから、なんだか気恥ずかしくて目が合わせにくい。そんな私の顔を見て、五条さんは嬉しそうに笑う。
「ね、綺麗でしょ?」
まるでいたずらが成功した子供のような笑顔だった。サプライズが成功した人のような。
それでも否定できなかったのは、きっとこの先目を瞑るたびにこの蒼が瞬いて離れないことを確信してしまうほど、五条さんの瞳を美しいと思ってしまったからだ。

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