(プラスチック包丁)

 意識だけが浮上する感覚、まだ覚め切っていない意識に鞭打って瞼を押し上げると、時計が午前五時を指しているのが目に入る。いつもより大幅に早い起床時間で、我ながら珍しいなと感じる。目覚めたばかりなのに布団の中が冷めきっていて、最近続いているこの寒さで起きてしまったのだろうかと考える。
 きっと、起きているのは私だけだ。デンジくんとパワーちゃんは言わずもがな。昨日の夜も遅くまで二人してじゃれ合っていたし、いつも朝ごはんの匂いに引き寄せられるように起きてくるから、二人が起きるのはまだまだ先だ。いつも朝食を作ってくれていて、二食一室付きで私を家に住まわせてくれているアキくんもまだ自室で眠っている頃だろう。
 住まわせてもらっていることへの感謝と、このチャンスを逃したくない気持ちも手伝い、本来なら二度寝を決め込んでいるだろう自分の身体を無理やり布団から引き剥がした。冷たいフローリングに足をつけると、つま先から頭まで電気が走った様に一気に目が覚める。まだ暖房のついていない冷気に晒されながら、冬用に買った裏起毛のスリッパを履いて冷蔵庫の中を覗いてみる。
 卵、トマト。野菜室にはレタス。 ……トーストと目玉焼き、サラダぐらいなら私にも作れるだろう。

材料を並べて、包丁とまな板を用意する。最初にレタスを手に取った。一昨日アキくんがスーパーで買っていたものだ。一玉丸々使うと多すぎるので、半分に切ってみる。
「えい」
体重をかけて刃を押し込むと ごとん、と大きな音を立てて包丁がレタスを二つに分ける。そのまま、さっきよりは切りやすくなった半玉にもう一回包丁を充てがう。四分の一ぐらいなら、使っても怒られないだろう。そう思い、一口大になれと願いながらレタスを切る。普段は悪魔ばっかりで野菜を切ったりしないから、どうにもやりにくい。

レタスと格闘していると、廊下の方から扉の開く音がした。足音は早足でこちらに近づいてきて、顔を上げるとアキくんがいた。時計はアキくんのアラームがなるにはまだ早い時間を指している。青白い顔で、体調が悪そうなのに、しっかりとした足取り隣にやってきたアキくんに声をかけようとすると、アキくんが私よりも先に口を開く。
「何作ろうとしてたんだ」
「トーストとサラダ、と、目玉焼き……」
「ん」
 呆気にとられながらそう言うと、アキくんは私の手からやんわりと包丁を抜き取り、私が時間をかけて切った形の悪いレタスを一定のリズムで細長く切りなおしていく。じっと見つめていたが、手持ち無沙汰になっていることに気づき、アキくんに声を掛けた。
「あ、あの、早川さん、やること……」
「座っとけ」
「はい……」
ぴしゃりと言われてしまい、本当にやることがなくなってしまった。「はーい」なんて言って、言われた通り座っていればよかったのかもしれないけど、それじゃあ早起きしたさっきの私が可哀想だろう。言い負かされれるなよ、私。強い気持ちを持って、息を吸って、もう一度。
「……お皿出そうか?」
「そうしたら今度は皿割りそうだからやめろ」
我ながら消え入りそうな声だった。けれど、そこまで聞いて私の脳内に一つの仮説が浮かび上がる。さっきまではあの青白い顔の理由が良くない夢だったんじゃないか、なんて考えていたけど、「今度は」なんて言い方をするのなら、きっとこれが正解だろう。
「ね、アキくん。 私もしかして手切っちゃってた?」
答えがない
「アキくんってば」
答えを聞くまでは帰さないぞという気持ちで卵を溶くアキくんの横から離れずにいると、既に疲れ切った顔をしたアキくんがため息をついて口を開く。
「指を切ったところが見えた。夢かと思ったがお前が料理してる音が聞こえたから慌てた。レタスならちぎれ」
「す、すみません……」
正解だった。自分の予想が合っていたことに少しの喜びを感じたのは束の間、ここまでアキくんを心配させるほどに自分の料理の腕が信用されてないことに気持ちがシフトしていく。
「で、でも私、朝ごはん作るの手伝えてたよね? パン焼いたし、ジャム出してたし……」
そこまで言ってやっと、早川家に来てから自分が包丁を握ってないことを思い出す。手伝ってることなんて精々パンをトースターに入れたりジャムの数だけスプーンを出したりで、どれもこれもきっと、アキくんなりの気遣いだったのだ。
 ……なんて、いい話のようにして終わらせることは出来なかった。アキくんへの感謝がどんどん増す一方で、自分を情けなく思う気持ちが膨らむのを嫌という程に感じている。そんな私をよそにアキくんは手際よく朝食を作り続けていて、今も、突っ立っている私を綺麗に避けてパンをトースターに並べている。キッチンに私の居場所はなかった。
 最後の悪あがきとしてジャムを二、三個選んでテーブルへと運ぶ。イチゴとマーマレードのラベルがこっちを見て、私を嘲笑っているような気がした。一人でキッチンに立つアキくんが、私に包丁を持たせないアキくんが、どんどんお母さんの様に見えてくる。アキくんなりの優しさなのかもしれないけど、その優しさが今の私には痛かった。

「パワーちゃん達起こしてくる」
逃げるようにまだ夢の中であろう二人を起こしに行こうとすると、アキくんが名前を呼んで私を呼び止める。
「……デンジとパワーも料理させろってうるさいから、近いうちに包丁を買う。だから次からはそっちを使え」
これはまだ使うな。と、シンクに降ろされた包丁を顎で指す。
「いいの?」
「ああ。でも俺がいない時には使わないようにしろ」
危ないから。その言葉を受け入れて私は頷いた。それに満足したようにアキくんが少し笑って私を廊下へ送り出すものだから、なんだか私も晴れ晴れとした気持ちで二人が眠っている部屋の扉を開いて、寝顔を覗き込んで、よく眠ってるな、なんて思って、あれ、私、この子達と同列に扱われている……?

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