(きみでできていたからだ)

いつもの自分なら選ばなかっただろうカフェに入った理由は、人の作ったご飯が食べたくなったからだった。ドアベルの鈴と一緒に店内に足を踏み入れると、「何名様ですか」なんて聞かれて人差し指を立てると理解したような顔で店員が奥の席に座るように促すので、他の客が会話を交わす声を聞きながら自分の席に腰を下ろすと、タイミングを見計らったようにお冷やとおしぼり、メニューが運ばれてきた。

「こちら、ランチメニューとなっています。 小鉢は以下の3つから変更していただけます。 白米は五穀米にも変更することが可能ですので、注文時にお申し付けください 」
「あ、はい」
店員が持ち場へ戻っていくのを見届けてから、タイミングを失って脱げなかったコートを脱ぐ。最近はめっきり冷え込んで、本格的に冬物のアウターを引っ張り出してきたばかりだった。そうして机に視線を戻して、ランチメニューに尺を奪われて説明されなかったグランドメニュー、というのだろうか。大きな冊子になっているメニューを開いてみる。なるほど、おすすめしているだけあって確かに、グランドメニューに比べるとランチ時に頼めるセットのほうが小鉢やデザートが付いていて値段が据え置きになっているからか、お得に見える。というか、お得だ。
顔を上げて店内を見渡してみると、私の挙動で気付いたのか観葉植物の隣に立っていた店員がこちらへ進んできた。
「ご注文お決まりですか?」
「はい、この…… ランチセットで、小鉢は卯の花でお願いします」
「かしこまりました! 白米は五穀米に変更できますが、いかがいたしますか?」
「そのままで」
「はい! それではご注文を確認させていただきます」
ランチセットひとつ、小鉢は卯の花、白米、変更なし。注文が読み上げられる声を聞いて、頭の中で反芻してみる。洒落たメニューが多く、お昼時のOLが憩いの場として選んでいるようなこのカフェにいる自分が、異物なんじゃないかと思えてくる。すると途端に心細くなって、やっぱり背伸びなんてせずに家でアキくんのご飯を食べていればと考えて、もう食べれないと気づく。
そうだ。だから誰かが私のために作ったご飯を食べたくて、ここに入ってみたのに。肝心の理由を忘れるなんて、馬鹿馬鹿しくなる。

家を開ける時は1日でも半日でも、いつもアキくんはご飯を冷蔵庫に入れてくれていた。だから私はアキくんのいない家に帰ると決まって、炊飯器の状態にもよるけど丼物用の大きなお皿を出して菜箸でタッパーからおかずを移してそのままチンしたご飯と一緒に食べていた。自分に盛り付けのセンスがないと知っていたからだ。
最初の頃はお皿はともかく、流し台に菜箸しかないことに呆れていたアキくんだったけど諦めたのか次第に小言も言わなくなっていった。私の勝ちだった。けれどそれもデンジくんとパワーちゃんがやって来てからは無くなった。私も先輩としていいところを見せたくて少し、見栄を張ったのだ。
二人の分も私が取り分けたりしていると、人の世話を焼くのって案外楽しいことに気づいた。パワーちゃんは好きなものと嫌いなもので反応の差が激しいからすぐにわかるから野菜を少なめに、デンジくんはなんでも食べるから全体的に量を多くすると二人とも喜んでいて、その様子を見て私も嬉しくなったりしたのだ。今思うとアキくんもあんな気持ちだったのかなと、思う。

「お待たせいたしました」
これまでの記憶に想いを馳せていた私の思考は店員の声で一瞬にして現実に引き戻される。声のした方を見ると目があった店員は接客業に向いてるのだろうなと思わせられるような笑顔で私に微笑む。傷を知らない細い指でコトリと、控えめな音でテーブルに置かれたのは、木材でできた大きなワンプレートに丁寧に盛り付けられた私の昼食。メインのハンバーグにその下に引かれたレタス、野菜、白米、ポテトサラダ、卯の花。これらがこの後私の口に入り、血肉になる。身体の一部になるのだ。
「伝票、こちらに置かせていただきますね」
「あ、りがとうございます」

拳ほどはあるだろうハンバーグの上には彩りのためかパプリカが乗っていて、それを落とさないように箸で割ると中から肉汁が溢れて、子供の頃のような気持ちになる。子供の頃以外にもいつだったか、同じようにハンバーグを食べてこんな風に心を踊らせたことがあった気がして、それが引っかかる。
今回の外食自体久しぶりだし、それ以外でハンバーグを食べた記憶なんてアキくんが作ったものしかなくて。そこまで考えてはっとした私は驚きで体が強張る。それが周りで食事している人たちに怪しまれていないか確認するために視線だけであたりを伺って、一度リセットするために口の中に残った肉片を水で流し込み、箸を置く。

アキくんの家に来て初めて食べたのが、ハンバーグだった。

私がアキくんの家にやって来た頃、まだ数年前にもならない頃、家主のアキくんはハンバーグで私を歓迎した。白米と味噌汁と漬物だっただろうか。
「……美味いか」
「おいしい」
「それが好きなのか」
「……? うん」
テーブルを挟んでよそよそしく、ぶっきらぼうに尋ねてきたアキくんを思い出す。そうだ、それまであんなに人を緊張させるような面構えをしていたくせに、ハンバーグが好きだと言ったとき、このハンバーグが好きだと言ったとき、アキくんは初めて「子供舌だな」と、それまで固く結んでいた唇を上げていた。笑っていた。
その時の私は「そんなことない」なんて言っていたけど、嘘だ。すごく美味しかった。だって、アキくんの出してくれるご飯はその後だってなんだって、美味しかった。暖かかった。
一人暮らしをしていた時は適当に作って適当に食べて、次の日にはまた同じように繰り返し ──なんてスナック菓子やアイス以外の食事に楽しみを見出せない不摂生な生活をしていたのだ。「好きな食べ物」というのも、わからなくなっていた。自分の作るご飯は調味料の「さしすせそ」だって適当で、舌がおかしくなりそうなほどしょっぱかったりご飯なんて言えないほど甘い日さえあった。
それがアキくんのお陰で食生活が改善して、働いて帰った後にアキくんにその日のご飯が何かを聞くのが好きになった。スーパーについて行って料理の話を聞いた。料理ができる人は冷蔵庫にあるものとスーパーの店内で必要なものを考えて購入していると、アキくんを見て知った。
皿並べでもなんでも、手伝えることなら手伝ったし、なにより手伝おうとしていた私をアキくんが手伝ってくれていた。あれはきっと彼の優しさだった。

レシピのルーティーンや食材によって時期はバラバラだったけど、アキくんが「美味いか」って聞く時、必ず感想を求めるのはいつだって、ハンバーグの日だった。その度に私は美味しいって答えていて、その度アキくんは満足げだった。
どうしてそのことを忘れていたんだろう。もう食べられないのに。
それとも、もう食べられないから、勝手に身体が忘れてしまっていたのだろうか。アキくんはずっと私が好きだと言ったものを覚えてくれていたのに。なんでも好きだと言う私の好物はきっと、ハンバーグだったのだ。でもアキくん、言ってくれないと気づかないよ。なんて声に出さず、心の中でひとりごちる。私は自分の好物を知ってくれていた人を喪ったのだ。アキくんに会えなくなって今更、初めて気づいた私は最低だ。

「食べたもので人の身体はできている」という言葉を聞いたことがある。ワイドショーだったろうか、誰かがテレビの中で言っていたことを思い出す。
「完全に体内の細胞が入れ替わるには数年ほどかかりますね」
それでも、僅かながら細胞は日々入れ替わっています。あの言葉が正しいのならアキくんの作ったものばかりを食べていたあの時の私はきっと、アキくんで身体ができていた。でも、その身体でいられる期間もじきに終わりを迎えて、アキくん以外で構築された私になるのだ。
目の前に置かれた、少しだけ手がつけられたハンバーグに目をやる。滲み出た肉汁が頭上のライトに反射して輝いていた。でもさっきまで美味しそうだと思っていたそれはただのハンバーグでしかなかった。私が好きなのはハンバーグじゃなくて、アキくんが作ってくれたハンバーグだったのだ。
謝る相手も感情の行き場もないまま、私はさっき手放した箸を手に取る。
ごめんなさいなんて言えないのに。謝罪の言葉を吐くための口は、誰かが作った私の昼食を取り込むために動く。アキくんが作ったもの以外を食べて、これから私は生きていくのだ。


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