(血肉と悪魔)

 「名前ちゃん、どうだった?」
 物語の終わりを告げるエンドロールが流れ始める。テレビの液晶に向けていた体をこちらに向けたマキマさんの声が、ソファーの軋む音と同時に私に届く。マキマさんは、一緒に映画を観た後はいつも私にそう尋ねる。普段なら映画館を出て、カフェまでの道を歩く間に感想や自分の意見を整えてマキマさんに話すのだけれど、今回はマキマさんがディスクを持っているからと、彼女の家で観ることになったのだ。窓口でチケットを買ってポップコーンを抱え、上映が終わって、明るくなる館内と一緒にみんなが動き始める瞬間が好きだったけど、こうしてゆったりとした雰囲気で少しのおしゃべりを挟みながら観る映画も、同じブランケットを共有するなんて些細なことも、マキマさんとなら楽しかった。隣のマキマさんにちらりと目をやる。部屋着なのか、黒いゆったりとしたワンピースに身を包んでいて、改めてなんでも似合うんだなあと感じる。。私が話し始めるのを待っている様だった。
 
 まだ考えがまとめられていない。と伝えると、マキマさんはそれでもいいと言う。いつものように真っ直ぐな瞳で私を見据えて。
「私が名前ちゃんの思ったことを聞きたいだけだから。そんなに気負わなくてもいいよ」
 一度観たことのある映画と言っていたし、ディスクを所有しているぐらいには好きなんだから、初めて観た私の感想が楽しかったりするのだろうか。私も自分の好きな映画を観た人の感想が聞きたくて誰彼構わず勧めていたこともあるから、きっとマキマさんもそんな気持ちなのだ。そう思い、私は促された通り感想を口にする。
 「終わりには納得しました。けど、始まりに納得がいきません。あんなのってない…… とても悲しい話だと思いました。たった1つのパンを盗んだだけなのに」
 主人公の男性は、家族を失いながらも残された子供達のためにとパンを盗んだ優しい人だった。時代や国を問わず、窃盗というのは、人から物を盗むことは、決して許されることではない。だが、十何年も刑務所に拘束され、過酷な肉体労働を強いられ続けることが是だとされる道理もないだろう。
 愚痴にもとれる私の感想を一通り聞いてから、マキマさんはひとつ、ゆっくりと頷く。それが肯定なのか否定なのか、私にはわからなかった。なんだか怒られる時と似た空気が部屋に満ちている気がして、目をそらす。  
 頷きに合わせて揺れた彼女の毛先を見つめていると、マキマさんが口を開いた。
「……パンはキリストの身体ともされていたからね、神様の子供を他人から奪おうとした彼へは案外、然るべき処分だったのかもしれないよ」
「く、わしいんですね」
「映画に宗教が取り上げられるのは珍しくないから」
 
 中身を飲み干したのか、テーブルに置いていたコップを持って立ち上がったマキマさんを追う様に私も立ち上がると、「大丈夫だよ」と制される。逆らって付いていけるほどの勇気もなく再びソファーに腰を下ろすと、マキマさんが消えていったキッチンからシンクにコップを置く音、食器棚と冷蔵庫を開ける音、グラスの触れ合う音が聞こえてくる。
 帰ってきたマキマさんはさっきまでと同じ様に私の隣に座り、手に持っていたワインボトルを私に見せた。
「開ける?」
「……やめときます。ソファー汚しちゃいそうなので」
「そう」
 私は気にしないけどな。と、マキマさんが何でもないことの様に言うものだからびっくりする。二時間もある映画を観ていても腰は痛くないし、こんなに座りごごちが良いんだから値段も相当な物のはずなのに、部下に汚されてもいいなんて。私には到底理解できなかった。

「ワインはキリストの血として扱われていたんだよ」
 ソファーの値段を考えていた私をよそに、マキマさんは慣れた手つきでワインボトルを開ける。ボンと、子気味良い音がした。ワインの価値もいまいちわからないが、コルク栓が抜けると葡萄だけじゃない、いくつもの果実が混ざったような香りが漂ってきたし、何よりマキマさんの家にある物だからきっと高級なんだろうと、勝手に結論づける。 
 「ワインが血でパンが体……だと、ここにパンがあったら、キリストが完成するんですか?」
 「うん、そうかもしれないね」
 「……神様の子供って結構簡単に作れちゃうんですね」
 ワインが半分ほど注がれたグラスを手渡される。受け取ると、マキマさんがもう片方の手で持っていたグラスを掲げていたので近くまで寄せるようにして掲げると、どちらからともなく「乾杯」の声が重なった。

「鳴らさないんだね」
「へ?」
「グラス。乾杯の時に合わせないんだね」
 値段のわからないワインを飲む緊張からか、味があんまりわからない。グラスに口をつけるマキマさんは綺麗だった。マキマさんぐらいの人でも、グラスにリップが付いちゃったりするのだろうか。そんなことを考えていると急にマキマさんが話しかけてきたものだから、思わず聞き返すとマキマさんはもう一度言ってくれた。
 「あ、これは前受けたマナー講座みたいなので教えられて、つい。すみません。マキマさん鳴らす派でした? 相手に合わせろって言われたんですけど…… 今私勝手に判断しちゃって」
 「私も相手に合わせてるかな。一緒だね」
 「そうなんですね、よかった。ふふ。 ……普段からワインを?」
 「うーん、家では確かにワインだね。外だと色々飲むよ」
 質問してから、飲み会の時にマキマさんがビールを飲んでいたことを思い出す。バカな質問をしてきたって思われたらどうしよう。早く今の質問がマキマさんの中から消えてくれないだろうか。そんな気持ちでそうですねと答えて、話題を変えた。
 
 「乾杯のときの音って、部屋の中の悪魔を追い払うためのものだったらしいですよ。私たちの仕事を思うとぴったりですよね」
 「へえ、この部屋に悪魔がいても今ので消えてくれたのかな」
 「はい。それに、悪魔が残っていても私とマキマさんがいるので、大丈夫です」
 マキマさんは本来、私が部屋に招かれていい人じゃない。私の理解が及ばないほど強くて、きっとマキマさんならどんな悪魔がいても勝てるのだろうと思わせられる。それほどに高みにいる存在のはずなのだ。
 「そうだね。名前ちゃんがいるから大丈夫かも」
 それなのに、マキマさんが私を信頼している様な言葉を口にするものだから、身体中の熱が顔に集まった様に熱くなる。彼女にこう言われて、喜ばない人がいるのだろうか。
 ワインのせいだと、誤魔化すことができるだろうか。
 

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