(定食塩梅)

「デンジくん、マキマさんとセックスするって本当?」

 昼食の時間とは少しずれた頃、私とデンジくんはこぢんまりとした店でラーメンを啜っていた。その店は職場である公安からほど近い距離という好立地に店を構えていながら、看板料理であるラーメンを始め炒飯やからあげといった料理の一つ一つがかなりお手頃な値段だったからデンジくんを昼食に誘って向かうのは決まってそのラーメン屋だった。
 「デンジくん」と、4課の入り口で名前を呼ぶ私の後ろを彼は時間と暇さえあればすんなりとついてきたし、その度にカウンターの隣かテーブル席の正面に座って昼食を食べて次の業務に支障がないぐらいの時間には一緒に職場まで帰った。毎回「じゃあな」と別れ際に手を振るデンジくんに軽く手を振り返して、何事もなかったような顔で自分のデスクに戻る度に「もっといい店に連れて行ってあげればよかった」と考えていたことを思い出すのだ。
同じ店に行って代わり映えのしないランチメニューを頼んで、なんでも美味しいと言って食べるデンジくんが、これが1番好きだと。そう言えるぐらいに食事の選択肢を増やす手助けがしたかったのかもしれないし、殉職率の高さからくる公安自慢の高給を貯金に費やすだけではなく、誰かに使いたかっただけかもしれない。
 
その日のデンジくんは私の前に座っていて、まだまだ慣れそうにないネクタイを緩めたがっていた。スーツのジャケットを脱いでシワになるのも気にせず、畳むこともしないまま隣の椅子に置いてラーメンに白米と餃子、漬物が一緒についてくるラーメン定食をメニューも見ず頼んでいる。
「俺ラーメンセット…… 餃子で」
「ラーメンと半ライスでお願いします。 あっ、以上で」 
相変わらずよく食べるなあと思いながら私もデンジくんに続いてラーメンの単品とからあげを頼んだ。デビルハンターは体力勝負なので炭水化物こそが正義とされているのだ。
 名前も知らない店主が厨房に戻っていく。料理が来るまで、いつもならデンジくんと話したり彼が店の本棚に揃えられているマガジンを取りに行くのを眺めていたけど、今日の私には聞かないといけないことがあった。
「デンジくんさ、マキマさんとセックスするって本当?」
 コップに入っていた氷が からん、と音を立てて崩れる。
 正直なところ、所詮噂だと高を括っている私がいる。先日聞いた話はタチの悪い噂以上の何物でもなくて、本人から「ちがう」と否定して欲しかったのかもしれない。嘘だって言われて、だよねと笑いたがっている自分がいる。

 あくまでも噂なんだが。と、前置きした先輩がデスクで2つ目のおにぎりに手を伸ばしていた私にどこか自慢げに教えてきた噂は突拍子もないものであると同時ににわかには信じがたいものだった。デンジくんが、彼の上司であるマキマさんと、性行為を、行う。おにぎりのフィルムについたテープをぺりぺり剥がしながら「本当なんですかねえ」と聞くときはなんでもないような顔をした。自分がそんな風を装えているかは先輩の判断に任せることしかできないけれど。本当はすごく驚いたし、世間話を装う先輩がわざわざ私に言ってくる理由が決して、私に対しての良心からくるものではないことは明らかだったので少し腹が立った。
 その話を聞いたのが一昨日で、それから今日までデンジくんを誘うことにためらいがあった。ただ昼食を一緒に食べているだけ。それも私の気が向いた時だけ。多くて週2、少なくて2週に1回。それ以外に交流する機会のない私がそこまで踏み込んでいいのかと悩んだし、職場で彼の後ろ姿を見つけても声を掛けられなかったのが事実だった。

 そうして今私が行った質問に対して否定する素振りも見せず、私の質問にデンジくんはテーブルに肘をつきながらただ「おう」と一言だけ返した。
「ちなみにどうしてそんな話になったのかな、マキマさんにわざわざセックスしましょう。してくださいって言ったのかな、そうだとしたらすごいよ。勇者だね」
「ちげぇ。銃の悪魔っつー奴を殺せばマキマさんがなんでもするって言ってくれたんだよ」
「それでセックスをすると?」
 おう。そう言って運ばれてきたご飯を犬みたいに食べるデンジくんだけどその夢叶わない気がする。マキマさんに弄ばれてるのだろうか。
 彼がこんなに自信満々なら約束としては確かに成立しているのかもしれない。でも、もし本当にデンジくんとマキマさんの間にその約束が結ばれていたとして、あのマキマさんが実行に移すのかは定かではない。話を聞く限り紙媒体で口約束。きっと拘束力なんてひとつもない。それをデンジくんが信じているなんて。私の口角はあとどれぐらい上げていられるだろう、信憑性のない理由だけ、どんどん増えていくばかりだ。

 そんな会話を経て、私たちは向かい合って静かにラーメンを啜っている。
手に持つ箸の先端を眺めるふりをして少しデンジくんを盗み見た。私の考えてることなにも気づいていないような顔だった。
デンジくん、知らないでしょう。銃の悪魔ってすごく強くてたくさんの人を殺して、みんなそいつが怖くて憎いんだよ。彼は私がそう思っているのも知らずに最後の漬物を口内に収める。ぽりぽりと、呑気な音が私の耳に届く。
銃の悪魔は強い。強いから恐れられていて、恐れられてるから強い。
 同僚を含めた公安の職員の大半は銃の悪魔に多かれ少なかれの憎しみを抱いているし恐れてる。デンジくんの先輩であるアキくんみたいな人たちのほうが多数派で、私はそんな中でも極めて少数派な銃の悪魔に1つも危害を加えられていない人間で。お給料に惹かれて惰性で続けてしまっているだけの人間なのだ。

 確かに悪魔の力を持ちながら人の姿をしているデンジくんは珍しい。私もこれまで見たことがなかったし、事実デンジくんは私なんかに比べたら圧倒的な強さを持っているだろう。でも、だからと言って彼が銃の悪魔に勝てるかと聞かれれば答えは”いいえ”に決まっている。きっと未来の彼は勝てず、マキマさんとセックスもできないまま、彼女の裸体を夢見たまま死んでいくのだ。そう考えると目の前でお冷の氷を噛み砕き始めたデンジくんがどうにも可哀想に見えた。
「ねえデンジくん。練習しなくっていいの?」
「なんの練習だよ」
「セックスの」
「……いるかあ?」
デンジくんが呆れたように言う。まるで私が突拍子のないことを言い出す女みたいだ。間違っていないだろう。
「だってさあ、もし銃の悪魔を倒して晴れてマキマさんとゴールインできたとして、デンジくん、マキマさんのこと満足させられる?知ってた?女の人って気持ち良くなくても気持ちいいフリができるし声も出せるの。デンジくんだけが良くてもダメで、相手を、マキマさんを良くさせないと次に繋がらないんだよ?」
 突拍子のない言葉の次は自分に都合のいい言葉ばかりが眼前に並ぶ。我ながら必死になっているようで、情けなくなる。


「あ、でもデンジくん今いくつだっけ」
ふと、気になって尋ねてみた。初対面からこれまで、年齢の話をしたことはなかったし、聞くこともなかったから。学校に行ったことはないという話しか知らなかったのだ。だからデンジくんが16歳と言うのを聞いて思わず息を飲む。
「あー、16」
「じゅうろく……? うそ、若いね。だめじゃん、私未成年となんてできないよ」
「あ!? なんでだよ! 俺に期待だけさせといて! 裏切るってのか!?」
「裏切るっていうかさ、私がギリ成人してるからだめなんだよ」
 青少年を健全に育成しないといけないんだよって言ったけどデンジくんは納得していないようだった。未成年男子と成人女性が身体的関係を持ってはいけないのは一般的倫理観からみれば当然のことだろう。じゃあマキマさんはどうなんだと考えると少しおかしくて、目の前のデンジくんの剣幕も含めて笑ってしまう。きっと私だけが気にしているのだ。
「じゃああと2年待とうよ。誕生日次第では1年半ぐらいかもしれないけどさあ、18歳になって、まだ銃の悪魔を倒せてなくって、デンジくんが童貞のままだったら、そのとき練習しよう」
「なら必要ねえな、俺にゃマキマさんだけだ」
「絶対?」
「ゼッテェ」
 そんな自信がどこから湧いてくるのかは正直わからなくて。でも、それでもいいと思った。
 デンジくんがそれまで生きていることが大前提の約束で一方的なものだけれど、この約束が果たされるか否かよりもデンジくんがきちんと18歳まで生きてくれればいい。私とデンジくん、2人が生きて、2年後にも昼食に誘える関係が続いていればいいと思ったのだ。

**

 それから数日経って、私は繁華街のど真ん中にいた。人よりもひと回り大きいかなというぐらいの悪魔をバディである先輩と処理したあとに直帰してもいいと言われたのだ。知らない場所から1人で家に帰ることになった私は先輩に別れを告げてすぐにスマホの地図アプリを立ち上げた。目的地に家の住所を入れると経路と所要時間が表示される。歩くと40分。電車だと25分だけど駅に行くまでや駅に着いてからなんやかんや時間がかかるので却下する。経路を見てみると現在地から家までの間に繁華街の名前が見えた。まだ夕食も食べれてないし、何か食べればいい。そうして繁華街まで歩いてきた訳だが人が多い。キャッチらしき男からの呼びかけをイヤホンで聞こえていないふりをしながら地図アプリの中にファストフード店の名前を探して俯きがちに歩く視界の端で煌めく繁華街の大通りは夜を知らないように明るかった。だから真っ暗な路地裏に私を引きずり込もうとする男がいることに気がつくことができなかった。
 横から伸びてきた手は私の腕を路地裏へと引っ張った。つまずいた拍子に置き看板に足をぶつけても気に留めず腕を掴む手は内へ内へと乱雑に引き込んでくる。眩しさにやっと慣れ始めていた瞳孔が急な暗闇に対応できずに揺らぐのを感じながら抵抗しようとしても、悪魔の力を使わない私はただの一般人でしかない。非力な成人女性の力は成人男性には到底及ばなくて、何度か繰り返した抵抗も虚しくビル横に備え付けられている階段の陰で馬乗りのような体勢になる。男性が腹部に乗るのだから息が苦しくなる。この状態をひっくり返したくても公安のデビルハンターが一般人に悪魔の力を使って怪我を、最悪殺してしまうなんてことがあれば問題になる。明日のニュース番組や朝刊ぐらいには載るかもしれない。空手有段者が一般人と喧嘩するのは良くないのと同じようなものだ。
「あの、やめてくださいっ……」
 声を出しても男は答えない。私の声は聞こえなかったらしく、こちらからかろうじて見える大通りの人たちは誰も路地裏を覗き込む素振りすら見せない。地面に近い私たちは歩いている彼らの視界には入らないのだろう。男の荒い息遣いだけが私の耳に届く。手帳でも見せれば我にかえってくれるかもしれないが、この状態で胸ポケットにしまっている手帳に手が伸ばせるとは思えなくて半ば諦めたような気持ちになる。男から顔を背けて地面に目をやると捨てられた空き缶やタバコの吸い殻が目に入って余計に虚しさが増した。せめて殺されそうになれば正当防衛が成り立つだろうか。
 そう考える私に乗っていた男の体重が急に消えて、慌てて身体を起こす私の前には、男の代わりにデンジくんがいた。
「……」
 空いた口が塞がらないとはこのことなのかと思い知らされる。あまりの急展開に、目にしているものに対する思考が追いつかなくて頭がフリーズしてしまいそうだ。
 デンジくんに襟ぐりを掴まれていた男が苦しげなうめき声をあげたのを聞いて はっと我に返る。
「デ、、デンジくん、その人、いいよ、もういいから、離してあげて」
「……デンジくん?」
「いいのかよォ」
 どこか不満げなデンジくんに放り出されて、どさっという音と同時に男が地面に落ちる。さっきとは違う、苦しげな呼吸を何回か荒く繰り返したあとこちらを睨んで路地裏のさらに奥へと走っていった。散々な奴だ。

「その、デンジくん、なんでここにいるのかな……」
「……今日の夜、先輩が家にいねえっつーから晩飯のこと考えてて、そしたら前のほうでお前が歩いてるの見えたから、声かけようとしたんだぜ? お前が引っ張られる前まで…… 邪魔したか?」
「いや全然…… 助かったよ、ありがとう」
「アイツどうすんだ?」
「うーん、走って行っちゃったしなあ。でも顔覚えたし、もう大丈夫だよ」
 次会ってもなんらかの対処はできるだろうし、今深追いしても時間がかかるだけだ。人を呼ぶほどのことでもないし、正直手続きのほうが面倒くさい。
「ん、」
「ありがと」
 差し出されたデンジくんの手をとって立ち上がる。服についた砂を叩いて初めて、自分の服装が乱れに乱れていることに気づいた。黒いジャケットに細かい砂は悪目立ちしているし揉み合っているうちに靴が脱げていたせいで中に履いていた靴下は汚れが目立つ。ずり上がっていたズボンの裾から見える脚には擦り傷ばかりで、所々血も滲んでいた。
「……イヤ、本当にお見苦しいところばかりで」
「ああ? 関係ねえだろ」
「いや本当に…… ごめんね、早川くんもいないんでしょ?」
 そう言う私の頭に1つの案が浮かぶ。どうだろうか、お詫びと言い張ればありかもしれない。砂で汚れたジャケットは脱げばいい。もとからこの暑い季節に着ている方がおかしかったのだ。他も多少なら気にならないだろう。
「デンジくん、今日パワーちゃんは?」
「アイツはぁ…… 血抜きだな、昼嫌がってたのを見た」
 もはや決定だろう。2年後はどうなるか決まっていなくても明日の昼食や今日の晩御飯ぐらいなら決められるし一緒に食べることができる。今はまだそれを続けていければいい。
 兎にも角にも、私の中での2人の晩御飯は決定した。なんならデンジくんも若干気づいているだろう。この流れに。
「よし、デンジくん!今日はファミレスでも行くか! ドリンクバーもつけてさあ!」
「おう! 待ってたぜ! その言葉をよォ!」

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