(春に流行する呪い)

テレビの中でアナウンサーが、東京各地で桜が開花していると言った。
寝室からその声を聞いた私はテレビを見るために少しだけ開いていたドアから裸足のままリビングに身体を滑り込ませる。先程聞いた声と同じ声で話すアナウンサーはどこかの公園を背に、数日前から続く春らしい陽気の影響でしょうと続けた。桜に関する話題はそれきりで、次のニュースに移り変わったのを見届けて私はさっき履かずにいた靴下を寝室に取りに戻る。ベッドに腰掛けて靴下を履いているとサイドテーブルに置いていた携帯の着信音が鼓膜を揺らした。画面には家入硝子の名前が浮かんでいた。彼女の方からかけてくることに珍しさを感じながら受話器を模したアイコンをタップし、耳に当てると彼女の気怠げな声が流れ込んでくる。
「もしもし、苗字? 今日高専に来る予定あるかな。頼みたいことがあるんだけど」
「あるよ。この前受けた以来の報告しに行くから、その帰りに硝子のところに寄ったらいい?」
「助かるよ」
短いやり取りを終わらせて同じところに携帯を置き、今度は靴下を履いた足でリビングに戻った。オーブンで焼いたパンひとつの質素とも言える簡単な朝食を済ませて向かった高専で報告を終わらせて硝子の元を訪ねると、硝子はいつもと異なる匂いを纏って私を部屋へと迎え入れた。
「……硝子、煙草吸ったでしょ」
私の前を歩く彼女に近づいてすん、と嗅いで確信に変わる。少し薄いが、高校時代呆れるほど嗅いだ匂いだった。ずっと禁煙を続けていたのに、そう思っていることをわざとらしく滲ませて聞くと硝子はしてやったりと言いたげな顔でこちらを振り向いた。
「吸ったよ」
向かい合って座る彼女の部屋のテーブルにこれまで無かった灰皿が置かれている。煙草の吸殻が数本あるのを見て頭を抱えたくなった。どれだけ長い間禁煙できていたとしても一気にこれだけ吸ってしまったなら意味がないと思ったからだ。そんな私を見て硝子はまた笑う。
「何か気づくことはない?」
「本当はこれ以上吸ってるって言いたいの?」
「いいや、灰皿以外で」
そう言われて座っている場所から首を回して彼女の部屋を見渡すけど前回訪れた時と何も変わってないように見えた。視線を目の前に座る硝子のほうに戻す途中でふと、灰皿の隣にあるカレンダーが視界に入った。昨日が3月の終わりだったから、今日から4月のページに変わっていて、そこまで考えてひとつのイベントを思い出した私はゆっくりと彼女の方を見た。私が何を考えているか気づいたのだろう彼女もまたこちらに視線をやる。
「エイプリルフールでしょ!」
「正解。エイプリルフールの嘘でした」
頬杖をついた彼女から少し間延びした声で述べられた答えを聞いて思わずガッツポーズをして、それから安堵からくるため息をついた。
「じゃあ硝子、このためにわざわざ煙草買って部屋でつけてたんだ。禁煙をやめたのかと思ってひやひやした」
「正真正銘このためだけに買ったんだけど。どうやら私のことを信じてもらえてないみたいだな」
「信じてるよ、でも本当になんで? 買っちゃったら決意とか揺らいじゃうでしょ。せっかく禁煙が続いてるのに」
信じてもらえてないみたい。といじけたように言う彼女がいつもより幼く見えて、それが微笑ましく思えたので笑いながら違うと否定した。周りに流されたりしない硝子がどうして今回嘘をついたのか理由が知りたくて尋ねると、彼女は少し眉を下げて困ったふうに微笑んだ。
「そうやって笑ってくれると思ったから」

恋人の五条悟が死んだのは去年の冬、だった。

人から生まれた呪いである呪霊から誰かを守るために己を削るような非日常。その中で五条悟に出会って恋をして、想いを伝えて受け入れられた。数年の月日が経ってもこれら一連の流れが、重力に沿って流れる川のように淡々と流れていくことをどこか他人事に、夢のように感じていた。他人同士が1つのコミュニティを形成することが可能な最小単位である家族の一歩手前、同棲という現実的な行為を経てもなお、彼の隣に自分が立っている光景は自分自身が描いた空想なのではないかと。心地良い夢の中に浸っているだけなのではないかと思っていた。
その生活が終わった今でさえ、あの日々は夢か錯覚だったように思えてしまう。彼が死んだことは事実として受け止められるのに、世界で1番愛していたとも言える彼との関係は無かったもののように感じる自分が薄情に思われやしないかと勘ぐりながら、それでも彼の話題を口に出すことはできないままだった。会う人はみんな私に気を使ってか彼の話を振ってくることもしなかったし事実、私もみんなの思いやりに甘えていた。
察しのいい硝子はとっくに私の考えなんて気づいていただろう。彼女なりの形のない優しさに、言葉にできない程の感謝を覚えた。

部屋に戻った私は五条が死んでから初めて、彼が使っていたクローゼットを開けてみた。最後にみたときから何ひとつ変わらない、手つかずのまま持ち主の帰りを待っている彼の持ち物を見てから棚のひとつに手をかけた。木でできた把手を引くと最近使っていなかったからか、強く引っ張っても思うように動かなかった。1番下、少しだけ見えるところから覗くと中に入っているものが引っかかって開かないのだと気づいたから自分の中で最大限の力で何度か引くと揺れた拍子に引っかかっていた物が取れたのか、これまでの頑なな様子が嘘だったようにすんなりと開いた。勢いあまって後ろへ尻餅をついてしまったが、これで目的が達成されたという嬉しさがあったから地面に腰を下ろしたまま自分の腕の中にある棚の中身に目をやると正方形の箱が収まっていた。引っかかっていただけあって少し大ぶりなその箱を開けることに私は躊躇いを覚えた。これまで一度もしたことがなかった彼の遺産整理、それに近しい行為をする勇気がなかったからだ。クローゼットに飽き足らずシェラフも開けたくせに。と自分に言い聞かせて上質な紙でできたことを窺わせる箱の蓋に手を伸ばした。勝手に開けようがどうせ誰も怒ってくれないのだから。

瓶に入った赤い液体を見て最初に、見たことのないものだと思った。呪具や呪物のようには見えなかったがそうじゃないのであれば、恋人の遺品として私の知らない物体が出てきてしまったことになってしまう。この液体の名前や、なにかヒントになるものがないかと空っぽの箱を覗くと内側と同じ白色の紙を見つけた。
”飲んで喋ると全部嘘になる”
メモ用紙のようだからと裏返してみると、書いてある文字には見覚えがあった。五条の字だ。ということはこの箱も液体も、全て彼が用意したものなのだろうか。だけど喋ったことが嘘になるような呪具はやっぱり私の記憶のなかに思い当たるものはないしいつからここに置いていたのかもわからない。わからないものが増えただけで何も変わらないじゃないかとどこかやけくそ気味に、私は瓶の中身である赤い液体を全て飲み干した。可も不可もないような味でつまらない。
気分を変えるためにテレビでも見ようとリビングに戻ってはじめて、雨が降っていることに気づいた。硝子の部屋から帰ってきたときは雨になりそうな天気ではなかったのに。洗濯物を干していなくてよかったと胸を撫で下ろす。
「雨か……」
ただの呟きだった。このまま雨が降ると折角咲いた桜が散ってしまうとか、そんな気持ちで、口から出ただけの言葉だった。それだけのはずだったのに。次に外を見たとき晴れていることに気づいて間の抜けた自分の声が聞こえて、少し遅れて私が飲んだあの液体が本物なんじゃないかという事実が後ろからやってきて私の肩をゆっくりと摩った。
五条はどうするつもりだったんだろう。言ったことと真逆になる薬らしきもの。タチの悪い冗談にさえ思えるこの道具はまさしく、今日のために生まれたもののようだった。嘘をつくエイプリルフールに嘘が本当になる。もしかして彼はこれを催しやサプライズのひとつとして使うつもりだったのだろうか。私に出どころもわからない液体を飲ませようとする彼の姿が有り有りと目に浮かんだ。いつから用意していたかもわからない彼のことを思って口角が上がったけどすぐに虚しくなる。
「五条が死んでちゃ意味ないじゃん」
ひとりで使わせて自分は死んで、薄情だ。

そう思っていたから玄関で誰かがドアノブを回していると気づいた時頭に浮かんだのはひとつだけだった。いつもなら嫌だと思う強盗や不審者の訪問だと思えなくて、恐ろしさで血の気が引いていくのが自分でもわかっているのにどこか期待している自分が嫌だった。玄関に立ってもドアスコープを覗けない。覗いて彼が見えたら?見えたとしてどうしたらいいのかわからない。もう五条は死んでいる。死んでいるなら私の目の前に現れる彼は呪いだろう。それはいくら彼の形をかたどっていたとしても彼ではない。それでも、それなのにドアの向こうから聞こえた彼の声の前に私は無力だった。
「名前? 開けてよ」
ドアを開けて自分の目に五条が写っていることに気づいた私は迷わずにその手をとって部屋の内へ引き入れた。握った手は変わらないままで少し暖かくて、それだけのことで涙が出そうになる。ドアの閉まる音が控えめに鳴った。五条は私の気も知らないで目の前で手を振って呑気に「元気?」なんて言ってくる。
「私が、”五条は死んでる”なんて言ったから? だから帰ってきちゃったの?」
「うーんそうかも。というか名前あれ飲んだんだ、美味しかった?」
「知らない、味なんて覚えてない」
私は五条のことでいっぱいなのに、余裕ぶってにやにやと笑う五条が嫌だ。死んでいるのに、恋人の五条悟は死んでいると認めないといけないのに、握ったままの手から彼の温もりが伝わってくることがどうしようもなく嬉しくて、泣いてしまった私の顔を五条が拭う。
「嫌い、五条なんて大嫌い。置いていったくせに、嫌い、嫌い……」
これまで嫌いなんて言ったことがなかった。未来が不安定な呪術師だから、不透明な明日になにがあるかわからないから。次の日まで続くような喧嘩に発展させないために、私も五条も口だけとはいえ嫌いと言ったことがなかった。それなのに五条は涙を零したままな私の髪を梳きながら眉を下げて困ったように笑っている。さっき硝子のしていた顔と同じだと思った。いつもしていたみたいに口を大きく開けて笑ってくれないんだと気づいてそれまでの嬉しさが一気に悲しさになって私の上に重くのし掛かる。
「ねえ、私、五条のこと嫌いだよ。側にいたくないって、思ってるから。五条もそうだって、言って」
「無理だよ」
「なんで? 五条だって嫌いでしょ。勝手にクローゼット開けて棚だって壊したかもしれない、のに」
「……名前ってさあ、本当に馬鹿だよ。俺がお前のこと嫌いだって思ったことなんてないし、これからだってない」
「でも、」
子供のようにごねる私の言葉を五条は遮った。
「あのさあ、エイプリルフールとか知らない。俺はお前にちゃんと好きだって言われたいよ。名前は? 俺のこと好き?」
五条はずるい。いつだって私のことは全部知ってるとでも言いたげな顔をしていて、私が彼を好きなことを、最後に一度でいいから好きだと、そう言いたかったことを知っているのだ。知っているから彼はとびっきり優しい声で私の求めていた言葉を口にするのだ。死者の掌の上で転がされているなんて笑い話もいいところなわけで。
「……好きだよ。五条のこと、本当に好き」
「うん、俺も好きだよ。お前のこと」
それが彼なりの別れの言葉だったのかもしれない。玄関のドアが見えるようになってはじめて、五条が本当に私の前から消えたのだと気付かされる。さっき降っていた雨のせいで少しさがった気温のせいで私の手からはどんどん五条の温もりは消えていく。壁に沿うように地面に座り込んでもう一度泣いた。今度はもう私の涙を拭ってくれる人はいなかった。私に害を与えなかったのだからあれは呪霊の類ではなかった。職業病のようにそう考える自分がなんだかおかしくて自嘲気味な笑いが口から漏れた。呪霊じゃなかったかもしれない。五条にとっては残した私に対してせめてもの謝罪だったかもしれないし私が見た都合の良い夢だったのかもしれない。
けれどこの記憶はきっと、春が来るたびに私を苦しめる呪いになるのだ。


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