(ノンアルコール)

「本当に私のこと好きなのかなあ」と友達に溢したことがある。まだ彼の家を自由に出入りできた頃、3コールで彼からの電話に出ればよかった頃の話だ。

深夜、私はモモチの部屋の前にいた。もう終電もない時間だったから引き返すこともできず、渡されていた合鍵を差し込んで扉を開けても中は冷たくがらんとしていて、部屋の主であるモモチは帰ってきていなかった。ひとりきりの部屋にライトをつける音がぱちんと響くと暗闇が目を覚ましたように明るくなったので瞳の奥がちかちかした。ヒールを脱いで部屋の中心にあるソファに向かい、身体を預けると疲れ切っていたものだからかどんどんと重力に従って私の身体は沈んでいく。
きっと飲みに行っているのだろう。こういう日のモモチは大体日付が変わっても帰ってこなくて、私はいつもひとりでベッドに潜り込む。そうしてモモチの使う香水と煙草の匂いに満たされた空間に無理やり私という異物を混ぜ込んで、隣に人ひとり入るほどのスペースをあけて眠るのだ。
お酒が入っていることもあっていつもなら眠くなってしまうはずなのになんとなく、モモチが帰ってくるまで起きていたくて重たい身体を無理やり起こしてキッチンの蛇口をひねって眠気覚ましに水を飲んだ。そのままシャワーに入って髪を乾かして待っていると數十分経ったころだろうか、ドアに鍵が差し込まれる音がして、ガチャという音と一緒にモモチが部屋に入ってきた。横になった体勢から背中を伸ばして座り直し、彼の方に顔を向けて「おかえり」と言って、そのまま見つめていると彼の紫色の瞳と目があった。「ただいま」と少し掠れた声で言う彼を見てみても顔は赤くも青くもなくて、一体どれだけお酒を飲んだのかも私には判断できなかった。いつものバーで飲んできたのか私の知らない店で飲んできたのか。そもそも私の知っている店なんて片手で数えられるほどしかなくて、私がこの部屋とステージ以外で生きる彼のことを知らないんだと思い知らされる。
靴を脱いだモモチは何も言わずこちらに一直線にやってきて、ソファーに座る私を立ったまま見下ろした。そして一度だけ思考を切り替えるようにゆっくりと瞬きをして「寝てなかったの」と呟いた。
ポケットから出した鍵と煙草を目の前のテーブルに置いてシャワーに向かうモモチを見送って、私は今日のことを思い出していた。

友達を居酒屋に呼び出したのはモモチのことを相談したいからだった。
大勢のファンを抱えるヴェロニカ、その花形であるモモチと付き合ってるとは流石に言えなくて色々とぼかしたけれど、相談した内容は「本当に私のことが好きか」結局この一言でまとめられるものだった。まだ恋に浮き足立つ中学生が抱えるようななんともありふれた幼い悩みで、それでも私にとっては大きすぎる悩みだった。誰かに言いたくて、縋りたくて、アドバイスが欲しくて、何度も迷った末に友達に声をかけた。彼が絶対に寄り付かないような隣の座席とのプライバシーも確保されない大衆居酒屋でビール片手に私の話にひたすら耳を傾け続けた彼女の回答はなんともあっさりとしたもので、「直接聞けばいいじゃん」というものだった。それはあまりにもあっけらかんと、なんともないような事だと言わんばかりのもので「無理だよ」と、私が言った消え入りそうな小さい弱音は周りから聞こえる無数の笑い声にかき消された。手持ち無沙汰になってジョッキの周りを覆う水滴を指でなぞるだけの私を見つめる彼女が慣れたように彼女の方に寄せられた灰皿に灰を落とすのを見て、その手つきがどこかモモチと重なった。灰皿には2本の煙草がバツ印になるように積まれていて、最初のドリンクを注文する前に彼女が火をつけた煙草は気づいたら3本目になっていた。
「そんなことできたら苦労しないよ絶対に怒られる」
「怒られるぐらいなら別れたらいいと思うんだけどなー、今日彼氏は?」
「……飲んでるんだと思う。連絡きてないし」
そのあとは終電を逃せない彼女のこともあって、早めに会計を済ませて駅まで送るために外に出た。コートに身を包む私たちの頬を冷たい風が撫でていった。私たちのあとに会計をしたスーツ姿の団体も駅に向かうようで後ろからがやがやと声が聞こえてきて、彼女の吐く煙が後ろにいって文句を言われやしないかと少し気にかけたけれどそれは杞憂で、最後まで誰かに邪魔されることもなく私は彼女と駅で別れたのだ。

シャワーから出てきたモモチと一緒にやってきた匂いが私の鼻腔をくすぐった。当然の事ながら酒の匂いも煙草の匂いもしなくていよいよこれでモモチが本当に飲んできたのかどうかわからなくなった。彼から匂うのは私とは別の匂いで、それは彼が私の持ち込んだ女物のシャンプーやボディソープの匂いを自分が纏うのを嫌がったからだった。いつまでも他人行儀に並ぶ男物のボトルと女物のボトルのことを思い出しながら彼の側に近寄ると彼は私の腰に右腕をまわして抱き寄せる。
「どうしたの」と聞いても「別に」と言うだけで何も言わなくて、密着した部分から彼の体温を感じながら、もしかして今日は機嫌がいいのだろうかと考える。思えばこういう時は先に寝てしまうことが多くて外で酒を飲んできたモモチがどんな風に振る舞うのかを知らなかったのだ。普段より機嫌がいいのか悪いのか、私が知っているのは二日酔いの日の朝にモモチの機嫌がひどく悪くなって、なかなか家を出ようとしないことだけだった。
「今日ってお酒飲んできたの?」
「さあね、なに、気になるの?」
その声があまりにも優しくて拍子抜けしてしまう。そんな私の気持ちも知らないでモモチは「飲んできたよ」と続けた。

「寝ないの?」
「なんで寝るの。アンタが起きてるのに」
それとも、一緒にベッドに行きたいの?と、モモチは嬉しそうな声を出す。飲むと機嫌が良くなるのだろうか。こんな声をきいたことすら久しぶりなんじゃないかと思わされるほどで、その声を聞ける理由がお酒だということに少しの虚しさを感じながら私は「私が寝るって言ったらモモチも寝るの?」
と訊ねる。
「そんなこといちいち考えてないに決まってるでしょ」
そう言いながらもあくびをするモモチがどうにも眠そうに見えて、釣られるようにあくびをした私は彼の胸に顔を寄せる。許してくれるだろうかと考えているともう片方の手を彼は私の頭に置いた。そのまま撫でられるのが心地よくて、浮ついたような気持ちになる。機嫌のいい今なら聞いても許してくれるだろうか。「モモチ」と呼びかけると、私を撫でる手を止めないままモモチは「なあに」と答えた。
「……本当に私のこと好きでいてくれてる?」
自分の体温がどんどんと下がっていくのを感じながら、私は神にでも祈りたい気分だった。モモチが手の動きを止めることに良くない未来を想像せざるを得なかったからだ。愛を確かめるのにこんなに緊張することがあるなんて。この後に返ってくる返事を予想することは私には出来なかった。愛されているかわからないのに聞くことで、彼の機嫌を損ねてしまわないだろうか。そもそも彼の愛を疑うこと自体、彼からの信頼を失うことだと知ってなお不安がる私をモモチはどう思うのだろうか。また突き放されて、この寒空の下を歩いて家に帰る自分を想像した。祈れるのはモモチしかいなかった。
だから、モモチが「馬鹿なこと聞かないで。どうとも思ってない女を側に置くほど俺は優しくないんだから」と言ったとき、許されたと思った。今日は許してもらえた。明日には許してもらえないかもしれないけれど、彼女に背中を押された今日、モモチがお酒を飲んで帰ってきてくれて本当によかったと、心の底から思った。安堵から彼の胸にもたれかかる私を彼は拒まなくて、それだけで幸せな気分になる自分をどこか馬鹿にする私を、私は見ないふりをした。こんなに幸せで、報われている今を噛みしめずに真っ暗で手探りのまま進まないといけない先のことを考えるほうがよっぽど馬鹿げていると思ったからだ。

ゆったりとしたペースで脈打つ彼の心音をスウェット越しに聴きながら、私は居酒屋を出た後のことを思い出していた。
駅までのほんの数分しかない短い道の間でも彼女は「ちゃんと本人に聞きな」と何度も繰り返していた。警告とも忠告ともとれる、まだ逃げられると告げるようなその言葉に私はうんともすんとも取れないような曖昧な返事を何度も繰り返して、そんな私に何を言っても無駄だと思ったのか、それとも私に嫌気が差したのか。だんだんと口数が減っていくなかで一定の間隔をあけて並ぶライトに照らされて夜道を歩く彼女の煙草の火がゆっくりと彼女の指に近づいて、最後には消えた。そうして1本吸い終わってゴミ箱を探す彼女に持ち歩いてる灰皿を差し出すと彼女は少し驚いたような顔で「慣れてるんだ」と言ってその灰皿に吸い殻を入れると中に溜まっている灰が綺麗に彩られた彼女の爪について、それらは無数の塵として宙に舞って夜に溶けた。それっきり彼女は何も言わず、最後に改札口で「ばいばい」とだけ口にしてホームへ続く階段を登って消えていったのだ。
その後、私はベッドの中で目覚めた。瞼の重みに逆らえなくなった私を見かねてモモチが運んでくれたのだろうか。一体どんな顔で、と今となっては聞くこともできない疑問の答えを、私に背を向けて眠るモモチを見つめながら考える。
そうだ、結局あの時も、モモチは私のことを好きじゃないと言わない代わりに好きだとも言わなかった。あの日、モモチがとびっきり優しかったあの夜に、彼の口から好きだという言葉を聞いておけばよかったと、深夜に目覚めてしまった私に後悔ばかりが重くのしかかってくる。だんだん体が冷えてきて、温もりを感じたくて隣で眠る、もう私を愛さないと言った彼の背中にすり寄ってみても、眠っている彼は身じろぎひとつしない。当たり前なのにそれがどうにも悲しくて、「本当に私のこと好きでいてくれてるの?」と、あの日聞いたことをもう一度、小さく口に出してみる。今の私が彼に聞いても、決して同じ答えは返ってこないとわかりきっているのに、馬鹿な私は彼に、また同じように答えてほしいと思ってしまう。同じように答えて抱きしめて、体温を共有してほしいとさえ願ってしまう。
そんな自分の傲慢さに呆れながら、私はもう一度眠りにつくために瞼を閉じた。

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