積乱雲の下で 3

卒業式の朝。ガーベラを各クラスの担任に渡すため早めに登校すると、申し訳なさそうな顔をした顧問が昇降口で私を待っていた。要約すると、いくつか駄目にしてしまい、あと一輪だけ足りなくなってしまったそうだ。
数には余裕を持たせて育てていたけれど、こんな不運なこともあるんだな、と自分の分はいらないと申し出る。何度も謝る顧問を慰めながら、職員室でガーベラを配り終えると、教室へ向かう。思い出がたくさん詰まったこの校舎で過ごすのも、今日で最後だ。
式と担任からの挨拶も終わり、今は廊下に出て他のクラスの友達と写真を撮っている。地方の大学に行く友達には夏休みになったら会おうと約束し、いつまでも泣き止まない彼女を笑っている時だった。教室から、空条君が出てきた。
ぱちり、と目が合う。機会があれば最後に一言だけでもいいから喋りたい。そう思っていたのに言葉が何も出てこない。ふと、彼の視線が私の制服の胸ポケットに降りてくる。

「…花は」
「足りなくなっちゃって。私の分は無いんだ」

向こうの大学でも頑張ってねとか、それくらい気の利いたことすら浮かんでこない自分のポンコツさに嫌気がさす。彼への気持ちに気付いても積極的なんかになれるわけはなく、むしろ前より酷くなっている。
廊下が一際騒がしくなり、彼の姿を見付けた女の子達が制服のボタンが欲しいと喚きながらこちらへ向かってくるのが見えた。
鬱陶しそうな顔をして「やれやれだぜ」と呟いた空条君を、相変わらず凄い人気だなと苦笑した。
彼に名前を呼ばれ、顔を上げる。空条君は自分の制服の胸ポケットからガーベラをすっと抜き取ると、私の制服の同じ場所に差した。

「元気でな」

まわりからは悲鳴に近い黄色い声と、囃し立てるようなどよめきが聞こえてくる。空条君を探していた女の子達は、今はもう昇降口へと向かっている彼を追いかけるか、私を問い詰めるかどうかで右往左往しているようだ。
友達に引っ張られ、無事に無傷で自分のクラスに戻ることができたけど「空条君と仲良かったの?」という言葉には「分かんない」と答えるので精一杯だった。

履修登録も問題なく済まし、それなりに友達を作ることもできて、私の大学生活は今のところ順調に進んでいる。サークルには入らず、高校の頃からバイトをしている駅構内にある本屋のシフトを増やした。
自分で言うのも何だけど、面白味のない平凡で退屈な生活だ。高校の時だって、自販機の前で空条君と出会わなければ、私はあんなに心が浮いたり沈んだりする生活を送ることはなかった。
6月のある日。海洋雑誌のバックナンバーの在庫を探して欲しいと系列店から電話があり、取り置きを頼まれた。早番の店長からメモを預かったけど、解読不能なくらい字が汚くてお客様の名前は分からない。でもまぁ、雑誌名を言われたら分かるだろうと特に気にすることも無く閉店作業に取りかかる。

「取り置きを頼んだんだが」
「かしこまりました。雑誌名とお名前を…」

閉店時間の15分前。背後にそんなやり取りを聞きながら、パソコンで系列店からのメールに返信をしている時だった。何気なく振り返り見た、レジの前に立つ人物は日本にいるはずないのに、そこに今、いる。

「空条君…?」

私の声に顔を上げた彼は、自分と同じで少し驚いた顔をした。変な気を利かせた副店長は「こっちお願い」と言い、私をレジの前に立たせる。

「…あ、えっと。商品、こちらでお間違いないでしょうか」
「ああ」
「では…お会計、1980円です」

カルトンに置かれた二枚の千円札を数え、お釣りとレシートを渡す。どうしよう。もう二度と彼には会えないと思っていたのに、こんなにも早く再会できた。『棘皮動物学の最前線特集』と表紙に書かれた雑誌を、いつもより丁寧にショッパーに入れていると聞こえてきた「久しぶりだな」という彼の声に、嬉しさで口元が歪む。それを必死に隠すために、下唇をぐっと噛んだ。

「もうアメリカに行ってると思ってた…」
「向こうの新学期は九月だからな」
「そう、なんだ」

その日の私は、いつもの三倍くらいの速度で閉店業務を行った。副店長にはそんなに急いでどうしたのと聞かれたが、答えてる場合じゃない。空条君の「この後時間あるか」という問いに頷くと、向かいのカフェで待ってると言われたからだ。
いつになく必死な私に副店長はにやにやしながらも協力的で、レジ閉めはやっておくねと店から私を追い出す。お礼を言って、従業員更衣室へと急ぐ。結び癖がついた髪を何度も手櫛で梳いて、少し滲んだアイラインを丁寧に引き直す。何をこんなに必死になっているのか自分でも分からないけれど。とにかく、満足いくまで身だしなみを整え続けた。
カフェのレジでアイスコーヒーを注文し、カウンターで受け取ってから店内を見渡す。喫煙席の一番奥に空条君の姿を見つけて、ゆっくりと近付いていく。私の存在に気付いた彼に待たせてごめんねと声をかければ「突然悪かったな」と吸いかけの煙草を灰皿に押し付けている。

「あそこでバイトしてたのか」
「うん。高校生の頃から、ずっと続けてて」

制服以外の空条君を見るのは今日が初めてだった。帽子もかぶっていなくて、髪を切ったのだろうか。以前よりも少し短くなった気がする。やっぱり格好いい人だな、と改めて思う。ガラスの向こう、コンコースを歩く女性達は明らかに彼を見ている。それらを視界に入れないようにして「日本にはいつまでいるの」と思い切って聞いてみた。

「盆過ぎまではいる予定だ」
「そっか。なんか色々、準備とか大変そうだね」
「ある程度は済ませた。ジジィがうるせぇんでな」
「え? じじい?」

そこからは驚きの連続だ。えっと、まず空条君のおじいさんはイギリス人で、おばあさんがイタリア人。アメリカに帰化しているからお母さんはアメリカ人で、お父さんは日本人だから…彼が教えてくれた家族構成を一つひとつ復唱してみたけど、だめだ。混乱してきた。頭から煙が出かかっている私を見て、彼は笑っている。

「……分かった。イギリスとイタリアのクォーターだ」
「正解」

彼の知らない部分を知れた喜びもあるけれど、私は空条君のことを何も知らなかったんだなと少しだけ寂しくなった。彼のおじいさんは自分の住む国に孫が越してくるということで、楽しみすぎて何かと世話を焼きたがっているのが、彼の話す内容から感じ取れる。
素敵なご家族だね、と呟けば「お前のじいさんの方が最高だろ」と空条君は言う。彼に私のおじいちゃんの話をしたことがあっただろうか。あぁ、相撲の話になった時、少しだけ話した気がする。よくそんなことを覚えていてくれたなぁと、彼の記憶力の良さに驚く。

「今も相撲好きなんだね」
「今年の名古屋場所はアツくなるぜ」
「それ、おじいちゃんも言ってた」
「ほらな。お前のじいさんとは話が合いそうだ」

それから私達はカフェが閉店の時間を迎えるまで、いろんなことを話した。空条君はニューヨークの大学で生物化学を学んだ後、海洋生物学を専攻するため他の州にある大学院に進みたいそうだ。将来のビジョンが明確にあって羨ましく思う。
私はただ何となく大学生になって、社会に出ても役に立たなさそうなことをこれからも学び、バイトに精を出し、適当に選んだ会社に就職する未来しか描けない。
そもそも最初から、彼とは住む世界が違うんだし。今更落ち込んだところでどうにもならない。心の中でそう自分に言い聞かせて、帰り支度をして彼と共に席を立った。
コンコースに出ると家まで送ると申し出てくれた彼に、お母さんが迎えに来るからと告げて鞄から携帯電話を取り出す。これでもう、本当に彼に会うのは最後なのに。私は未だに彼に連絡先を聞くことができないでいる。
迎えのお願いをする文章を打つ間もずっと、空条君は一緒にいてくれた。電車の時間は大丈夫かと聞けば「お前がちゃんと帰れるかどうかの方が大事だ」と、さらっとびっくりするようなことを言う。
聞くなら、お母さんの車が駅のロータリーに到着するまでの今しかない。ぐっと鞄のショルダーストラップを握り、彼を見上げてみる。

「また…会えるかな」
「…どうだろうな。今日みたいなことはそうそう起こらねえ」

聞いてすぐ、死ぬほど後悔した。さっきまで楽しく会話していたからって、調子に乗りすぎた。
恥ずかしいのか悲しいのか、よく分からないけれど一刻も早くこの場を立ち去りたい。車が来たと適当なことを言って彼に挨拶をして帰ろうと、その場から一歩前へ出る。すると、空条君に右腕を掴まれたので、驚きのあまりその場で硬直してしまう。

「連絡先知らねえと、会えないだろ」

彼の左手には携帯電話が握られており、私は自分の人生の運すべてを今日で使ってしまったんだと、そう思った。

大学生になって最初の夏休みが来た。地方大学に行った高校の友達がうちに泊まりに来るのと、大学の友達との旅行以外、特に予定は無い。バイトに明け暮れ、時々おじいちゃんに付き合って相撲中継を見たり。代わり映えのない毎日を過ごしている。
空条君とは二回、メッセージのやり取りをした。一度目は連絡先を交換した日で、二度目は名古屋場所が千秋楽の日。どちらも夏休み前のことだ。
朝ごはんを食べながら見ていた情報番組で、レジャー特集が始まった。遊園地やテーマパーク、動物園などが次々と紹介されていく。まだ眠たくて覚醒していない頭には、その情報のほとんどは入ってこない。
トーストを齧り、アイスティーを飲みながらぼんやりと見たテレビ画面には、シャチが水槽の中をすいすいと泳ぐ映像が流れている。
ふと、空条君が取り置きした海洋雑誌のことを思い出した。海洋学について学びたいと言っていたし、彼は海の生き物が好きなのだろうか。
『ここで視聴者プレゼントのお知らせです。閉館後の水族館に入れる特別企画に、10組20名様をご招待します!』
アナウンサーが明るく元気に紹介する企画内容に、耳を傾ける。閉館後の水族館に入れる機会なんてそんなにないだろうから、彼も興味があるかもしれない。どうせ当たるわけないし、と画面下に表示されているURLにアクセスし、必要事項を入力すると応募が完了した。
それから幾日も過ぎ、水族館のことなんてすっかり忘れていた。今日のバイトは早番だったので夕方に帰宅すると、お母さんから手紙が来ていると一枚の封筒を渡される。テレビ局名が印字されており、そこで漸く思い出した。

「うそ…当たった……」



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