積乱雲の下で 1

なんというか、私と空条君には同級生と呼ぶには他人行儀で、友達と呼ぶには図々しいような、よく分からない距離感がいつまでもあった。
最初の出会いというのを、しっかりとは覚えていない。ただ、あの出来事がなければ、私は卒業するまで空条君とは一言も会話をすることはなかったと思う。それくらい、彼は私の対極にいる人だった。
同じ時代に生まれて、同じ国で育って、同じ学校で学んだ。私と空条君を結びつけるものなんて、そんな事柄しかない。

これは、私と彼がさよならをするまでの話だ。

高二の夏。校内にある自動販売機の前から、私は一歩も動くことができなくなっていた。少し先の渡り廊下で、女子生徒が男子生徒に告白しているところを目撃してしまったからだ。 彼らがいる先の旧校舎に用事があるのに。さすがにそこを通って行くわけにもいかず、手に持つ缶のストレートティーがぬるくなるくらいの時間ずっと、ここでただ間抜けに突っ立っている。

「買わねえのか」

突如背中にぶつかってきた声に振り返ると、空条君が三歩程離れた場所から此方を見ていた。そこで漸く、自販機を利用したい人の邪魔になっていることに気付いた。

「ぁ、ごめん。どうぞ」

す、と横に移動した私を気にする様子もなく、自動販売機に硬貨を投入してボタンを押す。がこんと音を立てて落ちてきた缶を取り出した彼はこの場を去り、よりによって渡り廊下の方へと歩いていく。そして二人の横を突っ切り、旧校舎へと消えていった。
背の高さや端正な顔立ち、所謂不良学生というものに属する彼を、この学校で知らない人はいない。だから私が一方的に彼を知っているだけ。この頃は、そう思っていた。
数々の突然の出来事に疲れてしまい、旧校舎へ向かうのはやめて、鞄を取りに教室へと戻ることにしようと、元来た道を歩き出す。何となく見上げた空の青さと入道雲のコントラストに、少しだけ目眩がした。

あの日から数ヶ月経ち、制服はそろそろ長袖に切り替わろうとしている。下校時間をとうに過ぎた今、私はまたしても一歩も動けずにいた。前回と違うのは場所が昇降口なのと、気まずい告白現場には遭遇していない。突然の大雨に、傘を持っておらず途方に暮れているだけだ。
ふと、後ろの下駄箱から足音がする。私以外にも居残っていた生徒がいたようだ。同じクラスの子だったら駅まで傘に入れて欲しい…そう思って振り返った。

「ぁ……」

そんなに大きな声を出してはいない。だけど、私の存在に気付いた空条君と目が合ってしまった。慌てて姿勢を元に戻し、雨によってぬかるんでいく運動場へと視線を向ける。
徐々に近づいてくる足音に、鞄の持ち手を握る手に力が入っていく。視界の左端に映った空条君は足を止めると、私と同じように運動場を見つめているようだった。彼も傘を持っていないのだろうか。この場から動く気配はない。
そうして、どれくらいの時間が経ったんだろう。突然、空条君が声を発した。

「あれ、お前の男だったんだな」

今、この場にいるのは私しかいないから、独り言じゃなければ私に向けた言葉で間違いないと思う。直ぐに、あの日のことを言っているんだと気付いた。空条君と私の彼氏は、同じクラスだったから。

「うん。今はもう、元カレだけど」

あの日、自販機の影に隠れて見たのは、自分の彼氏が女の子に告白されている現場だった。今、二人は付き合っているらしい。私はその翌日に彼氏に振られたので、まぁそういうことだろう。

「…そうか」

あまり抑揚のない声でそう呟くと、それ以上空条君が喋ることはなかった。降り続ける雨の音に耳を傾ける。不思議とこの沈黙は嫌ではなかった。
少しだけ小降りになってきたので、これくらいなら走って駅まで行けるだろうと一歩前に出る。よし、行くぞと更に一歩踏み出そうとした時、彼の手がそれを制した。
どういうことか分からないでいると、彼は左脇に挟んでいた何も入ってなさそうな薄い学生鞄から、折り畳み傘を取り出している。

「返さなくていい」

私に手渡すと、空条君は行ってしまった。何か言葉を発する隙も与えてくれなかった彼の背中を見つめ、それから手元に視線を落とす。なんだかとんでもないことになってしまったかもしれない。
自分が濡れることも構わず、どうして私に渡したんだろう。そして、傘を持っていたのにどうして雨宿りをしていたんだろう。分からないことだらけだ。
雨は翌日まで続いた。例年よりも長く秋雨前線が停滞しているらしい。翌々日には晴れたので、空条君の折り畳み傘を乾かし、丁寧に畳むところまでは順調に行えた。問題はこの後だ。彼は返さなくていいと言ったけど、そういう訳にもいかない。彼の私物を持っているなんて、恐れ多すぎる。
いつもの登校時間より早く学校に行って、昇降口に誰もいないか何度も確認してから下駄箱の前で彼の名前を探す。最上段に『空条承太郎』を見つけ、もう一度まわりを確認してからそっと傘を置いた。
別に悪いことはしていないけど、逃げるようにその場から立ち去ってしまい、廊下ですれ違った教師に走るなと注意を受けた。

時は過ぎ、防寒具が手放せないほどの寒さが続く冬が到来した、ある日のことだった。私はこの日も旧校舎へ向かっている。手にはじょうろとゴム手袋、それからゴミ袋を持って屋上へ続く階段を上っていく。
制服の胸ポケットから鍵を出し、開錠しようとするといつもと様子が違うことに気付いた。鍵が、開いている。
生徒で旧校舎屋上の鍵を持っているのは私だけのはずなので、きっと顧問が覗きに来たのだろう。そう思いドアノブを回すと、思いがけない人物がそこにいた。空条君だ。

「…ごめん、出直すね」
「いや、いい。気にするな」

ドアを閉めようとした私に、彼はそう声をかけた。帰ろうか迷ったけど、蝶番がぎいいと嫌な音を立ててドアが閉まるのを背中に聞きながら、ゆっくりと一歩踏み出す。空条君は欄干にもたれかかって、煙草を吸っていた。
彼の前を通り過ぎ、屋上の一角、日当たりのいい場所に並ぶプランターの前にしゃがみ、ゴム手袋を装着する。
卒業式の日、卒業生の胸元を飾る花は代々園芸部が用意していた。今からその二百近い数のガーベラを手入れするためにここへ来た訳だけど、彼に会うのは初めてだった。

「それ、お前が育ててたんだな」
「え? あ、うん。園芸部、なので」

空条君に声をかけられたのは、これで三回目だ。私の返しは毎回微妙で、会話はすぐに終わってしまう。プランターから顔を上げ、彼の方を見てみる。口に煙草を咥えたまま立ち上がると、驚いたことに此方へ向かってくるではないか。
元々背が高い空条君だけど、しゃがんだ状態で見上げると物凄い迫力がある。この顔は、怒っている表情なのだろうか。一人で寛いでいた所を邪魔してしまったのはやっぱりよくなかった。謝ろうと口を「ご」の形に動かすと、発音する前に彼の声が聞こえた。

「なんて名前の花だ」
「…えっと、ガーベラっていうの。ほかの花より、ちょっと大事に育てていて」
「どうしてだ」
「ぁ…えっ、と…毎年、卒業生の胸ポケットに差してるやつなの。もうすぐ卒業式だから、その…ごめん、よかったらこの話内緒にしてくれると助かる…」

中庭にある花壇ではなく、旧校舎の屋上で育てているのは園芸部以外の生徒に見つからないようにするためだけど、早速バレている。今まで誰にも話したことないのに、私は一体何をやっているんだろう。
漸くまともに受け答えできたと思ったら、余計なことまで喋ってしまっている。というか空条君、どうやってここに入ったんだろう。

「分かった」

靴裏の踵で煙草の火を消すと、空条君は「邪魔したな」とドアの方へ歩き出していく。その背中に「ありがとう」と声をかけると、彼は一度だけ振り向いてからドアを開けて行ってしまった。
傘のお礼をするのを忘れていたことに気付いたのは、ばくばく鳴る心臓の騒がしさが収まった頃だった。
それがきっかけだったと思う。時々、空条君と旧校舎の屋上で喋るようになったのは。

私が旧校舎の屋上に花の世話をしに行くのは、決まって水曜日の放課後だった。空条君は、以前は新校舎の屋上で授業をサボったり煙草を吸いに行ってたけど、ある日からそこに女子生徒が押しかけるようになって、なんか色々と面倒でやかましいからここに来始めたらしい。どうやって鍵を入手したかは秘密だ、とのこと。
空条君はいたりいなかったりで、会うのは月に一回か二回くらいだと思う。卒業式が無事に終わり、新学期が始まり私達が三年生になる頃には、少しはマシに会話ができるようになっていた。

「水戸泉は…あぁ、あの塩めっちゃ撒く人だよね」
「…分かるのか」
「そんなに詳しくはないけど…子どもの頃から、うちのテレビの主導権はおじいちゃんだから」

空条君について、少しだけ分かったことがある。彼はなかなか渋い趣味を持っていて、そのことについて話す時は少しだけ嬉しそうな声色になるみたいだ。
園芸部は私と幽霊部員があと二人いるだけなので、顧問は私が何をしていても特に興味を示さない。今はここで花を育てる目的はないけれど、中庭より静かに作業できるし、時々空条君と話すのは楽しかったから、引き続き旧校舎で花を育てたいと申し出たら疑うことなく了承してくれた。
植え替えが終わり、ゴム手袋を外してプランターを持ち上げる。今日の本当の予定は、ネモフィラのプランターを中庭に移動させることだ。

「じゃあ、行くね」
「待ちな」

ドアの方へ歩き始めると、欄干にもたれて腕を組んでいた空条君が此方へ向かってくる。鞄を足元に置くと、私の手からプランターを奪ってしまった。私がぽかん、としていると彼は「中庭に運んだらいいのか」と足でドアを開けている。まずい。

「そうだけど、あの…重いから、それ」
「俺は重いとは思わない」
「そうじゃなくて、えっと…空条君に運んでもらうの、悪い、から」
「帰るついでだからいい」

俺の鞄頼んだぜ、と空条君は階段を降りていってしまう。いつかこんな日が来るだろうと、気にかけてきたことが今、起ころうとしている。
制服の上から羽織っていたジャージでごしごし手を拭いて、空条君の鞄を持ち急いで施錠して彼を追いかけた。
親切にしてくれた嬉しさより、空条君と一緒にいるところを誰かに見られるのが嫌だという気持ちの方が大きい。
彼と私は、住む世界が違うから。私みたいな人間が、彼に近づいてはいけないから。彼が許しても、学校中の女子生徒は許してくれない。
私は、これからも誰にも目を付けられず卒業するまで平凡な学生生活を送りたいだけだ。そう思う自分は、最低なんだろうか。

「あっ! ジョジョー! 何してるの〜?」
「見て! ジョジョがお花運んでるわ!」

屋上から一階まで降りきると、彼は早速女子生徒に見つかり、声をかけられている。彼女達に見向きもせず、彼はずんずんと先を歩くけど、私は歩く速度をゆっくり緩めた。
もういい。中庭にプランターを置いて、早く行って。彼女達に、私と空条君に関わりがあることを知られたくないの。そう祈っても、彼が大声で私を呼んだおかげで、たくさんの視線が自分に突き刺さってきた。

「ッここでいいよ。ありがとう」

耐えられなくなり、渡り廊下の途中で抱えるように彼からプランターを奪い取り、鞄を差し出す。彼方此方から女子生徒のひそひそと話す声が聞こえる。
一刻も早く、ここから逃げ出したい。どうか、もう行って欲しい。そんな視線を投げかけると、少しだけ、彼の眉根が寄せられる。

「…余計なことして悪かった」

鞄を受け取りこの場を立ち去る空条君とはそれ以降、一学期が終わるまで屋上で会うことは一度もなかった。やっぱり私は、最低な人間だ。



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