slow lain

「ジャイロとはうまくやっていけそうか」

グレゴリオ先生の言葉に、ぎくりとした。平静を装って「はい」と返事をしたけれど、先生はそんな私を見て苦笑していたのであまり意味はなかったようだ。異動はつい二ヶ月前のことなのに、この診察室でグレゴリオ先生の手伝いをしていた日々をひどく懐かしいと感じてしまう。それくらい、今の私は彼の息子であるジャイロ・ツェペリという人物の言動に辟易する毎日を送っている。

「苦手というわけではないのですが…グレゴリオ先生とは違う部分に、戸惑うことはあります」
「医師には様々なタイプがいる。私のところにずっといては君の成長に繋がらない」
「仰るとおりです」
「何かあったら言いなさい」
「はい。ありがとうございます」

診察室を出て、小さく溜息をつきながら廊下を歩く。どうしてジャイロ先生の診察室に異動するのが私だったのか、理由は想像できる。真面目で、つまらない女だからだ。彼の好みからは外れている。
医師としての才能も、技術も、尊敬はしている。だけど、人として好きになれるかどうかは別問題だ。彼のおかげで辞めていった看護師は何人もいる。ほぼ全員、彼との関係が拗れたからだ。休憩室で何度も聞いたその話を思い出してしまい、気分はどんどん下降していく。あぁ、また憂鬱な一日が始まってしまう。


「俺、ちょっとバイタルチェック行ってくるわ」
「三十分前に私が行きました」
「じゃあー…見回り?」
「それより、カルテの記録をお願いします」

気に入っている看護師か、もしくは患者と会う約束をしているのだろう。グレゴリオ先生が帰った後の深夜になると、どこか浮き足立った様子の彼はこの台詞を吐く。彼が何処で誰と何をしていようと私には関係ない。だけど、まだ仕事は終わっていないのだ。束になったカルテを彼の前にずい、と突き出す。
睨んだって意味は無い。私の横をすり抜けると、ひらひらと手を振りながらいつものように彼は診察室を出て行った。本当に、クソみたいな男。思い切ってそう言えないのは、明け方近く、私が休憩から戻る頃には全て記入が終わったカルテと一緒に朝の投薬指示書が一緒に置いてあるからだ。
ぱらぱらとカルテを捲っていく。どのページも綺麗な字で、内容も正確。少し癖のある「z」の書き方は、グレゴリオ先生の文字とよく似ていた。気分は憂鬱なままだけど、容態が急変する患者もおらず、穏やかに今日が終わっていくことへ感謝しながら朝焼けを眺める。
もうすぐグレゴリオ先生が病院に来る時間だ。未だに戻らない彼を探しに行くため、私はまた小さく溜息をつきながら診察室を出た。

その日の私は、とても疲れていた。退勤間際に近くで事故があったらしく、急患が何人も運ばれてきたのだ。日勤だったけれど人手も足りないため、そのまま夜勤も担当することになった。本当にもう、くたくただ。点滴とガーゼ交換、それに昨日から入院している患者のいびきがうるさいと訴える別の患者を宥めて…まだまだやることはたくさんある。
次から次へと降り注いでくる業務が重くのしかかった身体に鞭を打ち、ナーシングカートを押して廊下を歩く。病室の一つである個室から、人の声が聞こえる。消灯時間は何時間も前に過ぎているので、まだ起きているのなら眠るよう伝えなければならない。それとも、身体に異変があるのなら。確認するため、ドアの前で立ち止まった時だった。

「ぅおッ!?」

ノックする予定のドアは向こう側から開けられ、勢いよく出てきた人物は私の横にあったナーシングカートにぶつかった。満身創痍の看護師である私が用意した、今から必要なものを全てひっくり返したのだ。深夜の三時に。医者が。ジャイロ先生が。

「なんだよお前さんか…婦長かと思って焦っちまって損したぜ」

廊下に散らばる点滴パック、体温計、カルテ、血圧計。ころころと転がり続ける包帯。病室のベッドにいたのは明日退院予定の女性患者で、乱れた入院着は肩が露わになっていた。あぁ、もうだめだ。限界だ。グレゴリオ先生の診察室に帰りたい。そう思ったらもう、口から飛び出していた。何かってまぁ、かなり悪い言葉だ。

「あんたの思考回路はどうなってんの」
「いや…ぶつかっちまったのは悪いと思ってる」
「脳と性器が直結していてあとは何も機能していないわけ?」
「…え?」
「どうなってるのかって聞いてんだよ」
「いやあの…ハイ。スミマセン」
「……拾え」
「カシコマリマシタ」

全て新しいものに交換してもらい、業務を終わらせて診察室へと戻ったところで、私は自分がしでかしたことの重大さに気付き、青ざめ、彼に頭を下げ「申し訳ございません」を繰り返した。私の短い看護師人生はここで終わり。これからどうしようか。
田舎に帰って両親に勧められるがままの縁談を断り切れず、たいして知りもしない男性と結婚させられる道しか残されていない。そうなるのが嫌で、看護師になったのに。私は何をやっているのだろう。一時の感情で、何もかも壊してしまった。

「おいおい…さっきの威勢のよさはどこにいったんだ?」

謝り続ける私に「いいから顔上げな」と彼は言う。恐る恐る顔を上げると、怒っているはずの彼はどこにも見当たらなかった。彼は、ジャイロ先生は、笑っていた。どうしたらいいものかと考えあぐねるばかりで、答えは出ない。そんな私を見た彼はさらに笑いだす。「なぜ笑うのですか」と問えば、彼は両腕を上げて伸びをしながら診察室を歩き回り始めた。

「お前さん、あんな怒り方できるんだな」
「いえ、あの…」
「いっつもおとなしそうなクセによォー、結構効いたぜ」
「なんとお詫びしていいか…」
「そうだよな。ああやってお前さんが一生懸命やってるから俺は今まで働きやすかったんだよな」
「そんなことは」
「ありがとうな。これからはまァー…ちょっとは控えるわ。色々と」

予想外の言葉だった。叱られることは想定していたけど、感謝の言葉を彼から貰うとは。軽くストレッチをしながら診察室内を歩く彼を目で追っていると聞こえた「これからもよろしくな」に、私は今日いちばん深く、深く頭を下げた。

日勤の看護師たちの勤務時間が訪れ、私の長い長い一日が終わった。グレゴリオ先生のご厚意で今日は休みとなったので、心と身体をゆっくり休めたい。そう思い病院から一歩外に出ると、誰かが私の肩を掴んだ。後ろを振り返ると、そこにいたのは彼だった。

「よお。朝飯食いに行こうぜ」
「…帰りたいんですけど」
「いいだろォー? せっかくお互いの距離もちぃとばかし縮まったんだ」
「縮まってないです」
「ほれ、行くぞー」
「え、あっ、ちょっと…!」

もうまともな抵抗ができない程に体力が削られている私は、彼に肩を押され強制的に自宅とは反対方向へと歩くことになり、街の食堂へと連れてこられた。早朝だというのに、店内は賑わっている。これから仕事へ向かう彼らは溌溂としており、私たちとは正反対だ。
そよぐ風に乗って、焼けたパンの匂いが鼻腔を擽る。忘れていた空腹が途端に訪れ、メニュー表へと視線を落とす。いつも夜勤後は帰宅するとすぐに寝てしまうので、しっかりとした朝食を食べるのは久しぶりのことだった。

「…何考えてるんですか。朝ですよ」
「いいだろ別に。俺もお前さんも今日は休みなんだし」

朝食と共にサーブされたワインボトルに、思わず彼を睨んでしまう。そんな私に臆することなく彼が押し付けてきたワイングラスに注がれていくのはバーガンディー色の液体。
もう断る気力も怒る体力も残されていない。諦めて、どうせなら白ワインがよかったと思いながら、ただぼんやりと注ぎ終わるのを待った。完全に、彼のペースに乗せられている。別に、断るのが苦手なわけじゃない。彼がいるとうまくできなくなるだけだ。
それぞれが手に持ち、触れ合ったグラスは軽やかな音を立てる。ひと口飲んだ。疲れた身体に染み渡るアルコールというのは、どうしてこんなにも魅惑的な味がするのだろう。甘美な味わいに脳が支配され始めると、私の口からは「美味しい」がまろび出る。それに気を良くしたのだろうか。彼はまた笑った。
「…何ですか」
「イイ顔して飲むなァって思っただけ」
「はしたないの間違いでは」
「お前さんがはしたないならアイツらはどーなるんだよ」

アイツら、というのは彼と寝た女性たちのことを指しているのだろう。返答に困る。というか、どうでもいい。「分かりません」と答え、もうひと口ワインを飲んだ。この日をきっかけに、夜勤明けが休日の時に彼は私を例の食堂へと引きずり連れ回すようになった。

彼はよく食べ、よく飲み、それからよく笑った。病院で見る姿とは違い、今私の前にいるのはどこにでもいる、年相応な若者の顔をした彼だった。あと時々、下品な笑い方もする。最近忘れかけていた『クソみたいな男』が頭の片隅に浮上した。
院内での彼は、深夜に診察室を抜け出すことも減ったように思う。明確な理由は分からない。だけど先日、彼が気に入っていた看護師が結婚を理由に退職したし、現在入院している患者に若い女性はいないので、そんなところだろう。

「なぁーんかよくないこと考えてるだろ、今」
「…そうですね。ジャイロ先生ってやっぱりクソだな、って思ってました」
「別に今は先生って呼ばなくていいだろ。俺ら歳ちけぇし。ジャイロでいい」

『クソ』の部分には触れず、名前だけで呼ぶことを提案されたけど、私は引き続き彼のことを先生付けで呼んだ。なんというか、そうでもしなければ、よくない感情を抱き、それに引きずり込まれてしまいそうな予感がする。
医者と看護師の正しい距離感を見誤らないために。自分を律するために。この頃の私はそればかりに気を取られ、少し必死になっていた。
エスプレッソにコーヒーシュガーを二杯入れ、ティースプーンでかき混ぜてからカップを口元へと運ぶ。ワインを飲んだのはあの日の一度きりで、私と彼は今日も食堂で朝食を共にしている。
話す機会が多ければ、余程相手のことが嫌いでないかぎり自然と打ち解け合えるのが人間だ。私は辛辣な言葉を投げかけることに抵抗はなくなっていたし、彼も私をおちょくるような発言をすることは少なくなっていた。
食堂を出て、いつものように別れの挨拶をして自宅へ戻ろうとする私と違い、彼はその場を動かない。不思議に思い声をかけると「連れた行きたい場所がある」と彼は言う。私は頷き、彼の後ろを歩く。断るという選択肢が自分の中から消えていたことに、少し驚いた。

多くの人々で賑わう街を抜けると、草木が生い茂る長閑な姿へと景色は変わっていく。さらにその先へと進めば、見えてきたのは厩舎と馬場だった。一頭の馬がこちらへ向かってくる。
彼は軽々と柵を乗り越えると、馬を撫で、そして跨がった。リズミカルに土を踏み、長く垂れた尾を揺らし、彼を乗せた馬は縦横無尽に馬場を駆け回る。
診察室でも、朝食を共にした時にも見たことのない今の彼が、きっと本来の姿なのだろう。風に靡く髪、前だけを見つめる瞳。そのどれもが眩しく、美しく、そして遠いと、そう思った。

「なぁ、お前さん『スティール・ボール・ラン』レースって知ってるか」
「いいえ。何ですか、それ」
「……いや、何でもねぇ」

よく懐いているのか、彼が降りた後も馬は傍を離れずにいる。大きくて、毛並みの綺麗な馬の登場に、なんだか秘密にしている恋人を紹介されたような気分になった。だけど、どうしてだろう。彼の知らない部分を知る度に、喜びを感じることはなかった。

私の勘違いでなければ、この頃の彼はぼんやりしているように思う。カルテに誤字があったわけでも、オペ着を裏表逆に着ていたわけでもない。入院患者の回診が終わった後、診察室へと帰る彼の横顔は何か大切なことを考えているように見える。それを婦長や仲の良い看護師仲間に話す気にはなれなかった。話したところで何かが解決するわけでもないし、彼のためになるとは思えない。
外来診察が落ち着いた午後二時、昼食のために訪れた食堂はピーク時を過ぎてはいるが未だに混雑していた。見知らぬ男性と相席になったが、その人物は新聞を読んでおり顔は見えない。下を向いたまま、私は食事を進めた。椅子を引く音に顔を上げると、向かいに座っていた男性は食事を終えたようで席を立つと店を出ていく。新聞はテーブルの上に置かれたままだった。折り畳まれた新聞に視線を移す。一面の見出しには、大きくこう書かれている。

九月二十五日午前十時『スティール・ボール・ラン』レース開催決定

先日、彼の口から出た言葉が今、自分の目に飛び込んできたことに少しだけ動揺した。手は自然と新聞へと伸びている。一拍、二拍と間を置き、皿をテーブルの淵に寄せ記事を読んだ。
歴史上初となる馬での北米大陸横断レース、総距離約六千キロメートル、優勝者への賞金五千万ドル。これらは本当に現実のものだろうかと疑ってしまう。それくらい壮大で、自分とは縁遠い内容だった。

「北米大陸、横断……」

あの日、彼はなぜこのレースの名を口にしたんだろう。それをなぜ、私に聞いたんだろう。

外来患者も少なく、比較的穏やかな日だというのに、婦長の機嫌はあまり良くない。察するに、たぶん彼が何かをやらかしたようだ。探してこい、との命を受けてしまった私に他の看護師たちは哀れみの目を向けている。溜息をつくのは、我慢した。
仮眠室、リネン室、思い当たる場所をいくつか回ってみたけれど、彼はいない。何となく行動予測ができるようになっていた私は、病院の外に出た。
物干し竿にぶら下がり、風にはためくベッドシーツの波を抜け、さらに歩く。やはり、病院の裏にある大木の下に彼はいた。近付いても、起きる気配はない。いつものように大きな声で呼びかけ、叩き起すのを今日はどうしてか憚られた。
はらり、と舞い落ちた葉が彼の髪に落ちる。傍にしゃがみ、そっと伸ばしかけた手を引っ込めた。 初めて見るわけじゃない。薄い瞼の端から伸びる睫毛も、形の良い耳も、私より大きな掌も。
あぁ、あの時と同じだ。眠る彼は美しく、そして遠い。私とは違う世界で生きている人だと、そう思ってしまう。もう一枚、葉が落ちる。ゆっくりと、彼の目は開かれていく。

「……アメリカに、行くんですか」

私の言葉に、まだぼんやりとしていた彼の目は見開かれ、射抜くような目付きへと変わる。地面から背を離して起き上がると、服の上に落ちた葉をはらい落とした。

「知らないんじゃあなかったのかよ」
「私だって新聞くらいは読みます」
「わざわざ調べたのか?」
「先に言い出したのはジャイロ先生です」

彼がもし突然アメリカに渡ったとしても、患者や病院に対して無責任だとは思わない。彼の人生は、彼だけのものだ。他人の、同じ病院に勤める医者と看護師という希薄な関係しか築けていない私が、口を出すことではない。
何か、余計なことを言ってしまいそうになる。それだけは避けるべきだと、下唇を噛む。決して険悪ではない。だけど穏やかでもない沈黙を破ったのは、彼の方だった。
彼は既にレースへの参加を決意しており、その口ぶりから意思は鋼のように強固で、誰にも崩すことはできない。私にはそう感じた。遠い異国の地で開催される現実離れしたレースに立ち向かうことを決めた彼は、何か、大きな理由を抱えているのだろう。
だけど、それを言えない訳もある。その苦しみから解放させてあげることは私にはできないのだと、彼の口ぶりから理解できた。
彼の話にこれほどまで真剣に向き合ったのは、初めてだと思う。少しでも、彼の心の重さを取り除けるなら。その気持ちだけで、私は最後まで話を聞いた。誰にも言わないでほしいという頼みにも、しっかりと頷いた。

「この話はまだ父上にもしてない」
「…どうして、私には話してくれたんですか」
「なんか、話しやすかったんだ。お前さんなら何も言わずに聞いてくれるだろうってな」
「そう、ですか」
「きっとそう思ってる患者は多いと思うぜ。お前さん…良い看護師だからな」
「……ありがとうございます」

聞きたいことがなかったわけじゃない。言いたかったことだってきっとある。そのどれもを消し潰すようにスカートの裾を握った。結果、絞り出せたのは蚊の鳴くような音量の「応援しています」だけで、そんな自分が情けなくてしょうがない。本当に、嫌になる。
ふと、彼の腕がこちらに伸びてくる。目線だけで追うと、私の頭の上に落ちてきた葉を彼の手は退かす。オペ中、ゴム手袋越しにしか触れられたことのない彼の手が、二度三度と私の頭を撫でた。
ゆっくりと見上げた彼の瞳には、自分が映っている。同じように、私の瞳にも彼が映っているのだろう。彼の手が、私の後頭部に添えられていく。 通常の私であれば、この時点で彼を引っ叩いている。だけど私は縮まっていく彼との距離を、拒まなかった。互いの唇が触れ合いそうな近さで見つめ合い、どちらも目を閉じない。
春の陽気に包まれ、さわやかな風が吹く大木の木陰には似つかわしくない、奇妙な時間と空気が流れていく。

「……お前さんには手ェ出さねぇよ。父上の…お気に入りだからな。俺が殺される」

シャボンの泡が弾けるように彼はそう呟くと、私から距離を取った。何事もなかったかのように立ち上がると、服に付いた土埃をはらう。いつまでもここに留まっていてはいけない。私も、先に進まなければ。
歩き始めた彼の背を追い、隣に並ぶ。鼻歌交じりの彼は私の頭をぐしゃりと撫でると、意地の悪い笑みを浮かべた。きっともう、大丈夫そうだ。
しまった、と気付いた頃にはもう遅く、病院のドアを開けると待ち構えていた婦長に、彼と一緒に私も叱られた。


「グレゴリオ先生、ロマーノさんのご家族がお見えになりました」
「面談室にお通ししなさい。私もすぐに向かう」
「かしこまりました」

今日はこれから、来週にオペを控える患者のご家族に事前説明を行う。グレゴリオ先生に声をかけてから面談室に入り、籠った空気を入れ替えようと窓を開ける。頬に当たる風は少し冷たく、始まったばかりの冬に私は早くもやられそうだ。
薪ストーブに火を付け、窓を閉じる。外に見える大木の根元には、枯れ落ちた葉が降り積もっていた。もうあの場所で昼寝など、しばらくはできないだろう。惰眠を貪る張本人は今、この場にいないけれど。
別れの挨拶があったわけでもない。グレゴリオ先生をどうやって説得したのかも、私は知らない。夏の訪れを前に、彼はアメリカへと旅立った。もう、半年程前のことになる。ある日を境に、彼は病院に姿を現さなくなった。
だけどグレゴリオ先生は落ち着いていたし、私も不思議と動揺することはなかった。とくに大きな変化も、彼に思いを馳せることもなく、この病院で患者のために働く毎日を過ごしている。
私と彼は、あの一線を飛び越えなかった。そこに後悔はない。だけど、心残りはないと言ったら嘘になる。それは、彼も同じだったのだろうか。私は、彼のことを好きだったのだろうか。今となってはもう、何も分からない。

事前説明も終わり、そろそろベッドシーツが乾く頃だろうと病院の外に出ると、頬に水滴が触れる。その冷たさは、思わず身震いをしてしまう程だ。

「……雨?」

見上げた空は快晴で、姿を現さない雨雲に少しだけ苛立った。これではまるで、どこかの誰かみたいじゃないか。カルテの医療記録、新聞のレース記事。事ある毎に私の生活に介入し、その存在を主張してくる、彼のことだ。
物干し竿にぶら下がり、波打つベッドシーツたちを手早く回収し、濡れないように、跳ねた土混じりの雨粒で汚れないようにと両手で高く持ち上げ病院内へと急ぐ。
この雨はきっとすぐに止む。形を変え、消えては生まれる雨雲はいつか、何千キロも離れた地で、同じ雨を降らせるのだろうか。降り続ける雨が染み込んだ大地では、きっと彼の馬も走りにくい。どうか、彼に降る雨が止みますように。
そんな祈りなら、捧げてもいいだろうか。



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