バターが香る冬の始まりは

足の裏が着地した床は氷のように冷たく、バスルームまでの道のりがいつもより随分長く感じる。クローゼットに寄り道をしてルームシューズを出すことなく最短距離で向かい、ベッドへ戻る頃にはすっかり身体は冷えていた。ナイトテーブルに置いてある時計は、いつもの起床時間より二時間も早い時刻を指している。このまま起きていようか。でも少し眠い。彼が起きる前に部屋を暖めておこうか。でもまたあの冷たい床を歩いてヒーターのスイッチを入れに行くのはちょっと億劫だ。

「ごめん。起こしちゃった?」
「いや、大丈夫」

そんなことを考えていると、隣からシーツの擦れる音と共に彼がもぞもぞと動き出す。 笑顔を絶やさず、活発に動き回る日中の様子からは想像もつかない程、今の彼は小動物のように可愛らしかった。だけど寝起きのとろりとした目で私を見つめる彼に『可愛い』は禁句だ。格好良い自分しか見せたくないそうなので、少し不機嫌になってしまう。可愛い彼を見られるのも、寝癖がついた髪に触れるのも私だけの特権と思うことにして、言葉は飲み込む。代わりに、冷えた身体でぎゅっと抱きしめた。

「…夢を、見たの」
「どんな夢だった?」
「大人になったシーザーに会ったよ」
「今の俺も大人だけど」
「もっとこう…歳をとってて……六十歳くらいの」
「へぇ…じいさんになってた俺、どうだった?」
「ちゃんと格好良かったよ。今とそんなに見た目も変わらなくて…女の子に囲まれてた」

嬉しそうに「bene」と呟くと、大きな小動物はまたもぞもぞと動き出す。そして冷えた私の足の裏に自分の体温を移すように、ぴたりとくっ付けた。あたたかくて、安心する、心地好い温度に再び瞼を閉じたくなる。だけど今寝てしまうと、仕事へ向かう彼を玄関で見送ることもできずに昼まで寝てしまいそうだ。そんな私に降り注いできたのは「今日はどこか出かけようぜ」という彼の言葉だった。

「…休みなの?」
「驚かせようと思って内緒にしていたんだ」
「もっと早く知りたかったのに」
「君より早く起きて朝食をベッドに運んで、その時に言おうと思ったんだけど…今朝の君は随分早起きだったから」
「ふふふ、ありがとう。嬉しい」

素敵なサプライズに、さっきの何倍も強い力で思い切り抱きつく。シーザーの、こういうところが好きだ。いつもこうやって、私を笑顔にさせてくれる。まぁ、時々はケンカして、地獄に落ちろこのスケコマシ野郎! とか思ったりもするけど。それでも概ね、私たちの関係は良好だ。

「朝食は何を作る予定だったの?」
「クロワッサン。映画観てた時、食べたいって言ってただろ?」
「覚えててくれたんだ…!」
「まぁさすがにティファニーまでは用意してやれないけどな」

昨日の夜に生地は仕込んでおいたという彼の話を最後まで聞いていない私の頭の中は、折り重なったサクサク食感の層に、噛んだ瞬間にじんわりと広がるバターの風味のことでいっぱいだった。

「おい。聞いてないだろ」
「聞いてるよ。生地が冷蔵庫にある」
「せっかくだから一緒に作ろうぜって部分は」
「…あ。ねぇ、今日からだよ。クリスマスマーケット。行こうよ」
「誤魔化すなッ」

抱きしめていた腕は身体中を擽るために忙しなく動き始め、それに私も応戦する。まだ薄暗い部屋には二人分の笑い声だけが響き渡る。アパートの隣の住人から苦情の壁蹴りをされる前にとベッドから抜け出せば、彼もそれに続く。冷たい床のおかげで一時休戦となり、ルームシューズを捜索するためクローゼットへ向かった。
溶けだしたバターがオーブンから香り始める頃、私たちはこれから始まるイタリアの長いクリスマスをどう過ごすか、ダイニングテーブルで語り合う。ホットワインを飲みながら新しいオーナメントを探したり、買い集めたグリーティングカードにメッセージを書いたり。シーザーはきっと、文句を言いながらもジョセフへのカードを今年も送るんだろう。 街のイルミネーションを見に行く。お互いのプレゼントを探す。教会のミサに参加して、ツェペリ家で伝統料理を食べる。
どれもが楽しみで待ちきれない私は、紅茶を入れる準備をしようと席を立つ。もうすぐ彼と一緒に作ったクロワッサンが焼き上がる。



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