タバコと私

ふわりと香った匂いに瞼を開けば、バルコニーへと続く窓のカーテンが揺れているのが目に入った。窓を開けた覚えはない。
ころりと寝返りを打ちながらソファから降りて、迷いなくバルコニーへ向かうことができるのは此処がセキュリティの厳重なマンションの一室であるのと、この匂いの持ち主を知っているからだ。
カーテンを右手で退かすと見えたのは、2セットあるはずのシャワーサンダルが1セットだけなので、彼が此処にいることはほぼ確定した。

「おかえりなさい」
「おー」

柵に肘をつき、猫背気味の後ろ姿に声をかけると、ゆるりとした動きで真島さんが後ろを振り返った。スタンド灰皿を挟んだ隣に立ち、彼と同じように柵に肘をついて階下を見下ろす。眩いほどの東京の夜景が、そこには広がっていた。

「ミニトマトが、もうすぐ収穫できそう」
「お。今度はうまくいったんか」
「うん。あとね、バジルも」
「最初のは名前チャン全部枯らしてしもうたからなぁ」

意地悪く笑う真島さんは、プランターが並ぶ一角へと向かう。煙草は咥えられたままで、目が覚めたときに嗅いだのと同じ匂いが私の横をすり抜けていく。
この部屋を与えられてから覚えてしまったあまり好きじゃない煙の匂いは、真島さんが何処にいるかを私に知らせてくれる。だいたいはリビングだったり、バスルームだったり、今夜みたいにバルコニーだったりするので、私は部屋の彼方此方に灰皿を置いた。
掃除をするとき、灰皿に残された吸い殻の数を見て、彼がその場で何をしていたのかを探偵気分で想像するのが、一日のうちの楽しみの一つだったりする。
ミニトマトのプランターの前でしゃがみ、実を探している彼が少し咳き込んだ。最初のうちは「煙草やめたら?」と声をかけていたけれど、真島さんはいつも「ほな明日から」なんて適当なことを言うだけでやめようとしたことは一度もなかった。だからもう、いいや。と今では私も投げやりになってしまっている。

「トマトとバジルやったら、ピザやな」
「ふふ。同じこと考えてた」

私を見上げる真島さんは、子どもみたいに笑うと煙草の火を消して「明日は早よ帰らないかんな〜」と機嫌良さそうな独り言を呟きリビングへと向かうので、その背を追いかけた。
真島さんがシャワーを浴びている間、ベッドの中でタブレットを操作しながらネットスーパーでドライイーストとピザソースを注文した。いつの間に寝てしまったんだろう。目が覚めると真島さんはもういなくて、タブレットはサイドテーブルに置かれていた。

二次発酵まで終えた生地をボウルから出して、麺棒で薄くなるまで伸ばす。ピザ生地作りは初めてだったけれど、意外と好きな作業だと思う。
薄力粉が付いたままの人差し指でタブレットの画面に触れて、次の工程を確認する。ピザソースを全体に塗って、手でちぎったモッツアレラと半分にカットしたミニトマトをのせてから、ふと気づく。白ワインを買うのを忘れていた。
帰りに白ワインを買ってきてくださいとメッセージを送ったけど返信は無かったし、その日、真島さんは帰ってこなかった。
翌朝、ペダルを踏んでダストボックスの蓋を開けてピザが乗った皿を傾けていく。焼かれる前のピザはどすん、と音を立ててダストボックスの底に沈んでいく。その音はピザじゃなくて、私の心がどこかに落ちた音なのかもしれない。
重たい足を引きずりながら、バスルームへ向かう。お湯をためて、お気に入りのバスソルトを用意すればちょっとは軽くなるだろうか。


「またそんなとこで寝て。風邪ひくで」

ふわりと香った匂いに瞼を開けば、いつの間にか帰宅していた彼が私を見下ろしている。時間をかけてのろのろと起き上がり、目の前に晒されている彼の素肌に顔を寄せて思い切り鼻から息を吸う。私が知っている、真島さんの匂いだ。

「風呂入らせてや」

小さく笑う真島さんからは、煙草に混じって鉄みたいな匂いがする時がある。その匂いの正体を、聞いてはいけないような、知ってはいけないような気がして、ゆっくりと彼から離れた。
私の頭をぽん、と撫でてバスルームに消えていく真島さんの背中を見つめながら、少し痛む右足首に手を添える。擦れて赤くなっていた。


「明日、花火大会があるみたい」

お風呂上がりの真島さんが缶ビールを片手にバルコニーに出たのでついて行き、ぽつりとそう呟くと缶から口を離した彼は無言で私を見下ろした。
眼帯を外しており、露わになった左目の奥。潰れた眼球までもが私を見ているような気がして、眼前の夜景に視線を落とす。

「行きたいんか?」
「ううん。ここから見えるかなぁって、思ったの」
「さすがにこっからは見えんやろなぁ」
「そうなんだ。ビール飲みながら見ようと思ったのになぁ」

遠すぎや、と笑う真島さんはいつもの真島さんだった。ほんの一瞬だけ淵を覗かせたもう一人の彼を見たのは、右足首についているこれを外そうとしたのを見つかった時だ。 安心を買うためだと、彼はそう言った。何のための、誰のための安心なのかは分からないけれど。

「今度連れてったるわ」
「やった。ありがとう」

今日も東京の不味い空気を吸い込んでから、私と真島さんは眠りにつく。彼は今日、どんな夢を見るのだろうか。今度っていつだろう。
私がこの家から出なくなって、もうすぐ半年になる。



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