海風

※渚にて幻の続きです

「やっぱりヤバいですって若!俺、親っさんに殺されるっすよ!」
「イチ、いいから前見て運転しろ」
「真斗くん、さっきからケータイずっと鳴ってるよ」
「どうせ親父か沢城だろ……ほっとけ」

イチくんの運転する車が真斗くんの家を出て多摩川を渡り切った頃、思い出したように彼は再び騒ぎ出した。真斗くんは鳴り続ける携帯電話を手に取ることもディスプレイを見ることもなく、窓の外を流れる景色を後部座席で不機嫌そうに眺めているだけだった。
自分が思っているよりも、大変なことになってしまったのかもしれない。イチくんの様子に段々と自分の発言を後悔し始め、太腿の上に置いた両手で制服のスカートをぎゅっと握り俯いていると、隣から「おい」と真斗くんが私を呼んだ。

「なに?」
「…着いたら起こせ」

それだけ言うと、彼は瞼を下ろしてしまった。もう騒ぐな、話しかけるな、ということなんだと思う。私とイチくんは今、許可なく真斗くんを都内から連れ出そうとしていた。そうなった原因は、全て私にある。


2学期の終業式だった今日の朝、私は母に殴られた。

「お前、学校は」
「1日くらい、別にいいよ」

学校には行かず、制服のまま私が向かったのは真斗くんの住むマンションだった。彼は玄関で血が滲んだ口端と腫れあがった左瞼を見ても、何も聞いてこなかった。「明日はちゃんと行けよ」と言われたので、明日から冬休みだよと答えたら睨まれたけど。ただ、いつもと違って追い返すことはしなかった。
私のお父さんと荒川さんは、彼らの世界で言う“兄弟分”という間柄だったらしい。荒川組の事務所で初めてあの親子に会った時、親戚のおじさんみたいなもんだと説明されたけれど、当時小学生だった私はあんまりよく理解していなかった。
学校の制服であろうブレザーを着て不機嫌そうに車椅子に乗っていた真斗くんとも、何を話したのかぼんやりとしか思い出せない。でも、一人っ子だった私は彼の存在をひどく喜んでいたそうだ。小学生の考えることなんて、たかが知れている。兄ができたと、当時の自分は浮かれていたに違いない。
父が死んだのは、わたしが小学3年生から4年生になる少し前。葬式には怖い見た目の男の人がたくさんいて、あぁ、やっぱり私の家は普通じゃなかったんだと、長年親に聞けなかったことが露呈して諦めたように受け入れた。今思えば、あの時に受け入れてしまったことが、後の自分の人格形成に影響しているのかもしれない。
父が死んだ後も、荒川さんは私と母のことを何かと気にかけてくれていた。中学校の通学鞄も今着ているこの制服も、荒川さんに買ってもらったことはよく覚えている。母がおかしくなったのは、そんな頃だった。
昨日、給食費を滞納していると担任に告げられ、恥ずかしいような情けないような、どうしようもない怒りが自分を埋め尽くした。どこかにぶつけることもできずに迎えた今日の朝、カーテンも開けずに酒を飲み始めた彼女に向かって「いい加減にしてよ」と言ったのがいけなかったのか。床に転がる瓶やら缶を蹴飛ばしたのがいけなかったのか。
血走った目をぎらつかせ、酒臭い息を吐き、ぶるぶると指先を震わせながら近づいてくる母は、人間の形をしているだけの獣のようだった。諦めに近いかたちで目を閉じると、鈍い痛みが顔や身体に降り注いでくる。時折「死ね」とか「ごめんね」とか聞こえてくるけれど、明日から学校休みでよかったなぁ。と、何処か他人事のように私の頭はそんなことばかりを考えていた。やっぱり父を亡くしてから、諦め癖がついている。

「海が見たい」

私が真斗くんに言った久しぶりのわがままは「うるせえクソガキ」の一言でくしゃくしゃに丸めて捨てられるものだと思っていたけど、彼は今日そうしなかった。

「……少し待ってろ」

車椅子の向きをくるりと変え、私に背を向けた真斗くんは携帯電話を耳に当てると「今すぐ来い」とだけ言って通話を切った。30分もしないうちに来たイチくんはいつもと違う私の顔を見て少し驚いていたけれど、何も言わなかった。
真斗くんよりも感情表現豊かな彼はぎゅっと下唇を噛んで、ガラス細工に触れるようなぎこちない手つきでわたしの頭を撫でてくれた。真斗くんとは違う形のやさしさ。真斗くんとは違う大きくてごつごつした手。イチくんのことを考える時、いつも真斗くんを引っ張り出してしまうのはなぜだろう。
海まで行けという真斗くんに、お台場とかでいいっすかと尋ねたイチくんは「いいわけねぇだろ」と投げられたクラッチバッグを顔面で受け止めていた。


「名前ちゃん、次どっち?右?」

イチくんの声に顔を上げ、つい先ほどまでの記憶を折りたたんで頭の中の引き出しにしまい込む。そうだ、私たちは江の島に向かっている途中だった。
正直、海ならどこでもよかった。もっと言うと、海じゃなくても。今それを真斗くんに言ったら二度と口を聞いてもらえなくなりそうなので黙っているけれど、行き先を指定したのは海が見たいと言った私ではなく彼だった。どうして真斗くんは江の島を選んだのだろうか。

「あ、えーっと…イチくんにお任せします」
「え?地図見てたんじゃねーの!?」

なんとか無事に江の島までたどり着くことができたけれど、空の色は薄く青みを帯びた灰色をしており、日没までそんなに時間はなさそうだった。「俺はいいからさっさと行ってこい」と渋る真斗くんを説得してイチくんと二人で車内から引っ張り出していると、嗅ぎ慣れない潮のにおいが鼻腔をくすぐった。
三人で並び、海を眺める。寒いし、風が冷たくて冬の海って全然よくないな、と思っていると二人も同意見だったらしい。着いてから「寒い」しか言わない真斗くんと、飲み物を買いに行くと早々に離脱したイチくんを見送りながら、擦り合わせた手に温い息を吹きかけた。

「どうして江の島だったの?」
「……死にたくなる奴は、海を見たがるらしい」
「そうなんだ。初めて聞いた」
「これだけの観光地なら、そんな気も失せるだろうがな」
「確かに、そうかも」

死を考える人は、生命誕生の起源の場所である海をなぜ見たくなるのだろう。果てしなく広く底深い青色に身を溶かせば、生まれ変われるとでも思っているのか。私にはちょっと分からない。
真斗くんの口から『死』という言葉が出てきたけれど、彼には私が死にたがっているように見えたのだろうか。それも分からない。分かるのは、確かにこの海には『死』という言葉は似合わないということだけだ。

「あのさ、真斗くん」
「なんだ」

真斗くんには、彼女がいた。とても綺麗な女の人だとイチくんが写真を見せてくれたことが一度だけあった気がする。その人のことを話す真斗くんの横顔は幸せそうで、少しどきっとしてしまうくらい優しい顔で、私は恋をしている真斗くんを見るのが好きだった。
真斗くんの年の差は永遠に埋まることはないけれど、私もいつかは大人になる。身体が成熟して、誰かを好きになったり愛されたりして、そうやって真斗くんに追いついたとき、こんな純粋な気持ちで彼を見つめることができるだろうか。
きっと私は真斗くんのことを好きになってしまう。それがたまらなく嫌だった。一人の男を愛して狂ってしまった母親みたいになる気がして、怖かった。
早くあの家から出て、自由になりたい。お酒が手放せない母親から解放されて、世話を焼きたがる荒川さんの目の届かないところへ行ってみたい。昨日までずっとそう思っていたのに、今の私は大人になることを拒否して真斗くんの傍にいたいと願っている。
思春期特有の心の不安定さというのは、波打ち際で泡立っては消えていく白波ではなく、かたちや場所を変えながら、ぐるぐると渦を巻いている渦潮のようだ。

一際強く吹いた風が、少し長めの真斗くんの襟足を揺らす。露わになったうなじは、日没間際でもはっきりと分かるくらいに青白い。昔から変わらないんだなと懐かしさを覚えたけれど、綺麗にかたちを整えられた髭や両耳にあるピアスは、改めて彼と自分が大人と子供であることを認識させる要素だと、そう感じずにはいられなかった。
初潮を迎え、膨らんでいく胸や直線的だった身体から角が取れて女性になる為の羽化を進めているはずなのに、私はまだ少女という繭に包まれたままの蛹でいたいと、この一瞬で強くそう思い、用意していた言葉を引っ込めた。

「夢乃さんの誕生日プレゼント、決まったの?」
「あぁ、まぁな」
「夢乃さんのこと話すときの真斗くん、いつも嬉しそうだね」
「うるせぇ」

そうでないと、彼はきっと今みたいな笑顔をわたしには見せてはくれないから。

東京に戻った私たちは、まぁ分かってはいたけれど荒川さんと沢城さんにものすごく怒られた。イチくんをボコボコにしていた沢城さんの手が私に向いた時は、さすがに恐怖を感じて身体が硬直したように動かなくなったけれど、真斗くんが「こいつは殴るな」と言ってくれたおかげで殴られずに済んだ。
これはきっと、真斗くんのわかりにくい優しさのおかげなんだと思う。ゴミでも見るような目つきの沢城さんは今一度私を睨むと、舌打ちをして部屋を出ていった。
あれだけ酷く怒られた後だというのに、私たちが反省したのは一瞬だけだった。鼻の両穴にティッシュを詰め、項垂れるイチくんと意地悪く笑う真斗くんの対比がおかしくて、ふふっと笑みが零れる。

「ひでぇ顔だな、イチ」
「いてェっす…」
「次は千葉まで行くか」
「俺、次はマジで殺されますって!」

いつか今日のことを思い出して、三人で笑って話せる日が来るだろうか。


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