トニック・ラブ

その人はいつも、23時を少し過ぎた頃に現れた。
夜なのにサングラスをかけていて、見るからに上等だと分かるスーツのジャケットを、夏でもしっかりと着こんでいる人だった。

「こんばんは」
「おう」

私がバイトをしていた喫茶店は、この辺りでは珍しく深夜一時まで営業している。いかにも喫茶店な外観と昔ながらのレトロな内装のおかげで、客層の年齢は高め。騒がしくなく、いつもゆったりした時間が流れていて、結構暇。そんなところを気に入っていた。
カウンターからトイレに一番近い端の席に彼が腰かけたのを確認すると、背後の吊り棚からオールド・ファッションド・グラスとウォッカを手に取り、静かに作業台へと並べた。平日のみ、20時を過ぎるとアルコールの提供もスタートするこの店で、彼が頼むのはいつもブラックルシアンだった。
氷、ウォッカ、コーヒーリキュールを順に、静かにグラスへと注ぎ、バースプーンで2回ステア。紙製のコースターを一枚、そっとカウンターに滑らせる。

「お待たせいたしました」

コースターの上に置いたグラスを持つ手は震えていなっただろうか。声のトーンは正しかっただろうか。ブラックルシアンを作ることには慣れてきたけど、彼を前にする時の私は、いつもそんなことばかりを気にしていた。

「ありがとうな」

関西独特のイントネーションとしゃがれた声は、何度聞いても心の奥がぞわりと波立つようで、慣れることはなかった。店主のヤマダさんや、数少ないバイト仲間から彼について聞いたことはほとんどないけれど、きっとこの人は怖い人だ。

そんな彼とは、少しだけ話したことが二度ある。

一度目は、深夜営業を一人で任されてまだ間もない頃だった。ヤマダさんから、23時頃に一人で来店するカウンターの端に座るサングラスをかけた男性客には注文をお伺いせず、ブラックルシアンを作るようにと言われていたのに、その機会は一向に訪れなかったので忘れてしまっていたのだ。
おしぼりをカウンターに置いて、いつまでも注文してこない男性客を少しだけ不審に思いながらも待ち続けていると、彼がゆっくりと視線を上げて目が合った時に漸く気付いた。

「…あ、ブラックルシアン」
「よう分かったな」

思わず口から漏れたカクテルの名前に、感心した様子の彼は続けて「ねえちゃんは最近この店入ったんか」と聞いてきたけど、怒らせてしまったのではと気が気でない私は、蚊の鳴くような小さな声で「はい」というのが精一杯だった。
慌ててカウンターの奥に引っ込み、レシピを書いておいたメモ帳を見ながらグラスやリキュールを用意していく。メモには『ジガーカップを使って量る』と書いてあるが、一体どこにあるのだろうか。カクテルはまだ数えるくらいしか作ったことないし、ブラックルシアンを作るのは今夜が初めてだ。というかジガーカップってなんだっけ?

「そこの、砂時計みたいな形のやつや」

顔を上げ、彼の指が差した先を辿っていく。そこには、彼が言う通りの砂時計みたいに真ん中がくびれた小さな計量カップがあった。彼はもしかしたら人の心を読めるのかもしれない。なんて少し現実離れしたことを考えながら、そうだ、これだったと手に取りお礼を言おうと再び顔を上げた私はまた、蚊の鳴くような声しか出なかったことをとてもよく覚えている。

「ありがとうございます」
「ちょっとだけ、リキュール多めで作ってくれるか」
「あ……はい」
「こう見えてもな、甘党なんや」

私の身体の熱は全て顔に集中してしまったんだと勘違いをしたくなるくらい、触れなくても分かるほどに頬は熱かった。少しだけ笑う彼が外したサングラスの奥から現れた瞳は、驚く程に澄んでいたから。


二度目は一度目から随分先で、私は店にあるコーヒーもカクテルもひと通り作れるようになっていた頃で、確か雨が降る夜だった。

「こんばんは」
「おう」

おしぼりと灰皿をいつもの席に置いて、ブラックルシアン作りへ取り掛かる。彼はこの日も仕立ての良いスーツを着て、サングラスをかけていた。今思い出したけれど、彼はよくこの席で本を読んでいた。その夜も着席すると同時にカウンターに置かれた文庫本は、カバーも無く表紙は反り返っているし端も折れ曲がっていて、随分と読み込まれている風貌だった。
いつも同じ文庫本なのか、彼が持つ本はすべてそんな扱いなのかは分からないけれど、どんな本を読んでいるのか、その日に限って私は気になっていたらしい。彼がトイレに立ったことを確認してからつま先立ちで覗いてみたけど、ここからでは反り返った表紙に書かれたタイトルが何なのかは分からなかった。思い切ってカウンター内から出て見に行くか? なんてことを考えながら上半身を倒していくと、トイレのドアが開く音がしたので慌てて元の姿勢へと正した。私はさっきから、何をしているんだろう。

日付がそろそろ変わろうとしている頃。ソファ席にいた2組の客が立て続けに帰ってしまい、店内には私と彼の二人だけになった。元々、この時間帯に来店する客は少ないので気にしたことはなかったけれど、彼が相手だと話は別だ。妙な緊張が体中を何往復も駆け抜け、そのもぞもぞした感覚を振り払うように、洗い物をするために二つ並びのシンクの片方にお湯を貯めていく。この時間帯は洗浄機を使うほど洗い物は出ないので、いつもこうして食器を下洗いしていた。ざあざあと蛇口から注がれる40度のお湯が水面を揺らし、ソーサーやカップの縁は歪んで見える。ただそこに揺蕩っているだけの頼りない存在の曲線は、彼に書籍名を聞こうか聞くまいかいつまでも決めかねている自分のようだった。

「痴人の愛や」

きゅ、と蛇口を捻ると聞こえた彼の言葉にぎくりとした。やっぱりこの人は他人の心が読めるのかもしれない。それとも、自分のあの奇行を見られていたのだろうか。だとしたら、結構死にたい気持ちになる。

「知らんのか。谷崎や」
「あ、えっと…分かります。読んだことないですけど」
「そうか」

やっぱりだめだ。彼に話かけられると、どんどん顔に熱が集まり平常心ではいられなくなってしまう。だから読んだことないとか、どうでもいいことまで言ってしまうのだ。つい数秒前の自分の発言をひどく後悔して俯いていると、席を立った彼は私に向かって文庫本を差し出していた。

「やるわ」
「えっ」

突然の出来事に思わず顔を上げると、彼の真っ直ぐな視線とぶつかる。本当に、瞳の色がきれいな人だ。誘われるように受け取ってしまうと、満足そうに彼は笑った。スーツのポケットから出したマネークリップで束ねられた数十枚の中から一枚抜き取り、溶けた氷だけが残るグラスをペーパーウェイト代わりに一万円札の上に置くと、背を向けてドアの方へと歩き出す。

「あの、」

なぜだかは分からないけれど、ここで声をかけなければこの人にはもう会えないと、この時の私は思っていた。きっと声も震えていたし、手には緊張のあまり汗をかいていただろう。

「読み終わったら、お返しします」
「……ほんなら、2年後。ここに取りに来るわ」

私の声に立ち止まり振り返った彼がこの店を訪れることは、この先一度もなかった。



大学卒業と同時に喫茶店でのバイトも辞めてしまい、就職した私は毎日を慌ただしく過ごす社会人になっていた。くたくたになるまで働いて、帰宅と同時にソファに倒れこむと襲ってくる睡魔と闘ったり。あの人を思い出すことは、ほぼ無くなっていた。
それから729日後の今日。スマホの画面に表示されたリマインダーのポップアップの内容に、わたしは首を傾げていた。

『あの人に本を返す』

………まさか。

引っ越してから一度も開けていない段ボールは、クローゼットの奥でうっすらと埃を被っていた。引っ越し会社のロゴが印刷されたクラフトテープを剥がすと、学生時代に集めていた漫画やCDの登場に少しだけ懐かしくなる。何冊か取り出していくと、一冊だけ古ぼけた文庫本が紛れていた。
絶対にそう。これだ。つい数分前までその存在すら忘れていたのに、妙な確信を持つと、その文庫本を通勤用のバッグに入れた。きっと遅い時間の待ち合わせだから、一度家に帰ってくるかもしれないけれど。

あの喫茶店は、大学を卒業してから数回だけ客として行ったきりになっていた。私を知る人なんてもういないだろう。少し緊張してドアを押せば聞こえた、ちりりんと鳴るドアベルの音と古ぼけた内装は、この店だけ時間が止まっているように変わらずにそこに居た。

「おう」

この場所からその二文字を聞くのは初めてだったが、あの人で間違いないと思う。最後に会った日と変わらず、彼はカウンターの端に座り、上等なスーツを着ていた。
一歩、また一歩と彼に近づく度に鼓動の速さが増していくのが分かる。カウンターの向こう側にいた時は気付けなかったけれど、今なら分かる。私は、彼に惹かれていたのだ。

「こんばんは」

あの日と同じ言葉で彼に挨拶をしてから、かつての自分のようにカウンターの内側にいる店員へこう言った。

「ブラックルシアンを。リキュール少し多めで」

嬉しそうに笑った彼に、まずは名前を聞いてみようと思う。彼もきっと、私の名前すら知らないはずだ。


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