暑気中り

メールの送信ボタンをクリックして数秒後。パソコンの画面に映し出された送信完了の文字に、最後のクライアントへの納品完了を確認すると、ダイニングテーブルにぐしゃりと突っ伏した。本当に長かった、辛かった、頑張った、たいへんよくできました。そんなふうに健闘を称え合う相手もいないし、適切な評価をしてくれる所属組織もないから脳内で自分を労って終わりだけど、それはそれで悪くない。少し浮かれた足取りでキッチンへ向かえば、冷えたあいつがわたしを待っているのだ。
長年勤めた会社を退職し、フリーランスという働き方を選んでからというものの、大型案件を終えた後に飲むビールの美味しさに気付き、平日の明るい時間からアルコールを摂取する罪悪感は秒で消えた。缶を右手にベランダの前まで歩き閉めっぱなしだった遮光カーテンを開けると、今の晴れやかな私の気持ちを汲んではくれず、空は見事な曇天だった。

かちり、と玄関ドアの鍵が回る音に、そういえば昨日は風呂に入っていないなとか、今着ているのは昔好きだったバンドのTシャツにウエストのゴムが緩い毛玉だらけのショートパンツだし、すっぴんメガネで髪はおだんごという死ぬほどダサい格好だから着替えたいなとかそんなことばかりを考えていたせいで、まずはこの右手に持っている缶ビールをどうしようかという考えには至らず、自分史上最悪な姿で彼を迎えてしまった。

「…終わったのか」
「おかげさまで」

月末まで忙しいですと伝えてから今日まで、約4週間。彼からの連絡はメールが1通来ただけで、私はそれに返信すらしていなかった。別に忘れていたわけじゃないですよ、ほんっとーに忙しかったんですつい数分前まで! と、用意した言い訳をここで披露できるほど案外私は図太くないようで、口から出たのは「今日は随分早いですね」という、昨日も帰りを出迎えた妻のような言葉だった。もちろん私は彼の妻ではない。昨日はお昼に何を食べたのか、何時に帰宅したのかも知らない。
彼の視線は私の右手に注がれていて、少しだけ居心地の悪さを感じる。何となく俯いてみれば、彼の左手には成城石井の紙袋と白いビニール袋がぶら下がっていた。

私の仕事なんてパソコンとスマホが一台ずつあれば大抵のことはできるけど、柏木さんの仕事のことはよく分からない。なんか、いつも大変そう。朝早くに出かけて深夜に帰宅したり、出張なのか何日も帰ってこなかったり。あとは今日みたいに、丸鶏片手に突然こんな時間に現れたり。私の左横をすり抜ける時に見えたビニール袋の中身は、明らかに羽を毟られて解体される前の鶏だった。

「今日、何食った」
「菓子パンを、ひとつ」
「他は」
「あー……」

キッチンへと向かう彼に、エナジードリンク2本とコーヒー3杯、煙草を少々。なんて笑って言えたらいいのだけれど。少しだけ深まる眉間の皺とシンクに向けられている視線に「食べてません」と素直に答えた。

「どうして食わないんだ」
「なんか、夏バテ気味で」

柏木さんはいつも正しく、きちんと生きて生活している人だ。毎朝決まった時間に起きて朝食を食べて、使った食器を洗ってから家を出る。わりとよく食べる方なのに体型は変わらないし、風邪をひいたところも見たことがない。
一方の私は就業時間はその日の気分で決めるし、休みの日は昼まで寝てしまう。深夜の間食はやめられないし、貰い物の日本酒やラベルの可愛さだけで選んだ安物のワインを飲みすぎて二日酔いにもなる。季節の変わり目には必ずと言っていいほど風邪をひく。仕事の納期が重なったり、調子がいい時に食事をとることも忘れて没頭してしまうのも、たぶん柏木さんには理解しがたい行動なんだと思う。
ちょっとだけわざとらしい溜息の後に換気扇のスイッチを入れて煙草に火を付けた彼は、まだ不機嫌そうに細められた目で私を見ている。その顔、色っぽくて好きですよなんて言ったらもっと叱られそうだから、喉の奥にしまい込んでおく。

「何作るんですか?」
「食わねぇくせに聞くのか」
「柏木さんが作った料理なら食べます」

まだ二、三口しか吸い終えていない煙草を灰皿に押し付けてキッチンから出た柏木さんは、私の前に立つと「少し寝てこい」と目の下をするりと親指で撫でた。たぶんクマができているんだろうなと彼の仕草と言葉で理解できたし、先ほどから睡魔が私の肩をとんとん叩いてくるけれど。久しぶりに会えたのだから、寝てしまうなんてもったいない。

ガスレンジ下の収納から彼が取り出したパスタ鍋は確か、結婚式の二次会のビンゴ大会で貰ったやつだ。お湯が沸くまで時間がかかるし洗うのも面倒なので、私は一度しか使っていない。必要最低限の調理器具しか置いていないキッチンで若干浮いた存在になりつつあるパスタ鍋を見て、彼はボソッと「豚に真珠」と言った。聞こえてるんですけど。

「あげますよ、それ」
「持って帰ったらここで何も作れなくなるだろうが」

おかわりのビールを取りにキッチンへ行くと、彼が新しいビールを2缶冷蔵庫から出している。一つは作業台に置いて、もう一つの缶のプルタブを起こした柏木さんは、私が手に持ったままの空っぽの缶に乾杯をするように軽くぶつけてひと口飲んだ。袖口のボタンを外して何度か折り返して捲ると、もうひと口。今日はもう、仕事をしないのだろうか。

ボウルに紙袋から取り出したもち米をざばっと入れて水に浸すと、今度はまな板と包丁を用意して長ネギの白い部分を千切りにしていく。
とっとっとっと、とリズミカルな音を立てて刻まれていくネギの細さに私が感動していると、少しだけ彼の口角が上がったのでたぶんもう機嫌は直ったんだと思う。
ネギを小皿へ移すと、がさがさとビニールの擦れる音と共に丸鶏がまな板の上に現れた。シンク下の棚から出されたもう一本の包丁は、柏木さんに買ってもらったものだ。ホームセンターで買った1本1000円くらいの包丁を何年も使っていた私に「そんなもん使ってるから男に騙されるんだ」と渡された、三徳包丁。あの時、まだ私と彼はビジネスに毛が生えたような関係だった。
それが今では連絡も無しに家へと訪れ、参鶏湯まで作ってくれる間柄なのだから、人生何が起こるか本当に分からない。

まな板の鯉ならぬ、まな板の鶏の首、手羽先、ぼんじりを切り取ると腹の内側を水で洗っていく。何度も何度も繰り返し洗い、キッチンペーパーで水気を取る彼に塩の場所を聞かれたので冷蔵庫と答えると、怪訝な視線を投げられた。どうやら、塩の保管場所は冷蔵庫ではないらしい。
ザルにあけて水気を切ったもち米を半量と、ナツメ、にんにく一片、栗を2つ、そして残りのもち米をかぶせると、竹串を何本か刺して封をしていく。最後に足を交差させて、タコ糸で結ぶ。うーん、なんかちょっとエロく見える。疲れているのだろうか。
鍋に色っぽい鶏と先ほど切り落とされた首と手羽先、ナツメ、しょうが、にんにく、高麗人参、ネギの青い部分などをぽいぽい入れて、どばどば水を入れて火にかけると彼は再び缶ビールを手にした。

「…時々なんだが」
「はい」
「こういう工程が多い料理が作りたくなる」
「仕事で何かありました?」
「何がってわけじゃねぇけど」

煙草に火を付けた彼は、吐き出した煙に溜息を乗せているように見える。柏木さんがこんな手の込んだ料理を作る時は決まって、ストレスが限界突破する寸前なのだ。

「会議中に、全員死ねと思う時がたまにある」
「私なんてほぼ毎日そう思ってますよ」
「誰にだよ」
「柏木さんとの時間を邪魔する人全員に、とか」
「そう言うわりには連絡ひとつ寄越さなかったじゃねえか」

吸気口に吸い込まれていく白い揺らめきを目で追いながら少しだけ笑った彼の隣に立ち、鍋の底に沈む鶏を眺めた。ふいに訪れた沈黙に気まずさはないけれど、玄関で右手の中身を凝視された時と同じような居心地の悪さを感じる。

「飯が食えねえ理由、他にもあるだろう」

顔を上げると、彼は壁面のフックに引っかかっているレードルを手にしているところだった。どうしていつもそんなに余裕なんだろう。最初から柏木さんは全部分かっていたんだと、私は今、漸く気付いたのに。

「……一ヶ月くらい前に、恵比寿で打ち合わせがあったんですけど」
「おう」
「その帰りに、その……女の人と一緒にいるところ、見ちゃって」
「…俺が?」
「はい」

絶対に言わずにおこうと思っていたのに、結局こうやって口に出してしまったのは、ここ一ヶ月分の疲労とやけに回りが早いアルコールの所為にしてしまおう。私が言いたいことはもう言ったから、鶏と同じように、さっさと茹で殺してほしい。だって柏木さん、慌てる様子なんて微塵も見せないし、何なら「見てたなら声かけろよ」なんて言うし。

「大吾が、結婚するんだと」
「…へぇ。おめでとうございます」

挙句の果てには何もなかったかのようにスルーされて、別の話題をぶっこまれた。もう柏木さんが大人すぎてついていけない。私はずっと自分のことばかり考えていて、子ども過ぎる。茹で殺しだけでは足りない。茹でた後に醤油ぶっかけて鬼に食べてもらわないと。

「だから、三人で飯食ってた。たぶんその日だと思う」
「…あ」
「お前が見たのは大吾の嫁だ」
「すごく、綺麗な人でした…」
「だから連絡してこなかったのか」

うん、と頷くと柏木さんは缶の中身を飲み干して、私の持っていた缶も取り上げて作業台の上に置いた。ん? と思って見上げると彼の両腕に捕らえられたので、素直に身を委ねてみる。アルコールが巡る彼の身体は、少しだけあたたかい。

「そういうのは言われんと分からん」
「言えるわけないでしょう、そんなの」
「俺は、お前に愛想を尽かされたんだと思ってたんだが」
「…まさか」

力の入った両腕に、彼がこれだけ手の込んだ参鶏湯を作りたくなる原因の一端を自分が担っていたことを反省したし、安堵した。彼に少しだけ、近付けたような気がしたからだ。
彼の腕の中でもぞもぞと動き、かけっぱなしだった眼鏡を外して作業台の上に置く。ぐっと背伸びをして唇に触れれば、欲しかったものが降ってくる。
ごめんなさいとか、うれしいとか、あなたが好きですという最大限の気持ちを自分の舌に乗せて、彼の咥内に置いてくる行為を繰り返して、脳までとろけそうになった頃。彼に再び「少し寝てこい」と言われてしまう。
そういえば参鶏湯はこの後2時間くらい煮込んで、ひたすらアク取りしなければならなかったのだと思い出して、軽く絶望した。
とりあえず、風呂に入ろう。


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