渚にて幻

倒れた観葉植物の鉢から零れた土を踏まないように廊下を歩き、リビングへ続くドアを開けて今日は一段と酷いな、と出そうになった溜息を押し込んだ。溜息なんてつこうものなら、ローテーブルの上にあるボトルの中身が自分目掛けて飛んでくる。それで一度、気に入っていたワンピースが赤ワインまみれになったことがあるので、今日はデニムとファストファッションブランドのカットソーに着替えてからここに来た。
3つある間接照明のうち、生き残ったのはテレビボードの上にある1つだけ。薄暗い部屋の中、彼はソファに座ったまま何も映していないテレビ画面を見つめている。

昔から真斗くんが癇癪を起こすと、父親である荒川さんですら手に負えなかった。自由に身体が動くようになった今、こうやって部屋中のインテリア製品を破壊して深酒する彼を何度か見てきたけど。本当に、今日は酷い。
昔、荒川さんに言われた「真斗のことを頼む」は、このぐしゃぐしゃになった部屋の片付けも含まれていたのだろうか。まずは割れたLED電球から拾い集めようと、用意した紙袋に欠片を3つ入れたところで漸く彼の声がした。

「飲めよ、お前も」
「少し片付けたら貰うよ」
「聞こえなかったのか。早くしろ」
「ぅわっ……分かったよ、もう」

今日はラグも捨てなければいけないなと、足元に飛んできたボトルの口から垂れた赤色を吸い込む密度の高い羊毛で出来た正方形を見つめてから、ワインセラーの前に立つ。何を飲むかと聞けばどれでもいいと返事が来たので、零しても汚れが目立たないという理由をつけて白ワインを選び、ソファに座る彼の隣に腰を下ろした。
コルクを開けるのに手間取っていると、苛ついている様子の彼にボトルとオープナーをひったくられる。この空間と雰囲気に対してかなり間抜けな、きゅぽん、という音がして開栓されたワインは、グラスにどばどばと注がれていく。

「覚えてるか。昔、3人で江ノ島まで行ったこと」

あれだけ部屋を荒らしたのに、私に用意されていたであろうグラスは割られずにローテーブルの上に置いてあった。それは偶然なのか、彼の僅かな優しさの表れなのか、どちらかは分からないけど。グラスの縁を合わせるような乾杯はせず、いただきますと小さく呟き、ひと口含んだ。

「うん。覚えてるよ。二学期の終業式の日」
「ガキだったお前と、俺とイチで……最初で最後だったな」
「次が無かったのは、荒川さんに怒られたからだよ」
「イチは沢城に……殴られてたな」

あの日。子どもだった私の、子どもみたいな願いを真斗くんが叶えてくれた。3人で初めて東京を出て、江ノ島まで海を見に行った。真斗くんを勝手に連れ出したと、イチくんと私は荒川さんと沢城さんに物凄く怒られたけど。

「でも、真斗くんが助けてくれた。俺が言い出したんだ、って」

本当は、私が海に行きたいって言ったのに。

「覚えてないな」

彼は、私とイチくんを庇ってくれた。


彼がまだ荒川真斗だった時の、もう二度と戻れない、私たち3人の心が一瞬だけ通い合ったあの日。微かに芽生えた友情と愛情は、切り裂いたクッションから飛び散る羽毛のように脆くて、儚くて。10日後の事件によって、風に飛ばされ姿を消した。

「……明日、イチが出所する」
「……うん」
「絶対に会うな」

イチくんが刑務所に入ってから18年。真斗くんの口から、彼の名前を聞くのは今夜が初めてだった。名前を変えて臓器を入れ替え、身分を偽っても。この人の根底にあるものは変わらない。
自分の好きなように人を動かして、見下して、傷つけて。埋まらない寂しさを埋めようとしたり、絶対に裏切らない何かを求めるあまり攻撃的になって、その愛情を確かめようとする。
そんなことをしなくても、誰もいなくなったりしないのに。何度そう伝えても、私の言葉と行動では彼に届かない。

「……分かった」

真斗くんは、イチくんの太陽みたいな笑顔と、その瞳が映す先にいるのは荒川さんなのが、ずっと嫌だったんだと思う。イチくんの前で楽しそうに笑う荒川さんを見るのも、それが自分には出来ないのも。
見知らぬ少年だった頃のイチくんの為に指先を落とし、血縁者でもない私とその家族の面倒を見る、人としての器の大きさや懐の深さというものが父親にはあって自分には無いことも、たまらなく嫌で。
だから荒川さんとイチくんを遠ざけて、何も持たない私と、何も言わない沢城さんを傍に置いているんだろう。

「名前は、親父に頼まれたから俺といるのか」
「違うよ。荒川さんは、関係ない」

ただ、過保護な愛情で守られるだけの生活から、逃げたかったんだと思う。私は大人になるまで、それに気付いてあげられなかった。

「どんなことがあっても、ずっと真斗くんと一緒にいるから」
「18年前に本当は何があったのか知っても、そう言えるのか」

初恋相手だった彼を今でも好きかと聞かれれば、違うと答えると思う。彼に対しての、この名前のない感情が何なのかを明確にすることは、もうやめた。

「言わなくていいよ、そんなこと」
「……そうか」

彼はそれ以上、何も言わなかった。

数年前から簡単に会える人では無くなってしまったけど。今夜のように呼ばれたら部屋を片付け、お酒も少し飲んで、ちょっとだけ会話して。欠片になった彼の心を、私は拾い集める。

何度だって。


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