クロノスタシス

自宅とは反対方向の終電に乗るのは、どうしてこんなにわくわくするんだろう。それはこの夜にまだ続きがあるからなのか、これから会う人のことを思ってなのか。たぶん、両方だ。
疲れた顔でスマホの画面を見つめていたり、目を閉じて電車が生み出す揺れに身を任せている大人達の隙間で、鞄から鏡を取り出して再度前髪を整えた。ふと対面の座席にいる女の子に目がいく。私と同じように鏡を手にした彼女は、リップを塗り直していた。
きっとこの後、好きな人に会うんだろうな。
同志がいるような妙な嬉しさを感じながら二つ先の駅で降りると駅前のコンビニに入って待つようにとの連絡が彼からあったので、改札を出て右に進んでいく。この駅で降りるのはまだ二回目で改札から先を一人で歩くのは初めてだったけれど、目当てのコンビニが見つかり、着いたことを知らせるためにスマホを鞄から取り出す。文字を打ちながら、ぐるりと店内を一周してから雑誌コーナーへと落ち着き、送信マークをタップすると、すぐに返事が来た。

『あとごふんでつく』

彼らしい全部ひらがなのメッセージに返事をして買い物かごを取り、歯ブラシセットを一つ入れる。前回買ったものは持って帰って、今日持ってくるのを忘れた。あとはミネラルウォーターとお酒も、もう少し飲みたいなと思い飲料コーナーへと向かう途中で店外の暗闇に彼の姿を見つけて、少しだけ鼓動が早くなる。

「おつかれ」
「早かったですね」

トレードマークとも言えるあの赤いスカジャンに身を包み、五分も経たずにやってきた城戸さんの家に行くのは今日で二回目。会社の飲み会後の、こんな時間から会うのは初めてだった。

「冴島さんがさ、乗っけてくれて。車」
「送ってもらったの?」
「うん。こんな時間に女の子一人にすんなって怒られたけど」
「なんだか申し訳ないです」
「ごめんな、俺がそっちまで迎えに行ければよかったんだけど」
「ううん。そしたらもう電車無かったと思うから」
「まぁ、確かに」

まだ歯ブラシしか入っていないカゴをとても自然な動作で私の手から外すと、中身を元あった場所に返してしまった。その意味が分からずにいると、城戸さんはちょっと照れくさそうな顔をする。その顔、可愛いって分かってるのかなぁ。

「この前買っといたからあるよ、うちに」
「歯ブラシ?」
「うん。名前ちゃんまだ飲める?」
「飲めます」

冷蔵ショーケースを開けて缶ビールをぽいぽいカゴに入れた後に、以前私が好きだと言った白ぶどうのチューハイを手に取っていた。こういう些細なことでも城戸さんは覚えてくれているから、きっと冴島さんにも気に入られているんだろうな。

「なんか新しいの出てるよ。リンゴだって」
「ほんとだ」
「いる?」
「うん」

もう一つ缶をカゴに入れ、冷蔵ショーケースの前からすぐ近くのつまみが置かれた棚の前に移動する城戸さんの隣で、歯ブラシを買いに行く彼の姿を想像してみた。ドラッグストアかドンキか、もしくはこのコンビニかもしれない。かためとやわらかめ、どちらを選んでくれたのだろう。


城戸さんと恋人同士になってから、色んなことが分かった。
ビールはアサヒ派、ポテチはうすしお、甘いものはちょっと苦手。朝は弱くて、家に着いたら最初にするのは靴下を脱ぐこと。あと私と一緒で、うずらの燻製が好き。今まで見えてこなかった彼の私生活の部分を知ると、また一つ、もう一つと距離が縮まった気がして嬉しくなる。
スナック菓子をいくつかと、棚から二つうずらの燻製を取ってカゴに入れた城戸さんに他に欲しいものはあるかを聞かれたので、無いと答えてレジへと並ぶ。
コンビニを出ると、ひんやりした風が頬を撫でた。すっかり春の陽気だけど、夜はまだ少しだけ冷える。そういえば今朝見たニュース番組で、この寒暖差が、桜の開花には必要だと言っていた。

「もう開花したのかな、桜」

歩きながら独り言みたいに呟くと、隣からがさがさとビニール袋が擦れる音と、かしゅ、と缶のプルタブを起こす音の後に

「……見てく?」

ちょっと遠回りだけど、と続ける城戸さんに、私は大きく頷く。

「うん。見たいです」
「じゃあ行こ」

持っていた缶ビールを右手から左手に持ち替えた彼に手を繋がれ、今夜初めて彼を見た時と同じように鼓動が高鳴っていく。彼は今、どんな気持ちなんだろう。私と同じだと、いいな。

「名前ちゃんの手、あったけー」
「お酒飲んだからかな?」
「なんか子どもと手ェ繋いでるみてぇだな」
「ひどい」
「ごめんって」

笑いながら、きゅ、と少しだけ私の指の間を埋める城戸さんの指に力が入る。三回目のデートで行った居酒屋でお互いに酔った勢いで掌を合わせてみた時も、小さくて子どもの手みたいだと言われた気がする。確かに、私の指先は城戸さんの手の第一関節にすら届かない。
そういう時は、かわいいという言葉で形容してほしいのに。必ず車道側を歩いてくれたり、買い物をした時に自然と荷物を持ってくれる男らしさがあるのに、女心を分かっていないのがちょっとだけ歯がゆい。けれど、そこが城戸さんらしさなんだとも思う。


「とうちゃーく」
「わぁ……きれい」

小さな公園に植えられた桜の木は満開では無かったけれど、公園の外からでも分かるくらいには開花していた。来週には満開になりそうなそれを見上げながら、彼を盗み見る。寿命が近い街灯の蛍光灯が弱々しく、ゆらゆらと揺れながら照らす城戸さんは、とても優しい表情をしていた。
私の視線に気付くと目が合い、何となく彼が醸し出す甘い空気に目を閉じる。ほのかに香る煙草の匂いと、湿った薄い唇はちょっとだけビールの味がした。

「城戸さん、クロノスタシスって知ってます?」
「あ?なにそれ」

触れるだけの短いキスの後、何となく照れ隠しで下を向いた私がそう言えば、彼は飲み終わったビールの缶をくしゃりと潰して、白いビニール袋へ入れながらこちらを覗き込む。

「時計の針が止まって見えるっていう、現象のことらしいです」
「へぇ……くろの、した?すし?」
「クロノ、スタ、シス、です」
「舌噛みそう」

何気無い日常の何でもない夜の散歩と、くだらない会話だけど。城戸さんと一緒なら何だって楽しいし、どれにも意味があるんじゃないかと思う。そんなことを本人に言うのは恥ずかしいから、繋いだ手から熱伝導のように彼に伝わらないかなぁ。なんて考えながら少しだけ彼に身を寄せたら、肩をびくりと跳ねさせていた。ちょっと、おもしろい。

「城戸さん、まず家着いたら靴下脱ぐでしょ」
「え、何で分かんの」
「ふっふっふ」
「好きなんだよ、裸足でいるの」
「冬はどうしてるんですか?」
「気になる?」
「うん」
「なら冬まで一緒にいれば分かるよ」

たまには散歩もいいなぁとか城戸さんは呑気に言いながら歩き始めたけど、冬までじゃなくてずっと一緒にいましょうよと仕返しのように私が言えば、コンビニで歯ブラシを棚に戻していた時と同じ顔をしていた。

寝る前に渡されたのは彼と色違いで、硬さはふつう。ちなみにドンキで買ったそう。


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