Quick&Dirty

この人を嫌いになれない自分が嫌いだ。

「明日は朝、遅いんですか」
「いつもと変わらない」
「そう、ですか」

聞きたくはないけれど、彼からの「そろそろ帰るか」はどれだけ待っても今夜は訪れない。バーのカウンター席で私の右隣に座り、ただロックグラスを傾けているだけだ。
彼の左手首にある時計は正確に時を刻んでいるし、終電だって時間通りに駅に到着するだろう。変わらないことなんて何もないはずなのに、今夜の私はいつもと同じ気持ちではいられなかった。

随分長い片想いをしている。それは、彼の同僚…いや、私の飲み友達のちょっと騒がしくてヘンテコな関西弁で話す男性によると「アレは魔界村の3面くらい難攻不落なオッサンやでェ」ということなので、振り向いてもらうには相当な努力が必要なんだと思う。
彼の好みの女性を例の飲み友達から聞き出し、ファッションやメイクを変えれば「似合ってない。いつもの方がいい」と言われるし、リニューアルしたレコードショップに行こうと誘えば「先週行ってきた」と断られた。
彼が好きな作家の初版本を神田の古本屋で半日かけて探してプレゼントすれば「金と時間は自分のために使え」とちょっぴり叱られたので、さすがにその日は心が折れかけた。
だけど、女として見ていないわけではないらしい。友達曰く、彼の性格上ビジネスの付き合いも無い異性と何度も飲みに行くことなどありえないそうだ。そんな言葉を真に受け、帰り道にすれ違う人とぶつかりそうになった私の肩を抱き寄せたりする彼に、何度も期待してしまう。そして毎回、何もないまま帰宅するだけだ。

いっそのこと嫌いになれたらいいのに。そんな言葉で掃いてしまえるほど、彼に向けた感情は軽くない。後悔した頃にはもう遅かった。どうしようもなく彼のことが好きだと、どれだけ心の中で叫んでもこの苦しさからは解放されない。降り積もる埃のように、ただ自分の中に居座り、蓄積し続けている。

「えっと、今日は遅くまで飲む感じですか」
「どうしてそんなこと聞く」
「だって、もうすぐ終電、だし…」
「そうか」

私が投げたパスは彼に受け取られることなく、何度かバウンドしてころころと何処かへ転がっていった。今日の彼は何を考えているのか全く分からない。私の終電の時間は知っているはずなのに、帰る準備をする素振りがないどころか、新しい煙草に火をつけている。
仕事で嫌なことでもあったのだろうか。ただ、いつもより多くお酒を飲みたいだけ? 何を考えても落ち着かないからと口をつけたグラスの中身は、溶けた氷で味が薄まっていてあまり美味しくない。
グラスをコースターの上に戻していると、深く長い彼の吐息が右頬にかかる。煙草の煙に少し咽ていると隣からは小さな笑い声が聞こえた。思わず彼を見上げるが、酔っている様子はない。だけど、こんないたずらじみたことをされるのは初めてだ。

「もう一杯飲むか」
「…でも、そうしたら」
「終電に間に合わない、か?」
「はい」
「どうするかはお前が決めろ」

どうするって、何を。本当は自分で考えなければいけないのだろうけど、子どもな私は早くその意味を知りたい。だって自分で考えてしまえば、都合よくその意味を受け取ってしまう。もう惨めな気持ちを抱えて家に帰りたくない。黙り込む私を彼はじっと見ていたけど、飽きたのかカウンターの内側にいる店員を呼んだ。

「おい。どうするんだ、早く決めろ」
「え。あ、はい」

強制的に選択する場を用意されてしまい、終電で帰ることよりも彼と一緒にいる方に軍配は上がった。タクシーに乗って惨めな気持ちで帰宅するというオプション付きではあるけど。
彼が贔屓にしている店に行くことが多いけど、時々は違う店で飲んだりもする。だけど、どこへ行っても彼がオーダーするのは決まってジャック・ダニエルだった。私には、苦くて焼けるような熱を持つ、このお酒の美味しさが分からない。
隣で傾いていくロックグラスと、上下する喉仏に妙な厭らしさを感じ、見てはいけないものを見てしまった気分になる。アルコールのせいじゃないのに火照る頬を、グラスに触れて冷えた指先で冷ましてもあまり意味はなかった。

「なんか、変です。今日の柏木さん」
「何がだ」
「いたずらみたいなこと、するし」
「ほう」
「それに……」
「もったいぶるな。早く言え」
「…帰りたくないみたい、です」

静かに流れるジャズと、店員が持つシェイカーが振り動く音の心地良さ。彼と出会うまで、騒がしいお店でしかお酒を嗜んだことがなかった私は、ここへ初めて連れてこられた時、妙に大人になったような気がした。背伸びをしたいわけじゃない。ただ、彼に少しでも近づきたいだけだ。
なのに、私は彼の中でまだいたずらをしかけても平気な子ども、という扱いなのだろう。私のスマートフォンがこの大人な雰囲気をぶち壊すように鳴り響いても、彼は意地悪く片方の口角をわずかに上げて私を見ているだけだった。

「もしもし…新宿で、飲んでます…誰って、まあ……そうですけど。え?」

電話の向こう側にいる人物は、今どこにおるん。ほぉーん、誰と一緒におるんや。当てたるわ。柏木のオッサンとおるんやろ。やっぱりな。どうせ盛り上がっとらんのやろ。ほな今からゴロちゃんもそこ行ったるわ。と、まあ相変わらずこんな感じで捲し立ててくる。正直、電話に出るんじゃなかったと後悔したけれど、出るまでかけ続けてくるので結果としては同じか…と諦めて相槌を打つ。
また次回に。今日はもう遅いので。来なくていいです。という私の言葉は全く届いてくれない。横目に見た柏木さんは腕時計で時刻を確認していて、明らかに退屈している。早急に電話を切りたくなった。



「邪魔するな」

何が起きたのだろうか。突然伸びてきた彼の腕がスマートフォンを奪い取り、後でかけ直します、という私の言葉はゴロちゃんことダル絡みをしてくる真島さんに届くことはないまま通話は終了した。
訳が分からないので彼を伺い見ても視線が合うことはなく、渡されたスマートフォンをされるがままに受け取った。

「あいつが来たら面倒くさいことになるだろうが」
「どうしてですか?」
「お前な…口説かれてるんだからそれぐらい察しろよ」
「それで口説いてたつもりですか?」

嘘だ。絶対に嘘だ。いたずらみたいなことをするし、帰ろうとしないし、退屈そうにするし、突然通話に割り込んでくるし。おまけに口説いているだと…? 今日の私は柏木さんにとことん振り回されている。そうに違いない。
だけど果てしなく長い一方通行だと思っていた感情は、何の前触れもなく彼によって首に手をかけられてしまったようだ。

「お前、俺を振り回して何が楽しい」
「振り回してるのは柏木さんじゃないですか」
「じゃあ聞くが、俺が促さないと帰ろうとしないお前はどうなんだ」
「…それ、は」
「放っておけば付いてくるくせに、追いかけると逃げるのはどうしてだ」

本当は飛び上がりそうなくらい嬉しいはずなのに、素直に認められなくなっているのはなぜだろう。彼の言う通り、追いかけられると怖気づいて逃げていたのかもしれない。だけど、彼を振り回していたという自覚はない。
ロックグラスを傾けていく彼はそのまますべてを飲み干すと、ぐっと距離を縮めてきた。

「悩んでるとこ悪いが、終電行っちまったぞ」
「え!」

カウンターに置きっぱなしにしていたスマートフォンの画面で時刻を確認すれば、終電は二分前に発車している。どうしよう。そんな顔をした私を見て、彼は笑っていた。だけど全然笑いごとじゃない。

「なあ、どうする」
「なにがですか」
「俺の家か、ホテルか。どっちにする」

やっとスタートラインに立てたと思っていたのに、究極の選択を突き付けられた。だけどまぁ。私の答えは決まっている。

「近い方で」



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