ほどけた靴紐 1

1938年、夏。祖母が亡くなった。
彼女は息を引き取る間際、私に不思議なことを伝え、小さな鍵を手渡してきた。家族は皆、認知症の症状だからと気にもとめていなかったけれど、私には何かが引っかかる。

『もう一度だけ、ジョジョに会いたかった』

その名前は既にこの世にはいない彼女の伴侶、私にとっては祖父のものではないのだから。


溌剌とした声で私の名を呼び、料理と裁縫を教えてくれた祖母が大好きだった。母に叱られ、めそめそ泣く私にこっそり作ってくれたフラップジャック。驚かせようと背後から抱きついた時の、シャボンの匂いがする笑顔。そのどれもが優しく、時には厳しく私の成長を見守ってくれていた。
明日、祖母の遺品整理が父と母によって始められる。その前に、私は彼女が最後に託したこの鍵がどんな意味を持つのか知りたい。ゆっくりと手をかけた真鍮製のドアハンドルは、変わらず鈍い音を立てて私を祖母の部屋へと招き入れた。

整理整頓の行き届いた部屋は、祖母がいた時と何も変わらず目の前にある。ミシン台、本棚、机、それからベッド。何度も訪れた場所だけど、机の引き出しを開けるのは初めてだ。少し緊張しながら、そろりと持ち手に指を引っかける。中から出てきたのは二枚の写真と、一冊の日記帳だった。
一枚目の写真は随分と色が褪せている。結婚したての頃の写真だろうか。祖父と祖母しか写っておらず、二人とも若々しい。もう一枚は、私も撮ったことを覚えている家族写真だった。
私が祖母から託され、今持っている鍵はこの日記帳のものだ。なぜか直感的にそう思った。祖母がどうして日記をつけていたのか、どうして家族の中の私にだけそれを伝えようとしたのか。謎はきっとこの中にあるのだろう。
ポケットの中から鍵を取り出し、小さな鍵穴へと差し込み、くるりと回す。かちゃり、と音を立ててベルトは外れる。
本当に、私がこの中身を見ていいのだろうか。日記というのは人に知られたくないことを書くものだし、私だったら家族に自分の日記を読まれたら恥ずかしくて消えてしまいたくなる。
家族が言うように、認知症の症状だったのかもしれないし…と、ここへきて迷いが生じる。あの時、祖母のものとは思えないほど、最後に握った彼女の手は小さく弱々しい力だった。だけど、その目は思考が鈍る老人の目ではなく、何かを人に託す、強い信念を感じられた。
意を決して、表紙の縁を持つ。随分使い込まれた日記帳だと思っていたけれど、日付を見て驚いた。ここ数年のものではなく、祖母が女学生の頃だ。
一行ずつ丁寧に読み進めていく。そこには学友との楽しい思い出、先生や男の子の悪口なんかが書かれていて、思わずくすりと笑ってしまう。祖母にもこんなふうに青春を謳歌していた時代があったのだ。今の自分と似通う部分があって、より一層、祖母と仲良くなれた気がする。そんな調子で、次々ページを捲っていく。母に夕食の準備を手伝うようにと声を掛けられるまで、私はずっとそうしていた。

夕食を食べ終え、自分の部屋へとこっそり持ち帰った祖母の日記を再び読もうと、ベッドに寝転がる。最後の三ページの内容が、どうしても気になってしまう。そこには、祖母の叶わぬ恋心が綴ってあったからだ。祖父ではない、別の誰か。
頭にふと、祖母が最後に言っていた『ジョジョ』という言葉が浮かぶ。この人に会えば。話を聞けたら。私の頭の中はそんな考えでいっぱいになっていく。
夏休みが始まったばかりなのにまだ何の予定もない私は、明日は図書館に行こうと決めて就寝の準備を始めた。

朝から出かけようとする私を不審に思い、じっと見つめてくる母にカモフラージュのための勉強道具を詰め込んだ鞄の中身を見せ、急いで家を出る。そう遠くない図書館まで歩くのに、夏の日差しが降り注ぎ始める前でなければ私は暑さできっと諦めていた。
図書館なんて、来るのは何年ぶりだろうか。目的のものはあるのだろうか。少し緊張しながら司書に質問すれば、館内の奥にある資料室を案内された。探しているものが見つかりますようにと、祈るような気持ちで音を立てないよう静かに歩く。
ジョースターというファミリーネームには、聞き覚えがあった。私が生まれるずっとずっと前、家の近くには大きなお屋敷があって、火事で燃えてなくなってしまったらしい。祖母ではなく、生前の頃の祖父がよく話していた。仕事であのお屋敷によく出入りしていたと、確かそう言っていた気がする。
資料室のドアを開けると、図書館内よりもずっと濃い、褪せたインクの匂いが鼻を突く。新聞のバックナンバーがびっしりと並ぶ棚から、西暦と日付を確認しながら二、三部取り出す。空いている机に置き、椅子へと腰掛け一面から順に記事を見ていく。
……あった。地方版のいちばん目立つ箇所に大きな見出しで『ジョースター邸 火災』と書かれている。このお屋敷の主であるジョージ・ジョースター卿は亡くなってしまったけれど、息子のジョナサンは無事だったらしい。
この人が、祖母の日記に度々名前が出てくるジョナサンだ。彼の生存を確認できてホッとした私は、さらに別の新聞にその名がないかを探すことにした。

だけど、探しても探してもそれ以降、新聞にジョナサン・ジョースターの名前が載る記事を見つけることはできなかった。約一年分の新聞記事をチェックし、もうそろそろ諦めようと心が折れかけた時。再び目にすることができたが、私は少し戸惑った。
その記事には、ジョナサンがペンドルトン家の一人娘であるエリナとの結婚が報じられていたからだ。二人の結婚を知った時、祖母はどんな気持ちだったのだろう。日記を書くのをやめてしまうほど、つらく、苦しかったのだろうか。
あと一週間分だけ見たら、もうやめよう。そう心に決め、翌日、翌々日の新聞を手に取る。さらに続けて見ていくと、2月8日の一面はその一日前、7日に起きた客船の海上火災事故について報じていた。何となく気になって読んだ記事だったが、私は目を見開き、何度も同じ行を読み直してしまう。
死亡者一覧の中に、ジョナサンの名前がある。先述の記事で二人は新婚旅行でアメリカに向かうと記されていたから、この客船の乗客だったようだ。唯一の手掛かりだったのに…と落胆しかけたが、妻のエリナは生存していることが分かった。
この、エリナという女性に会えば、何か分かるかもしれない。新聞を片付け、資料室を出て次に住所録の保管棚へと向かう。『P』のページを捲り続けていくと、幸いなことにこの地域でペンドルトンというファミリーネームは1件だけだった。
鞄からペンとメモを取り出し、住所をメモする。新聞のインクで汚れてしまった手のひらのことも、大きくなってしまう足音も気にせず、私は図書館を飛び出した。

住所を見る限り、私の住む家からそんなに遠くない場所だった。私はエリナという女性を知っている。ジョナサンと同じように、彼女の名前も祖母の日記で何度も目にしている。だけど彼女は私のことを知らない。いきなり知らない人間が訪ねてきたら追い返すかもしれない、祖母と同級生だからもう亡くなっている可能性もある。そういったマイナスな考えも浮かぶけれど、それでも私は今行かなければきっと後悔するような気がして、歩くスピードを速めた。

「ッえ、エリナ・ジョースターさんは、いらっしゃいます、か」
「……失礼ですがどのようなご用件でしょうか」

大きな扉をノックし、姿を現したのはきっとこのお屋敷の執事だろう。ぜえぜえと荒い息遣いの見知らぬ少女が訪ねてきたことに、眉を顰めているのが分かる。もっと、息を整えてからノックすればよかった…と後悔しながら、ここへたどり着くまでの道中で考えたそれっぽい理由を述べた。

「私の祖母とエリナさんは学友だったと聞きました。先日祖母が亡くなり、その報告と生前の頃お世話になっていたお礼をお伝えしたく、お伺いしました」
「…少々お待ちください。お名前は?」

祖母と自分の名前を伝えると、私の前から姿を消した執事の歩く靴音が少しだけ開いている扉の隙間から聞こえてくる。どうやら、うまくいったかもしれない。別に、嘘はついていない。ちょっと、それっぽく言い方を変えただけだ。私の祖母が死ぬ間際、あなたの夫に会いたかったと言っていましたなんて伝えられるわけがない。
程なくして扉の隙間が広がり「どうぞ中へ」と戻ってきた執事の声がしたので顔を上げる。会えるということで、いいのだろうか。分からないまま執事の後ろを歩き、応接間らしき部屋に通された。

どきどきしながらソファにちょこん、と座り待つこと数分。ドアの開く音に振り返れば、背筋がしゃんと伸びた高齢の女性が立っていた。この人だ。この人が、エリナに違いない。
ゆっくりと時間をかけ、だけどしっかりとした足取りで私の向かいにあるソファに腰掛けた彼女と目が合う。眼鏡の奥から覗く瞳が放つきりりとした美しい視線に、息をするのも忘れかけてしまった。

「初めまして。お会いできて嬉しいわ」

にこりと笑ってみせた彼女に、私は思わず立ち上がり頭を下げる。正直、彼女がここに住んでいるかどうかは賭けだった。本当に会えるかなんて分からないまま扉をノックしていたし、実際に彼女に会ったら何から伝えたらいいのかまでは、考えていなかった。

「突然のお伺い、お詫び申し上げます。ミセス・ジョースター」
「顔を上げて、座ってちょうだい。お茶を飲みましょう」

柔らかくも芯のある、よく通る声は祖母のものと似ていて、私は一度だけぎゅっと目を閉じてからソファに座り、姿勢を正した。それから、彼女がそうしたように、ティーカップを手に持つ。ほわりと湯気が立ち昇り、上質なベルガモットの香りがする。

「まずは、あなたのおばあ様…私の親友であった彼女に、心からお悔やみを申し上げます」
「生前は祖母がお世話になりました」
「それから、彼女の孫であるあなたに出会えたこと、とても嬉しく思うわ」

突然押しかけてきた私を快く迎え入れてくれた言葉に、この人が祖母の親友で良かったと、そう思った。ティーカップをテーブルに置き、鞄のベルトを外し、あの日記帳を取り出して彼女へと差し出す。いきなりで失礼かと思ったけれど、これだけは渡すタイミングを逃せない。
日記帳を差し出す私の不審な動きに、彼女もティーカップをソーサーへと戻した。そしてその表紙に視線を注ぎながら「それは何かしら」と質問されたので、私はさらに彼女に近づけるように、日記帳を持つ腕をぴんと伸ばす。

「祖母は息を引き取る間際、この日記帳の鍵を私に託しました」
「そう…でも、どうしてそれをここに?」
「あなたとの思い出が、たくさんここに書かれています。それから…」

あなたの御主人であるジョナサン氏のことも、とは言えなかった。口ごもる私に、次の言葉を促すように彼女の方から「ジョナサンとの思い出も?」と聞いてくれたので、ゆっくりと頷く。嫌な気持ちにさせてしまっただろうか。
少しどきどきしながら彼女の返答を待っていると、細く華奢な手が日記帳を受け取ってくれた。伸ばしっぱなしだった自分の両腕を離し、今一度姿勢を正す。

「私が、この日記を読んでもいいのかしら?」
「祖母の最後の願いだったと思います。この日記を、ミセス・ジョースターに読んでもらうことが」
「エリナでいいわ」

親友の孫だもの。そう言って笑う彼女は日記帳の表紙を捲り、視線を落とす。女学生だった頃の懐かしさを噛みしめるように、日記の内容に相槌を打ち、時折笑っていた。
紅茶のおかわりが運ばれてきても、昨日の私のように彼女は日記を読みふけっている。半分ほど読み終えたところで日記帳を閉じ「続きは寝る前に読むわ」とテーブルの上に置き、優しい手つきでその表紙をひと撫でした。
それからエリナさんは、先日までアメリカに滞在しており祖母の葬儀に参列できなかったことを申し訳なく思っているということ、明日にここを発つ予定であったこと、今日私がここへ来たことはきっと何かの運命であることを、祖母との思い出話と共に丁寧に話してくれた。
あと一日遅ければ。こんなに楽しい話を聞くことはできなかったと、私も自然と運命のようなものを感じてしまう。エリナさんの話をもっと聞きたい。そう思っても時間には限りがあり、扉をこんこん、と二回ノックする音と「奥様、そろそろ出発のお時間です」という執事の声により中断されてしまう。
思っていたよりも随分長い時間をここで過ごしてしまったことを謝罪すると、驚いたことにエリナさんは執事に悪態をついていた。それから、あと2分だけ待つようにと執事を部屋から追い出し、帰る準備をしている私の手を制している。

「あなた、今年の夏の予定は?」
「いえ、まだ。何も」
「そう、それはよかった。明日からカナリア諸島に滞在する予定なの。あなたも来なさい」
「…え?」
「7時に迎えを寄越すわ。あと、それから」

一気に早口で告げられるエリナさんの言葉を、忘れないようにと必死に記憶する。私の両親には後ほどエリナさんが連絡してくれる、着替えは5日分ほど用意すればなんとかなる、足りないものは現地で調達する、お金のことは心配いらない、あとは…エリナさんの孫も、一緒に過ごす。
最後はばたばたと追われるようにお礼のあいさつをして、次の予定のために車に乗り込むエリナさんを玄関で見送った。家までの帰り道、明日から急に始まることになったカナリア諸島での生活と、エリナさんの孫である人物のことを考え、わくわくした気持ちでいっぱいになる。
私と同じ年齢だと言っていた。きっと、エリナさんによく似た聡明で素敵な人なんだろう。早く会ってみたい。きっと仲良くなれるはず。



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