はじまりのうた

城戸さんに初めて会ったのは、週末の騒がしい居酒屋だった。

先月から計画していた大手商社とのコンパが漸く実現しそうと月曜日に営業課の同期から連絡があり、火曜日に同じ総務課の後輩を1人誘った。金曜はいつもより早く仕事を片付けて営業課の二人と合流し、神室町へ向かう。
出会いは多い方がいいとは思うけれど、本日の男性陣はここをキャバクラか何かと勘違いしていないか。自分は今どれだけ大きな仕事を任されているのかを熱く語り、AB型の女の子はエロそうとか、雑な弄りをしたり。同じタイミングでトイレに立った同期に、そう零してみた。

「でも将来有望だよ。高学歴で、大手勤めでしかもエリートコースらしいし」
「そうかもしれないけど…」
「一人名前のこと気に入ってる人いるじゃん。どうなの?」
「あんまりタイプじゃない、と思う」

もやもやした気持ちを残したまま、席へ戻ると勝手に席替えされていたようで。私の席の隣にはさっき話していた、押しの強いちょっと苦手な男性が座っていた。

「苗字さん、こっちこっち」

頼んでもいないのに、仕事でニューヨークに行ったとか趣味はゴルフとか30歳までに結婚したいとかをべらべら喋り出すので、ずっと作り笑顔で聞いているしかやることがない。そろそろ表情筋が固まりそうだ。

「ねぇ。この後二人だけで飲みに行こうよ」
「二次会でカラオケ行こうって、さっきあっちで話してましたけど」
「みんなのことはいいじゃん、ねぇ」
「ごめんなさい。上司からの連絡を折り返していなかったので、ちょっと電話してきます」

何とか言い訳を考えて抜け出した。トイレだとすぐに見つかりそうなので、ざわざわと騒がしい店内とは異なり、今はすっかり静まり返っている、ずらりと下駄箱が並ぶエントランスまで来た。
次はどう言い逃れようか。どうやって帰ろうか。そればかりを考えながら、ゆっくりと段差に腰を下ろす。今月で社会人も三年目に突入し、そろそろ彼氏も欲しいところだけど。 あんな人だけは、絶対に嫌だ。

「気分悪いの?」

聞き慣れない声が耳に届いた。顔を上げると、赤いスカジャンにちょっと明るい髪色の、やんちゃそうな男の人。

「水貰ってこようか」
「あの、大丈夫です。席が、嫌なだけで」
「ん?」

会社の同僚とコンパに来ていて、しつこい男性がいるので戻りたくないと理由を話すと「あぁー……そういうことか」と小声で言った後に彼は二歩下がってから煙草に火をつけた。

「席、どこにあんの」
「A-12っていう番号の個室です」
「……帰りたいんだっけ?」
「え?あ、はい。まぁ」
「俺さ、煙草無くなりそうだから買いに行こうと思ってたんだけど。いいや。一緒に出て駅まで送ってくわ」
「いいんですか?」
「うん。荷物って鞄だけでいいの」
「はい。茶色の、これくらいの」
「分かった。ちょっと待ってて」

名前も知らないその人は、スタンド型の灰皿に煙草を押し付けると店内へとすたすた歩いていく。角を曲がる前に、「あ」と言い体を少し反らして振り返った。

「名前、教えて」

フルネームで答えると「名前ちゃんね」と復唱した彼は曲がり角の先に消えていく。それからすぐ、すぱん! と勢いよく襖が開かれた音の後に一際大きな騒ぎ声がして、料理を運んでいた店員が足を止め、私たちのグループの席がある方を見ている。

「ぁ……」

私の鞄を持った彼が、曲がり角からこちらへ戻ってくる。本当に、取ってきてくれたんだ。

「ありがとうございます」
「んじゃ行くかぁ……あ」
「どうしました?」
「俺下駄箱の鍵、持ってねぇわ。取ってくるから先に靴履いて待ってて」
「はい」

彼が店の奥に進んで見えなくなると、入れ替わるように、私の隣の席に座っていたあの男性がこっちに向かってくるのが見えた。

「なんかチンピラみたいなやつが来て、苗字さんの鞄持っていったんだけど」
「はい、あの」
「これって窃盗だよね?大丈夫、今警察呼んであげるから」
「あの、ちょっと」
「俺が何とかするから、苗字さんは何もしなくていいから」
「ちょっと落ち着いてください」

アルコールのせいで気が大きくなっているのか、正義感を振りかざしたいのか。どうして、私にこんなに執着するんだろう。いつまで経っても自分に傾かないから、意地になってるとしか思えないその行動を制するため、携帯電話の画面を両手で隠そうとしていた時。

「名前ちゃん」

低く掠れた、ちょっとぶっきらぼうな言い方の声に振り向くと、携帯電話より少し小さいくらいの木札を手に持った彼の姿が見えた。

「お前、何なんだよ急に」
「帰りたいっつったから手伝ってるだけっすけど」
「彼女がそんなこと言うわけ無いだろう!ほら、早く戻るよ苗字さん」
「それはアンタじゃなくてこの子が決めることなんじゃねーの」

きゅ、と心のどこかが何かに掴まれて、小さな音を鳴らす。それは私にしか聞こえていない。会って間も無い男に自分がどんな女かを決めつけられても、意見することなく笑顔で何となくやり過ごしていた時間が馬鹿らしいものに感じるくらい。同じように会って間もないのに、彼の言葉はずっしりと心地良い重さで、いつまでも両手で抱きしめたくなるほど、私の心に留まった。

「私、帰ります」

鞄から出した木札をかちゃん、と鍵穴に刺すと、同じ音が斜め右上から聞こえてきた。

「おい!待てって!」

靴を履こうと少し屈んだ私の肩を後ろから男が掴もうとした瞬間、白い袖が、びっくりする程速い速度で私の頭の横を通り過ぎた。振り返らない方が良さそうだ。
痛いとか、離せとか聞こえてきたけれど、私が靴を履き終わるのを確認した彼はすっと腕を元に戻し、入口の方へと向き直った。
背中の方から何か捨て台詞のようなものが聞こえた気がするし、同期には何て説明しようとか色々考えたけれど、どうでもいいや。

彼と店を出たところで、改めてお礼を言う。 何でもないといった様子の彼は「新宿駅すか」と聞いてきたので、返事をして歩き始める。

「あの……」
「ん?」
「名前、聞いてもいいでしょうか」
「あー……そういえば。城戸武っす」
「きどさん……」
「うん」

やっと知ることのできた彼の名前を声に出してみる。それがどうしようもなく、嬉しくて。大切なものに感じて。これでおしまいにしたくなかった。

「何か、お礼させてください」
「あーいいって、そんな気ぃ遣わなくて」
「じゃあ、あの。煙草、私に買わせてください。そこにコンビニあるので」

ちょっと、強引過ぎたかもしれないと気付いたのは、城戸さんの驚いたような困惑した「え」が聞こえた時だった。これでは、あの男と変わらないではないか。

「煙草は自分で買うんで、あの。あーどうすっかな。やっぱお礼してもらおうかな」

見上げた城戸さんは、ちょっと長めの襟足の隙間から見える首の後ろを何度か掻いてから私を見た。

「俺奢るんで、今度。飯行きませんか」

はい、と返事をすると、会った時からずっと顰められていた彼の眉根がゆっくりと解かれ、ほんの少しだけ笑顔になる。それがあまりにも素敵で。
城戸さんにごちそうしてもらったらお礼じゃなくなっちゃいますよ。そう言うのが、ちょっと遅れた。


あれから、季節が一つ終わりを迎え、冷たいビールが恋しくなる頃には、城戸さんの赤いスカジャン姿を見ることは無くなっていたし、私の携帯電話のメールボックスは彼の名前で溢れていた。
待ち合わせの時間まであと10分。今日は何を話そうかな、何を一緒に食べようかな。来月の花火大会のこと、彼は知ってるかな。

今日こそは、好きって言えるかな。


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