蛇みたいにしゅるしゅると絡んでくる細くて白い腕が大きな音を立てて降っている雨以上に煩わしいと思った。 「ねえ士郎。私、今日傘持ってきてないの」 うん。それだけ言って、てかてか光る彼女の唇に目をやる。新作のグロスに縁取られたそれは、前はあんなに魅力的に感じていたのに、今では嫌悪感さえ感じてしまう。士郎、なんか冷たい。そう言ってきらびやかに光る唇をとがらせた彼女に、あ、そろそろ潮時かな、なんて思ってしまった。 「みいーちゃったー」 思ってもみなかった声に少しだけ動揺した。見れば女が1人、彼女が出ていったドアとは違うもう一方のドアの前に立っている。みられた。そう思ったけれど、少し考えてなに焦ることがあるのか、と。そんなことよりもチリチリと痛む左頬を擦った。確かに痛いけれど、パーではなくグーで殴られた割りには痛いとは感じなかった。 「あの子、今ごろあんたのこと待ってるよ」 「殴ったのに?」 「殴ったのに。絶対待ってるね。こーんな雨ん中でびしょびしょになってさ」 かわいそうにね、といった女は言葉とは裏腹に大層愉快そうな顔をしていた。よくよく見ればクラスの子だ。名前も知ってる。日本語しゃべり子ちゃん。だけど僕の知ってる日本語さんではなかった。彼女はどちらかといえばおとなしくて、こんな人をバカにするようなしゃべり方なんかしなかったから。何がそんなに楽しいのか聞いたら、楽しいんじゃなくて、おかしいのよと言われた。はて、僕らはそんなにおかしかったのだろうか。普通の人ならどちらかを慰めるのではないだろうか。僕には僕らをおかしいといった彼女のほうがおかしく思えた。すると彼女は続ける。 「遊ばれてるのにも気付かないあの子と、遊んでるのにも気付かないあんた。ね、かわいそうでおかしいでしょ」 ああ、そうか。彼女から見ればあの子も僕もひどく滑稽だったのだ。でもきっと彼女のいうように僕はまた遊び続けるだろうし、あの子も多分また遊ばれるんだろうなあと思ったら確かに可笑しいと思った。 「ね、僕と付き合ってみない?」 「バカねえ。あたしはそんなに暇じゃないのよ。それにあんたと付き合うくらいなら、その辺のオヤジとホテルにでも行ったほうが有意義だわ」 「そうかなあ」 「そうに決まってんじゃん。あんたならあたしじゃなくても、他にもいっぱい引っ掛けられるでしょ。それに、あたしとあんたじゃきっとダメよ。だって、」 僕の耳元まで来てささやかれた言葉に神経がマヒしたようなそんな感覚に陥った。電流が走ったみたいに痺れた感覚。だけどすごく甘い、そんなささやき。あたし、忘れ物取りに来ただけだから。じゃね。といって去っていく彼女の後ろ姿を見つめる。 だって、あたし、あんたのこと殺しちゃうかもしんないもん。そうささやいた彼女の顔は化粧なんかまったく施されてなくて、もちろん唇に新作のグロスなんかも塗られてはなかったけれどひどく艶めかしかった。 あ、そういえば初めて振られちゃったなあ。 魔女は跳ねる/110809 |