呼吸の続き








ふかく、ふかく。沈む感覚がわたしを包む。まるで底のない海に永遠と落ちているようだった。溺れているような慌ただしさはなく、ただゆっくりと沈んでいくわたし。そのとき、わたしは何処で、何を感じて、何を考えているのだろう。それを知りたくて、目を開けたら最後、気づけばベッドの上で、嗚呼、あれは夢だったのかと思い知らされるのでした。また、だ。


「しゃべり子ちゃん」
「…アーティ、さん?」


寝起きのわたしの顔を覗き込んできたアーティさんはなんだか切なそうに眉を下げ、て、あれ、どうしてアーティさんがここに…?ここは、わたしに割り当てられた部屋でしょう。だけど、目の前には確かにアーティさん。未だ覚醒仕切れていないわたしの頭はその疑問が無限ループしていて、次の瞬間、アーティさんのお腹から聞こえたのは虫の音。うーん。なんとなく、事情はわかった。気がする。






アーティさんは余程空腹だったらしく、つくったものを片っ端から平らげていきます。アーティさんが空腹限界まで食事を摂らないことは決して珍しいことではなく、それで倒れてしまうことはないけれど、こうして限界までお腹を空かせてから、ブルドーザーのように食すことはたびたびあることです。ひたすら食べるアーティさんを見ながら、わたしは先ほどの夢のことを考えました。しんとしてふかく沈む夢。いつかを境に、そんな夢をよく見るようになってしまいました。しずんでいく、ふかく、ふかく、ふかく、「しゃべり子ちゃん」ああ。アーティさんと視線がかち合いました。アーティさんはほほえんで、わたしも曖昧に笑い返します。そういえば、アーティさんと一緒に食事をするのは一週間ぶり、くらいでしょうか。今はアーティさんもわたしも制作中なので、お互い自分のことでいっぱいいっぱいです。偶然に会うということもなかったですから、顔を合わせたことすら久しぶりになります。にしてもアーティさんのがっつきっぷりは、この一週間ちゃんと食べていたのかという疑問をふつふつと沸き立てます。そんな食事中のアーティさんはフォークをとめ、うんんーと小さく唸り、わたしの眉間に指をあてておっしゃいました。


「しゃべり子ちゃん、つかれてる」
「わたし、ですか?そんなことないですよ?」
「だけど、ううん……ねーえ、今、なにをかいているの?」


わたしの眉間にあったアーティさんの指はいつのまにか左頬に移動していて、ふにふにと触れて少しだけこそばゆく感じました。「ねえねえ、なにをかいてるのー?」すごく知りたそうにしているアーティさん。わたしは口を開くことなく、また曖昧に笑いました。アーティさんは眉を下げて、切なそうな面持ちでこちらを見ます。あ、この顔は知っている。そうだ、朝一番にみたアーティさんの顔もこんな悲しげな顔をしていらっしゃった。「アーティ…さん?」声をかければ、泣きそうに顔を歪めておっしゃいます。「しゃべり子ちゃん。どこにもいかない、よね?」このときわたしはどんな顔をしていたのでしょう。どきり、としたのは確かで、アーティさんはその心音も聞き取ってしまったのか、よりいっそう顔を歪めてしまいました。


「眠っていたしゃべり子ちゃんがなんだか、きえちゃいそうで」
「どこにもいかないよね」
「ここにいて、僕と絵を描いてくれるでしょう」


もしかしたらこの人は、なんでもわかっているのではないか、と。アーティさん。そう、言いたかったわたしの声は空気が抜けたみたいにすかすかで、彼に届いたのかどうかわかりません。アーティさんはフォークもスプーンもなにもかも放って、わたしを抱き締めました。アーティさん、アーティさん、「アーティ、さん」やっと音になったわたしの声はきっとこの人を傷つけてしまう。


「わたし、帰らないと、いけないんです」


親が、いい加減絵なんか描いてないで帰ってこいって、就職しろって、先日手紙が届きました。もともと、アーティさんのところに弟子入りに来れたのは期限付きの約束だったんです。それまでにアーティストとして活躍できなかったら、…できなかったから、帰らないといけないんです。
事のあらましと、今制作しているものが出来たら出ていくつもりだったことを説明しました。アーティさんはさらに強く抱き締めます。だけど、どんな表情をしているのかわかりませんでした。帰らないといけないのかずっと聞いてこられましたが、約束は守るべきものです。帰って、必死に就職しなければいけないのです。ごめんなさい、アーティさん。ごめんなさい。しばらく謝りつづけるわたしをアーティさんは子供をあやすように背中をさすりました。そして、いつもの調子で切り出します。「あのときとは、反対だね」そのとき向き合ったお顔もいつも通りのアーティさんで、わたしは安心しました。


「じゃあ、就職、しよう?」
「しゅう、しょく、」


ですか?続くはずの言葉はアーティさんの唇に吸い込まれて、嗚呼、この感覚は知っています。あの夢に似ているのです。ふかく、しずむ、目を開けたら最後、いつもベッドの上の、あの夢に。わたしは目を開けるのがこわくてこわくて、また夢かもしれないなんて思うと、目を開けるどころかかたく閉じようとするわたしはなんて臆病なんでしょう。しゃべり子ちゃん。アーティさんが優しく名前を呼びました。おそるおそる目を開くと、前には無邪気に笑うアーティさん。


「僕のお嫁さんになってください」


また、深く口づけました。




深呼吸/101231

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