人間の身体の中の何割かは水でできているらしい。


いつか死ぬ筈の僕なのですからどうぞお気になさらず


背中にじわりじわりと浸食するような熱が張り付く。
はくはくと忙しなく吐く息も熱くて、背中から伝わった熱が肺を侵しているような錯覚にふと感覚を拐われそうになった。
「栄ー、生きてるかー。」
耳鳴りが鳴り止まない鼓膜に、気の抜けたウイスパーボイス。
熱に浮かされた中での囁き声に眉を潜めると、乾いた笑いが背後で揺れた。
本当に不本意だが、今背後から俺の身体を抱き締めているコイツの声に安堵する。
「…勝手に…。」
殺すな、と言いかけて、口の中が乾燥して上手く発音出来なかった言葉がぼろぼろと崩れ落ちる。
マウンドの真ん中、午前2時ジャスト。
いつだってあの瞬間から張り詰めたまま切れることのなかった涙腺が、まるで蜘蛛の糸のように伸びて使い物にならなくなって引きちぎられた。
あの夏を自分の左手で潰してしまってから、一体地球は何回周り何度夜を迎えただろう。
一時期自分の弱さを受け入れきる事が出来なくて、空っぽの心臓を機械的に動かしながら過ごした時もあった。
だがあの頃とは違う、今の自分は違うのだ。
先を見て、背中の重みを知って、もう弱気になれないのだと悟った。
だからこそ練習には倍の時間を要したし、オーバーワークすれすれでもそれなりに身体を休めたりした。
発達途中の自分の身体は薄っぺらくなんと頼り無い事かと嘆いたりもしたが、がむしゃらに進むしか自分の道はないと思い直して。
そう頭で何度も思考を巡らせると、ふと左胸がずぐずぐと痛んだ。
心臓を鷲掴みにされたみたいな痛みに眉間がじわりと熱を持つ。

「…っ…く…。」

気が抜けて漏れそうになった嗚咽と悲鳴を思わず奥歯で噛みきる。
泣く事なんか許される筈ない。
自分より先輩達はもっともっと悔しいし、もっともっと無念でならないのだ。
表面張力に負けて次に流れ出ようとする滴をなんとか眼球に引き戻して、相手の束縛に身を捩る。
「離れろ…。」
「…いーやー。」
くそ、可愛くねぇんだよ語尾伸ばしたって。
内心舌打ちの嵐だが、体格差で後から抱き込まれた自分の身体はさっきの大暴れという抵抗でぐったりと力が入らない。
なのに相手の腕は抱き込まれた時よりも力が強くなっている様で、それがなんだか悔しかった。
何度かノーガードの身体に本気の肘鉄やら蹴りやらを食らわせ、がむしゃらに振り回した手で眼鏡を吹き飛ばしたりしたのに、コイツは呻き声ひとつ上げずに離れようとしない。
「離れろって…。」
「だからやだって。」
「みゆき…!」
「離れない。」
…だから、コイツは苦手なんだ。
泣きたいわけじゃない、弱味を見せたいわけじゃない。
ただ夜中に刹那の鋭さを帯びたバッター達の瞳を思い出して怯えてしまった自分に、再度マウンドという戦場を胸に刻み付けたかっただけなのに。
なんでこうもタイミング良く現れて、俺を抱き締めたりするんだ。
その上「いや」とか「離れない」とかそれ以上の言葉を言おうとしないから、それが辛くもあり…投手としての今の自分に恋人としてではなく、捕手として接してくれようとする甘えの無い沈黙が救いのように思えたりする。
これで「気にすんな。」とか「元気出せ。」とか恋人という立場で御幸が言葉をかけていたら、顔面をぶん殴って関係は終わっていただろう。
だけど妙に勘の鋭いこの男はこうやってきっちり線引きをしながらも、崩れ落ちる寸前に追い詰められた俺を奮い立たせようと側に寄り添うのだ。
いつの間にか噛みきったはずの嗚咽も引っ込めたはずの滴も全部全部だだ漏れで、畜生、もうわけがわからない。
「あ…あぁ……ぁ…。」
情けなかった。
苦しかった。
背中が重くて熱くて仕方無かった。
あの目から逃げたかった。
なんだかマウンドで1人な気がした。
それ全部引っ括めてそう思ってしまった自分を殴りたかった。
恐怖した過去を塗り潰す為に無理矢理前を向いたフリをした。
ドクドクと鳴る心臓を無視した。
そうしたら投げられなくなった。
また目を反らした。
「…よしよし。」
この人達に恥じない人間になりたいと、強く強く願ったのに。
それを自分から裏切ったことを認めたくなくて。
もういっそ、身体中の水分が流れ出て干からびてしまえばいいのに!
そんな事を泣き叫んだ様な気がする。
「だめ。」
よしよしと頬を撫でていた指が、ぐっと俺の唇を押して言葉を潰す。
威圧的な程の力なのに、抱き締められる強さと変わらない気がしてなすがままに唇を閉じた。
「逃げんな。」
「なにがあっても逃げ出すな。」
「立ち止まるななんて無理なの分かってるから。」
「せめてお前が後ろ向かねぇように一緒に這ってでも前に行くから。」
「お前だけ逃げ出すなんて許されると思うな。」
突き放された、と思うにはあまりに優しくて。
慰められたと感じるにはあまりに辛辣だった。
だけどしゃがみこんで沈みそうだった俺の身体を引き上げるには充分で、嬉しいのか苦しいのか分からないまままた泣けてきた。
馴れ合わない、傷を舐め合わない、生暖かい関係なんか望まない。
今俺の背後にいる御幸の言葉は、確かに正捕手で、先輩で、キャプテンで。
その求めた言葉は俺の背中をしっかり叩いて起き上がるきっかけを作ってくれたけど。
だけど抱き締める腕たったひとつだけが暖かい御幸一也だった事に、ちょっとまた泣けてきた。

嗚呼、大丈夫。
俺はまだ、コイツの前で投手で居られる。

マウンドのど真ん中。
午前2時28分。
俺は、まだ投げられる。



リタイアなんてさない
気にするななんて無理な話




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