時折、音が消える世界に身を置いてしまうことがある。



君のコエ その他ムオン



無音の、世界。
迫り来るようにはるか遠くから耳鳴りがして、それが徐々に自分に近付いて最大まで大きくなるとふいに音はピタリと止まる。
僕の世界のありとあらゆる全ての音を道連れにして、消えてしまうのだ。
いつから、なんて覚えていない。
生まれてからか、小学生からか、はたまた中学からか…。
たしかなのはこれは青道に来た前から始まっていたって事だけ。
それでも青道に来てからその世界は影を潜めるようになったし、ふいに無音の感覚を忘れてしまったりしていた。
けれど、またあの世界は忘れた頃にやって来て音を消すのだ。
英語の授業中。
食堂での食事の中。
ピッチング練習の最中。
黒板を叩くチョークの音が。
忙しなく響く食器の音が。
重く鳴るミットの音が。
まるで自分だけ世界から切り離されてしまったかのように、消えて。
そして何事もなかったかのようにまた戻っていく。
波が引くような静けさの中で、戻った音に僕は戸惑うのだ。
長くあの世界に慣れすぎたせいか、今自分がここにいていいのか酷く不安になって立つことが不安定になる。

ぐらぐらぐらぐら…。

ピッチングを生まれて初めて練習した時、片足を上げて静止することが困難で身体を揺らしてしまった時のようだった。
違和感に支配される。

僕の世界は、どこ?

ザァァァァァァァ…。

ふっと目が醒める。
不快な目覚めでもなく強制的な起床でもなく。
ふわり…と引き上げられたような覚醒。
ぼぅっとまだ頭が回らないまま、寮の部屋に設置された二段ベットの上の段を見る。
底の板の木目に目をさ迷わせて、動くことなくじっとしていた。
雨の音が時計の秒針の音と共に静かに部屋に響く。
人はこれを静かだと言うのだろうか。


―――――…。


…消えた。

重い身体を上半身だけ起こして耳を澄ませてみる。
さっきまで聞こえていた雨音が、先輩達の寝息が、時計の秒針の音が。
ぷっつりと、消えたのだ。

『あ…また。』

内心またかと思いながら、ゆっくりとベットから這い出す。
シーツの音すら聞こえないのだからなるべく慎重に動いて先輩達を起こさないように気を配る。
音が聞こえないイコールどんな騒音も把握できないということなのだから困る。
『先輩達…起こすと怒るから…。』
そう思ってしまえばなんとなくその場に居づらくて、気が付いた時にはもう部屋の外に扉に凭れて突っ立っている自分がいた。
雨は止まない。
未だ降り続ける雨はなんとなく冷たい空気を運んでくるようで、音がなくとも激しく世界を叩きつける姿はいっそ清々しかった。
一歩、踏み出してみる。
寮の廊下のコンクリートが雫で濃くなっているのを見下ろして、また一歩。
丁度三歩目くらいに頭上の屋根が無くなって、空から零れた雫は身体に容赦無く水を叩きつけてきた。
冷たい、けれどどこか嘘くさい。
ため息を吐いて、また一歩。
勢いは変わらない。
一歩。
『…なにやってんの、僕。』
心の中で呟いた言葉はじわりと不安という染みを作ってまた奥深くへと消えていく。
じわじわと広がってくる染みはきっと疑念。
きっと信じられないのだ。
音がないというだけでこんなにも世界が不確かな事に。
…いや、不確かな自分の存在が。
切り離された世界。時折感じる違和感。
痛みにも似た無音。
キィン…と遠くから耳鳴りがなって、その唐突さに頭を押さえる。

ザワザワ…ザワザワ…。

無音…?

いや違う。

『なに…これ…。』

頭を垂れると浴びた水が重さからか前髪から滴り落ちる。
雨は止まない。
遠くからざわめきが聞こえる。
なんだろう…ザワザワ…。
神経を集中させて耳を今一度澄ますと、いきなりゴゥッという大きな音の波に飲み込まれた。





『お前、なんなんだよ。』
『こんな怪物となんか野球できるかよ。』
『悪い、降谷…先輩がお前とは関わるなって。』
『お前そんな事してて楽しいのかよ?』
『降谷、お前ももうちょっと協調性ってものを学べ。』
『お前は練習しなくていい。』
『いいよなー、天才なんだろ?』
『俺達のレベルじゃついてけねぇんだよ!』
『降谷くん、なにか悩み事でもあるの?』
『頼む、もう俺達と関わらないでくれ…。』
『生意気なんだよお前!』
『黙ってちゃ先生分からないわ。』
『ンな練習して馬鹿みてぇ。』
『どうせチーム入れてもらえねぇんだろ?』
『お前といると俺達まで先輩に目ぇつけられんだよ!』
『もーいー、お前もう喋るな。』
『お前が…お前さえいなかったら…。』
『俺達は楽しく野球できたのに。』





「…ッ?!」

音の波が無防備な身体を力いっぱい殴り付けた。
悪意、劣等感、皮肉、偽善、犠牲。
故郷の北国で受けたものたちがフラッシュバックする。
頭がガンガンと警報を鳴らしているのに、耳を塞いで音を遮断することができない。
雨音が聞こえないかわりに、たくさんのコエがぐるぐるとまとわりついて離れないのだ。

『聞きたくない…。』

あれ…?

この感じ、どこかで…。

『聞コエナイ。』

…思い、出した。
中学の、野球が出来なかったあの辛い時期。
当時無意識に塞いで拒否していた言葉たちが、今更になって無視をするなと現れているのだ。
無音、なんてありえない。
そうだ、ただ自分が耳を塞いでいただけの事。
世界から切り離されていたんじゃなく、僕自身が世界を否定しただけ。
『あれ…僕ってこんなに弱かった…?』
今更になって気付くその事実に、思わず膝をついて崩れ落ちた。
未だ聞こえる罵倒する声。
なんだか、もう辛さも痛みも通り越して息が出来なくなってきた。

音に、溺れる。

流されて、消えてしまう。








「降谷ぁ!」








『…え?』

ザワザワと鳴り続けていた罵声がふわりと溶けたみたいに綺麗に消えて、頭にたった1つの声が響いた。
『さわ…むら…。』
それは同じ学年の、自分とは正反対な太陽の様な少年。

「降谷ッ!」

『おかしいな…雨の音は聞こえないのに…沢村の幻聴が聞こえる…。』

あのいつもの煩いくらいのアルトトーンが今は何故か心地好くて、崩れ落ちた膝立ちのその体勢から力が抜けて倒れてしまいそうになる。

『それでも、いいかもしれない。』

この心地好い気分のままなら、もうなんだっていい気がした。
思えば無音の世界が去るのは必ずと言っていいほど沢村が声を張り上げ自分を呼ぶときで。

『そう…それで、振り返ったら君は…。』

『笑ってて…。』



「しっかりしろ!降谷!」



「………え?」

倒れてしまいそうになった身体が重力に反してふいに停止した。
ずぶ濡れで冷えた自分の身体で何故か左腕の一部だけが暖かくて強くぐいっと引かれる。
「さわ…む…ら?」
「おま…バカか?!なにやってんだ!」
ザァァァァァァァァ…。
振り向いて沢村の顔を認識したと同時に音が戻り、降り続ける雨の音が耳を貫いた。
「なんで…。」
ぽかんとして見上げれば、頭からびしょ濡れで前髪を額に張り付けた沢村の零れそうな大きな瞳がいつもより鋭い眼光でこちらを睨んでいる。
「なんでじゃねぇ!なにやってんだよお前!肩冷やしたらどうすんだ!」
自身の肩にかかっていたタオルを気休めにしかならないのに僕の右肩にかけながらぐいっと再度沢村は強く腕を引っ張った。
自分よりも幾分か小さく細い腕なのに思いの外力が強い事に驚いて僕はただなすがまま。
そのまま僕をずるずると無理矢理引きずるようにしてなんとか寮の廊下の屋根の下へと移動した沢村は、まるで僕が逃げるんじゃないかと思っているかのように腕を離さない。

沈黙。

無音ではないけれど、雨の音だけが響いた沈黙はなんだか居心地が悪くて沢村がなにか話すのを願いながらじっと顔を見つめた。
ぽたり、とさっき見たコンクリートが水滴のせいで斑に模様付いていて水溜まりを作り出す。
あまり気にしていなかったがかなり長い時間あそこに立っていたらしい。
寒さは感じないが沢村の言う通り肩の状態は心配だった。
「なんで、あんなトコいたんだよ。」
ゆっくりと沢村の唇が動いて、気を抜けば雨音にかき消されてしまうくらいの声がぽつりと聞こえた。
「…さわ…。」
「心配させんな…。」
ぎゅうっと力が込められた左腕が熱い。
「…うん。」
「ったく…。」
呆れたようにため息をついた沢村の近くに、中がぶくぶくと泡立ち毒々しい程のオレンジを発光させた炭酸飲料のペットボトルが転がっていた。
きっと喉が渇いて自販機にでも買いに来たのだろう。
その帰りに雨の中佇む自分を発見したものだから慌てて放り出したに違いない。
じっとコンクリートに転がったペットボトルを見つめていると沢村もちらりとそっちに視線を寄越した。
表情は一瞬曇ったが彼の中でどうでもいいと判断されたのか直ぐさまくるりと顔がこちらを向き視線がぶつかる。
真っ直ぐで澄んだ視線は声を発さずとも自分に「なにがあった」と問い掛けてきて、沈黙は許してはくれないのかその瞳が揺らぐ事はない。
「野球、やりたい…。」
ふっとコップの水が溢れたみたいに零れ出たそれは、心からの願いだった。
きょとんとした顔がまじまじと覗き込んできてくすぐったいような嬉しいような感情に支配される。
まぁ、それを顔に出せてはいないんだろうけど。
「なーに難しい顔してんだよ!」
それでもうりっ!と眉間を突っついてくる沢村には僕の心境なんてお見通しなんだろう。
分かりにくくても果てしなく優しい指先と慈しむような目が柔らかく僕を包み、滴り落ちた水滴がまるで僕の為に泣いてくれているようで綺麗だ。
「できるよ、降谷。」
そう言った沢村に自分の過去を詳しく話した事はない。
それでも全て分かっているみたいにそう言う彼が愛しかった。
「青道には、お前と俺達のグラウンドがある。」
だから心配しなくていいんだ。
ふわりと背伸びした彼に頭を抱き抱えられて慌てて腰を落として身長を合わせる。
それににっと笑ったらしい沢村はゆっくりと小さな手で頭を撫でてくれている。
子供扱いのそれに君は僕の母親かなにか?と一言言ってやろうとしたけれど込み上げてきたなにかによってそれは叶わなかった。
熱くじくじくとした熱が鼻につんっとせり上がってきて、視界がぐらりと水の膜を張る。
当時いくら辛くても溢れ出る事のなかったそれに多少戸惑いながらも、放出される水滴を止めようと抵抗はしなかった。
じわり、と沢村のTシャツが水滴を吸いとるのに、それは本当に止まる事なく後から後から流れて来る。
情けないとか見られたくなかったとかそんな感情一切かなぐり捨てて、みっともなくても今はすがっていたかった。
冷たい雨に濡れていた筈の頭に暖かい水滴がぽたりぽたりと落ちるのは泣き虫な彼の涙なのだろうか。
二人して雨と共に滴を流して、それでも心には互いへの止めどない想いが溢れて身体は熱かった。
「耳、もう塞ぐなよ。」
「え?」
「お前、たまに耳塞いでぼーっとしてるから。」
「そう…なんだ。」
「気付かなかったのかよ?」
「うん。」
「お前なぁー…。」
がっくりと力を抜きながら呆れたようにはぁ、と息を吐く沢村を今度はこっちからぎゅっと抱き締めた。
暖かい、トクトクという心音が聞こえてまた無性に泣きたくなった。
「今度も…。」
「…?」
「お前が耳塞いでたら俺が声かけるから…。」
「…うん。」
「だから、黙って一人で泣くなよ?」
「…うん。」
そう呟くように言葉を紡いだ彼の声は、優しすぎるくらいに暖かくて、それでいてまた泣きたくなってしまうくらい強かった。


雨音が強い夜に君は消せない言葉をくれた。



その言葉以外の音なんて無意味だ



11月20日にホントは上げたかった降沢…てかむしろ降沢ですらない?!;


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