揺れる機微に触れて
「これで奏撫さん、と読むんですか」
「ちなみにテツヤは…こう書くの!」
「なるほど、いろいろあるんですね」
「文字にも種類があって、この国だと平仮名に片仮名、漢字とか数字とかね。国が違えば言葉も文字も変わるんだって」
「そうなんですか…。使いこなせる気がしません」
「あはは、大丈夫。私も自国語ですら分からないのたくさんあるし」
奏撫さんとの時間はとても不思議な感情で満ち溢れていた。もっと話していたい、時間が止まればいいのに。そんな思いが胸の奥からふつふつと湧いてくる。これを具体的な言葉で何と表すのだろう。物知りの奏撫さんに聞けば、教えてくれるだろうか。
「奏撫さん…」
「わっもうこんな時間だ!また明日ね」
「あ、はい…」
煮え切らないまま別れてしまった。けれど奏撫さんは「また明日」と言った、いつものように。彼女はまた来てくれる。こんな薄暗い牢へ、僕に会うために。
明日が、待ち遠しい。
「確か…こんな感じでしたね…」
角に生えていた草の歯を千切って床に押し当て、記憶を辿りながらずりずりと葉を滑らせてみる。
似てはいるが、しっくりこない。何度も書いては消しを繰り返している内に正解が分からなくなってきてしまった。。
「うーん、上手くいきませんね…。明日もう一度教えてもらうことにしましょう」
自分が書いたふにゃふにゃのそれを眺めていると、いつの間にか眠ってしまった。
迂闊だった、と今でも思う。以前の自分ならまず犯さない失態。いや、そんな軽い言葉で片付けてはいけない、大過だった。
―――――
夢を見ていた。
僕と奏撫さんが眩しい朝日に向かってしとしとと降る雪の中を歩く。話の内容はぼやけているが、二人とも楽しそうに笑っている。そこに小鳥が飛んできて、ボソリと背筋の凍るような冷たい声で囁いた。
『逃げられると思ってるのか?』
「…!」
目が覚めたのは不気味な夢のせいなのか、はたまた人間が近づく気配を感じ取り身体が危機を察知したからなのか。建物の重い扉が開き、複数の男達が入ってくるのと天井を見上げたのは同時だった。
「さて、朝の儀式といきますか」
「有り難く思えよ?俺達人間様が相手してやるんだからなぁ」
「………」
「っんだよその目はぁ!!」
「ぅぐっ…!」
繰り返され過ぎたいつものそれを、僕は“イヤだ”と思い始めていた。
僕にとっての日常は、一人で呆けているか男達に暴力を受けるかのみで、そこに感情など存在していなかった。あった所で自分の運命を呪うだけで無意味だ。
思いには必ず裏が存在する。
“楽しい”と思うのは“つまらない”を知っているから。“美味しい”と感じるのは“不味い”ものを食べた経験があるから。
感情を持つのはいつでもそうでないと区別出来る感情を複数所有することで成り立つのだ。
「ん?ちょっと待て。床の…なんだコレ…こいつらが使ってる文字か?」
「!!!」
「どれ…。これ漢字じゃないか?汚ぇけど。……!?」
「どうした」
「もしかして“奏撫”じゃないか…?」
「なっ!まさか奏撫様の奏撫だってのか!?そんなバカな…いやでも、だとしたら一体こいつ…!?と、とにかく報告だ!」
「あ、あぁ!」
“イヤだ”と思ったのは僕が反対の感情を持つ時間が生まれていたからだ。
20130524