好転の兆し


「…痛い?」


涙を拭う素振りも見せないまま、女は問いかけた。人間の言葉を発してしまった今分からないフリをするわけにもいかない。…結局従うしかないのだからフリも何もあったものではないが。


「はいと答えるべきですか?それともいいえと答えるべきですか?」


あまりにも流暢に言葉が並んで僕自身驚いた。女も驚いてはいたが、言葉は話せる前提として考えているらしい。驚いた内容はどうやら僕とは違うみたいだ。


「痛いに決まってるよね、そんな傷だらけで…。私にもっと力があれば自由にしてあげられるのに…」
「…?」
「もうちょっと、待っててね。今はご飯を食べて元気をつけよう!傷も早く直さなくちゃだしね」
「僕は食事をしても人間のように生きる糧にはなりません。傷なら勝手にふさがります、ほら」
「ほ、ほんとだ…」


枷をされていない足を動かして女の前へ移動させる。引っ掛かれたような傷は目に見える早さで回復している。僕にとっては当たり前の自然治癒能力を女は食い入るように見つめ感心していた。「便利だね」と女は言ったが僕はそうは思えない。つけられた傷の跡さえ残らない皮膚は、無限ループに嵌められた憐れな感覚に毎朝突き落とされるからだ。


「はい、あーん」
「なんですか?」
「あーえと…お口開いてください」


言われた通り口を開くと女が何かを運んできた。昔々に仲間がしていた動作を思い浮かべ、真似して咀嚼、そして燕下する。異物感に吐き気を催したが不思議と嫌な気分ではなかった。運ばれる度に咀嚼と燕下を繰り返し、皿が空になると女は満足そうに頷く。


「今日はそろそろ戻らないと…また明日来るね」


ひらりと手を振って、女は辺りを気にしながら牢屋を去った。どうも腹部が張り詰めている。これが満腹という現象だろうか。小窓から見えた外の世界はすっかり夜で、寝転ぶと心地よい睡魔に包まれた。痛み以外から来る睡魔は、ここに閉じ込められてから初めての経験だった。





+++++


「テツヤ、ってどうかな?」
「テツヤ?」
「うん!あなたの名前だよ。昨日ないって言ってたから考えてみたんだ」


女は宣言通り翌日も、その翌日も次の翌日も、もう何日も連続でここに来ていた。毎日同じ時間に同じ食器を持って現れる。その間も僕を痛め付ける行為は続いていたが、そんなことはどうでもいい。今はこの日常の変化の方が僕には重要だ。


「いいと思います」
「じゃあ今日からテツヤね!改めてよろしく」
「はい」


伸ばされた手を軽く握ったら力強く握り返された。前に力があれば、と呟いていたが十分あるんじゃないかと言ったら「どういう意味だ〜!」と更に力を込められる。そこで自然に笑みがこぼれるくらいには僕達は打ち解けていた。


「時間だ、また明日」
「はい。また明日」


振られた手に振り返す。女は立ち上がり重い扉を半分開いて「あ」と小さくもらし戻ってきてしゃがんだ。


「奏撫、東雲奏撫。私の名前だよ、じゃあねテツヤ」


急ぎ足で去る背中を見つめ、やがて誰も居なくなった独房で一人考えてみる。人間には言語の伝達手段の一つに“文字”があるそうだ。それは出会った人間が平等に知識を共有していて、書いた文字を読むことでその場に居なくても会話が可能らしい。なんて便利な代物だろうか。

今まで一度だって気にかけたことはなかったけれど、初めて自分から人間の文化に触れたい。そう思った。

20130302
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